第28話 余興
昭和二十八年(一九五三年)十一月 東京・芝浦
浪花町の道場は、まだ壁も塗り終わっていなかった。代わりに稽古場としてあてがわれたのは、芝浦の埠頭近くにある、米軍の将校クラブだった。
夜になると、そこは兵隊たちの社交場になる。シャンデリアの下にバーカウンターが並び、ジャズの楽団が演奏し、軍服姿の男たちが、酒を片手に笑いあう。その広いダンスフロアの真ん中に、マットが一枚、敷かれていた。
大和プロレスの若い衆たちは、夜ごと、そこで稽古をした。将校たちが、グラスを片手に、マットの周りを取り囲んで眺めていた。
「Come on, Jap! Run!」
「Faster, monkey!」
口笛と笑い声が、フロアに響いた。誰かが、マットの上に、ピーナッツの殻を投げつけた。
若い衆たちは、顔を真っ赤にしてうつむいたまま、受身を取りつづけた。
信格は、マットの端に立って、腕を組んでいた。
将校の一人が、ウイスキーのグラスを掲げて、信格に声をかけた。
「Hey, Riki! Show us your karate chop!」
信格は、振り返った。白い歯を見せて、にこやかに笑った。
「OK, sir」
本郷に教わった、愛想のいい顔だった。
信格は、マットの上で受身を取っていた若い衆の一人を、呼びつけた。半年前、蔵前の国技館裏の居酒屋で、札束を前に土下座した、元十両の男だった。
「立て」
男が、立ちあがった。
信格の手刀が、男の胸板に叩きこまれた。乾いた音がフロアに響き、男の体が、マットの上を転がった。将校たちが、歓声を上げて手を叩いた。
「Again! Again!」
信格は、笑顔のまま、もう一度男を立たせた。
二発目、三発目、四発目と、手刀が叩きこまれた。男の胸が赤黒く腫れあがり、唇の端から血が垂れた。それでも信格は、手を止めなかった。笑顔は、少しも崩さなかった。
将校たちの笑い声を浴びながら、信格の頭の中は、ひどく冷えていた。
こいつらは、俺たちを猿だと思っている。物珍しい極東の猿が芸をしているのを、酒の肴に眺めている。
いいだろう。いまは、いくらでも芸をしてやる。
だが、いずれ、この国ごと買い叩いてやる。お前らの国の大男どもを、日本じゅうの前で叩きのめして、そのたびに金を巻きあげてやる。
信格は、男の首筋に、最後の一撃を振り下ろした。男は、マットの上で白目を剥いた。
将校たちの拍手が、ひときわ大きくなった。
信格は、彼らに向かって、深々と頭を下げてみせた。頭を下げたまま、誰にも見えない顔で、唇を噛みしめていた。
稽古が終わったのは、真夜中を過ぎてからだった。
将校たちが引き揚げたあとのフロアで、若い衆たちは、こぼれた酒と煙草の吸い殻とを、黙って掃除していた。白目を剥いた男は、壁際に寝かされたまま、まだ目を覚まさなかった。
誰も、信格に、何も言わなかった。天道だけが、いつもの人懐っこい笑みを浮かべて、近づいてきた。
「派手でしたね、力王さん。将校さんたち、大喜びでしたよ」
「そうか」
「あの男、肋が二、三本いってるかもしれません。明日から、しばらく使い物にならないでしょうね」
「代わりは、いくらでもいる」
信格は、背広を羽織りながら、ぶっきらぼうに答えた。
天道は、にっこりと笑って頷いた。その目が、ほんの一瞬だけ、何かを帳面に書き留めるような色を帯びたことに、信格は気づかなかった。
同じ夜更け 芝浦の埠頭
クラブの裏口を出ると、冬の埠頭の風が、頬を刺した。
暗がりに、小柄な影が立っていた。沖田だった。
三日前に、ハワイから着いたばかりだった。羽田に迎えに行ったのは、天道と、若い衆が二人だけで、信格は顔も出さなかった。
「……見てたのか」
「ああ。少しだけね」
沖田は、潮風に白くなった眉の下から、静かに信格を見上げた。
「あの若いの、大丈夫かい」
「知るか」
信格は、沖田の横を通り過ぎようとした。
「あんた、ハワイでわしに教わったのは、こんなことのためだったのかい」
信格の足が、止まった。
沖田の声に、責める響きはなかった。ただ、悲しそうだった。
信格は、振り返らなかった。
「じいさん。あんたは、レフェリーとして呼んだんだ。説教しに来てもらったわけじゃねえ」
沖田は、しばらく黙っていた。やがて、小さく息をついた。
「……そうだったね」
沖田は、それ以上は何も言わずに、クラブの中へ戻っていった。壁際に寝かされたままの若い衆の様子を、見に行ったのだろう。
信格は、一人、冬の埠頭に立ちつくしていた。
将校たちの笑い声には、何も感じなかった。若い衆を叩きのめしたことにも、何も感じなかった。
けれど、あのじいさんの悲しそうな声だけが、いつまでも、耳の奥から離れなかった。




