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第29話 接待

 昭和二十九年(一九五四年)二月 東京・羽田


タラップの上に、二人の巨人が姿を現した。


金髪を短く刈りこんだ、二メートル近い大男が、二人。肩幅は扉の幅いっぱいで、分厚い胸板が、コートのボタンをはち切れさせんばかりに押しあげている。ジャックとビル。アメリカで名を馳せた、シャーク兄弟だった。


滑走路の脇に詰めかけた記者たちが、一斉にフラッシュを焚いた。


「力王山さん! こちらへ!」


「兄弟を、睨みつけてください!」


カメラマンの注文に応えて、信格はタラップの下で腕を組み、兄弟を見上げて、眉間に皺を寄せた。兄弟のほうも心得たもので、拳を振りあげて、歯を剥き出してみせた。フラッシュが、さらに激しく焚かれた。


翌日の新聞の一面には、大和魂、アメリカの鮫を睨む、と躍るはずだった。


写真を撮り終えると、兄弟はすぐに表情を崩し、信格の肩を叩いて笑った。


「Good job, Riki. Nice face」


信格も、笑顔で握手を返した。記者たちには見えない角度で、深々と頭を下げながら。


その隣に、もう一人の男が立っていた。


背は、信格より頭ひとつ低い。けれど、首が異様に太く、黒い外套の下の体は、鋼を何重にも巻きつけたように、硬く締まっていた。


不思議なことに、その耳だけは、少しも潰れていなかった。寝技で鳴らした柔道家の耳は、たいてい、餃子のように膨れあがっている。それが、この男の耳は、生まれたままのようにきれいだった。二十年近く、誰一人として、この男の頭を畳に押さえつけたことがないのだ。


それが、政木だった。


戦前から鬼と呼ばれ、十数年にわたって一度も負けなかったという、柔道の王者だった。三年前には、地球の裏側のブラジルに渡り、柔術の名門一家の当主と、台本などない真剣勝負で戦った。寝技で相手の腕を捻りあげ、骨の折れる音がしても、相手が降参するまで、決して離さなかったという。


政木は、フラッシュにも、兄弟にも、目もくれなかった。ただ、腕を組んで、遠くの滑走路を見つめていた。


撮影が終わると、政木は、信格のほうを、初めてちらりと見た。


「……あんたが、相撲上がりの」


低い、乾いた声だった。


「よろしく頼む」


差し出された手は、ひどく硬かった。握り返した瞬間、信格は、指の骨が軋むほどの力を感じた。アメリカで台本どおりに勝ちつづけてきた手とは、まるで違う手だった。


政木の目は、少しも笑っていなかった。見世物屋が、と、その目が言っていた。


その夜 東京・赤坂 キャバレー


キャバレーの一番奥の、仕切られた席だった。


シャーク兄弟と、米軍の将校が三人。それに、ロサンゼルスから来日したパワー本郷が、ちょび髭を撫でながら座っている。その真ん中で、信格は、ウイスキーの瓶を両手で抱えていた。


「Please, sir. More whisky」


将校のグラスが半分も空かないうちに、信格は腰をかがめて、酒を注ぎ足した。兄弟のグラスにも、本郷のグラスにも。揉み手をし、白い歯を見せて、何度も頭を下げた。


ジャックが、何か冗談を言った。将校たちが、どっと笑った。英語は、半分もわからなかった。けれど、ジャップという言葉と、自分を指さす指だけは、はっきりと見えた。


信格も、一緒になって笑った。腹を抱えて、誰よりも大きな声で。


ビルが、ふざけて、信格の頬を指でつまんで引っぱった。


「Look at this face! Like a big monkey!」


笑い声が、さらに大きくなった。信格は、頬をつままれたまま、笑いつづけた。


本郷が、テーブルの向こうから、満足そうに頷いていた。よく覚えたな、それでいい、と、その目が言っていた。


テーブルの端で、政木だけが、一度も笑わなかった。酒にも手をつけず、背筋を伸ばして座ったまま、黙って、兄弟と将校たちを見ていた。


ジャックが、政木に向かって、グラスを差し出した。


「Hey, judo man. Pour me one」


通訳が、それを伝えた。政木は、ジャックの顔を、無表情に見返した。


「断る」


一言だけだった。座が、一瞬、凍りついた。


信格は、慌てて瓶を抱えて、ジャックのグラスに酒を注いだ。


「Sorry, sir. Sorry. He is shy」


へらへらと笑いながら、何度も頭を下げた。将校たちの笑い声が、戻ってきた。


信格は、頭を下げたまま、横目で政木を見た。


政木は、相変わらず、背筋を伸ばして座っていた。その目が、ほんの一瞬だけ、信格に向けられた。軽蔑の目だった。揉み手をして、毛唐に酒を注ぐ男を見る目だった。


信格の胸の奥で、何かが、じりじりと焦げた。


お前に、何がわかる。生まれたときから日本人で、柔道の看板を背負って、頭を下げずに生きてこられたお前に。


あとで天道が耳打ちしたところでは、政木には、肺を病んだ女房がいるという。高い薬代を稼ぐために、柔道を捨てて、プロレスの世界に流れてきたのだと。


それを聞いても、信格の胸の焦げは、少しも消えなかった。むしろ、もっと黒くなった。金に困って、それでも頭を下げずにいられる男が、憎かった。


深夜 東京・帝国ホテル


部屋の扉が閉まった瞬間、信格の顔から、笑みが消えた。


窓辺の椅子を両手で掴み、壁に叩きつけた。脚が折れ、背もたれが砕け散った。鏡台を拳で殴りつけると、鏡にひびが走り、破片が絨毯の上に降りそそいだ。テーブルをひっくり返し、電気スタンドを床に叩きつけ、カーテンを引きちぎった。


扉の外で、付け人の若い衆が、震えながら控えていた。


「おい」


信格の低い声に、若い衆が慌てて飛びこんできた。


「さ、酒を、お持ちしました」


差し出された徳利を、信格はひったくって、一口呷った。それから、徳利ごと、若い衆の顔に叩きつけた。


「ぬるい」


若い衆が、額から血を流してうずくまった。信格は、その髪を掴んで引きずり起こした。


「酒の燗もまともにつけられねえのか、てめえは」


拳が、一発、二発、三発と落ちた。若い衆の顔が、みるみる腫れあがっていった。


信格の頭の中では、キャバレーの笑い声が、まだ鳴り響いていた。ジャップ。モンキー。頬をつまむ、白い指。そして、政木の、あの目。


若い衆が気を失って動かなくなると、信格は、ようやく手を離した。


浴室に入り、蛇口をひねった。冷たい水で、手を洗った。石鹸を泡立て、指の一本一本まで、何度も何度もこすった。あの毛唐どもに揉み手をした手を。酒の瓶を抱えて、何度も頭を下げた手を。皮膚が赤く擦り剥けても、信格は、手を洗いつづけた。


それでも、一つだけ、どうしても洗い流せないものがあった。


羽田で握手を交わしたときの、政木の手の感触だった。指の骨が軋むほどの、あの握力。台本も愛想笑いも通じない、本物の力。


信格は、濡れた掌を、じっと見下ろした。指先が、かすかに震えていた。寒さのせいだと、思うことにした。


明日、この手で、あいつらを叩きのめす。日本じゅうの人間が見ている前で。


それが、台本どおりの勝ち負けでも。



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