第30話 熱狂
昭和二十九年(一九五四年)二月十九日 東京・新橋
駅前の広場は、日が暮れる前から、人で埋め尽くされていた。
背広の勤め人。前掛けをつけたままの魚屋。赤ん坊を背負った母親。学生服の少年たち。肩車をされた子供。復員服の男。数千の群衆が、広場の一角に据えられた、たった一台の受像機を見上げていた。
高い台の上に置かれた木箱の上には、菱形を三つ組みあわせた商標が、でかでかと掲げられていた。三友電機。
その台の脇に、背広姿の男が二人、並んで立っていた。一人は松木、もう一人は、三友電機の宣伝部長だった。
「ご覧なさい」
松木が、群衆を眺めながら、穏やかに言った。
「今夜、東京じゅうの街角で、同じ光景が見られます」
宣伝部長は、群衆の熱気に気圧されたように、眼鏡の奥の目を瞬かせていた。
画面が、明るくなった。
蔵前の国技館のリングが、白黒の粒子の中に浮かびあがった。群衆が、一斉にどよめいた。
同じ夜 東京・蔵前国技館
リングの上で、シャーク兄弟のジャックが、政木の胴に腕を回していた。台本では、ここで政木が一度投げられ、苦しむ場面だった。
ところが、ジャックが腰を入れた瞬間、政木の体が、するりと沈んだ。
次の刹那、ジャックの二メートル近い巨体が、宙に舞っていた。背中から、マットに叩きつけられた。館内が、一瞬、静まり返った。
政木は、倒れたジャックの腕を取り、膝で首を押さえこんだ。ほんの、一、二秒のことだった。ジャックの顔が、本物の苦痛に歪んだ。
政木は、すぐに手を離した。何事もなかったように立ちあがり、台本どおりに、ジャックに背を向けた。
館内が、割れんばかりの歓声に包まれた。
リングの外で出番を待っていた信格は、その一部始終を見ていた。
観客には、見事な投げ技と、それだけのことに見えただろう。けれど、信格にはわかった。あの一、二秒、政木は本気だった。台本の隙間に、ほんの一瞬だけ、本物の殺気を差しこんだのだ。その気になれば、あのままジャックの腕を折ることもできた。
信格の背筋を、冷たいものが走った。
もし、あの男が、自分に向かって本気になったら。
ゴングが鳴り、信格の出番が来た。信格は、その考えを振り払うように、リングに飛びこんだ。
すべては、台本どおりだった。
最初は、兄弟が反則を繰り返し、信格と政木を痛めつける。観客が、怒りの声を上げる。そして、信格の反撃が始まる。
信格の手刀が、ビルの胸板に、首筋に、次々と叩きこまれていった。ビルが、大げさにのけぞり、ロープまで吹き飛んでみせた。館内が、地鳴りのような歓声に揺れた。
「力王山! 力王山! 力王山!」
信格は、リングの上で、両腕を突きあげた。
一万を超える観客が、総立ちで、自分の名前を叫んでいる。アメリカの大男を、日本人が叩きのめしている。その日本人の正体が、朝鮮の農家の末っ子だとは、ここにいる誰一人、知らなかった。
同じ夜 東京・上野
上野の駅前の受像機の前にも、黒山の人だかりができていた。
その群衆の一番後ろに、秀貞は立っていた。
料理屋の仕事を抜け出してきたのだった。前掛けをつけたまま、背伸びをして、人々の頭の向こうの、小さな画面を見つめていた。
画面の中で、シンラックが、両腕を突きあげていた。周りの群衆が、狂ったように叫んでいる。
「やっちまえ、力王山!」
「大和魂だ! 日本人の誇りだ!」
「毛唐を、ぶっ殺せ!」
隣にいた初老の男が、涙を流しながら、秀貞の肩を掴んで揺さぶった。
「見たか、姉ちゃん! あれが日本の男だ! あれが、大和魂だ!」
秀貞は、黙って頷いた。画面の中のシンラックを、ただじっと見つめていた。
この群衆の中で、あの男の本当の名前を知っているのは、自分だけだった。
秀貞は、前掛けの端を握りしめた。誇らしいのか、悲しいのか、自分でもわからなかった。
三日後 東京・蔵前国技館の控室
三日間の興行は、台本どおりに終わった。初日は勝ち。二日目は、流血の引き分け。三日目は、時間切れの引き分け。
控室の前には、記者たちが詰めかけていた。
「力王山さん! 街頭テレビの前で、興奮のあまり倒れて亡くなったお年寄りがいるそうです!」
信格は、汗を拭く手を止めた。
「新宿の駅前で、群衆に押されて……心臓が止まったと。一言、お願いします!」
信格は、ゆっくりと顔を上げた。目に、うっすらと涙を浮かべた。本郷に教わった、間の取り方だった。
「……私の戦いが、それほどまでに、国民の皆さんの胸を打ったとは」
声を、震わせた。
「胸が、痛みます。その方のぶんまで、私は、これからも戦いつづけます」
記者たちが、一斉に鉛筆を走らせた。信格は、深々と頭を下げ、控室の中へ引っこんだ。
扉が、閉まった。
信格は、頬の涙を、手の甲で乱暴に拭った。
「馬鹿じゃねえか」
控室の隅で、天道と若い衆たちが、黙って顔を伏せていた。
「作り物の喧嘩を見て、心臓止めてくたばるなんてよ」
信格は、ソファにどさりと腰を下ろし、煙草に火をつけた。
「ま、それだけ、俺の嘘が上出来だったってことだ」
紫煙を、天井に向かって吐き出した。
「おい、天道」
「はい」
「松木の旦那に言っとけ。もっと、テレビを増やせってな」
天道が、にっこりと笑って頷いた。その手が、背広の内ポケットの帳面に、そっと触れた。
同じ夜 東京・新橋
人の消えた駅前の広場で、三友電機の宣伝部長が、手帳を開いていた。
『受像機の注文、三日で二百十二台』
宣伝部長は、その数字の下に、二重の線を引いた。隣で、松木が、穏やかに微笑んでいた。
「来月は、千台を目指しましょう」
「……力王山という男は、大したものですな」
宣伝部長が、感嘆したように呟いた。
松木は、眼鏡の位置を指で直した。
「ええ。よく売れる看板です」




