第26話 配役
昭和二十八年(一九五三年)三月 アメリカ・ロサンゼルス
羽田行きの便が出る、二週間前のことだった。
リトル・トーキョーの薄暗い中華料理屋の奥で、パワー本郷は、一人の日本人と向きあっていた。仕立てのいい背広を着た、黒縁眼鏡の男だった。松木の新聞社の、ニューヨーク支局の者だと名乗った。
男は、テーブルの上に、封筒を滑らせた。
「力王山が、日本で団体を作ります。いずれ、あなたに外国人レスラーの手配を頼む電報が来るでしょう」
「ほう」
本郷は、封筒の厚みを、指で確かめた。
「そのときは、引き受けてください。これは、前金です」
「力王山は、知ってるのか」
「いいえ」
男は、眼鏡の奥で、穏やかに笑った。
「あの人は、自分で思いついて、自分であなたに頼むんです。そういうことに、なっています」
本郷は、くつくつと喉の奥で笑った。
「なるほど。日本の連中も、なかなかいい台本を書く」
同じ頃 ロサンゼルス国際空港
航空会社の窓口で、大河原の子分が、二枚の切符を受け取っていた。羽田行きの、隣りあった二つの座席だった。一枚は、力王山の名前。もう一枚は、天道幸一の名前だった。
「いいか、天道」
子分は、切符の一枚を、隣に立つ大柄な男に手渡した。
「お前は、アメリカで一年回ったが、本郷の下で前座ばかりやらされて、くすぶって帰る柔道崩れだ。たまたま、同じ便で帰ることになった。力王山とは、ブラントの稽古場で顔を合わせてるはずだ。声は、向こうからかけさせろ。お前からは、決して近づくな」
「わかってますよ」
天道は、人懐っこく笑って、切符を背広の内ポケットにしまった。
「あの人は、自分から拾った相手しか信用しない。そういう人でしょう」
「それと」
子分は、声を落とした。
「道場に入ったら、誰が何を話したか、誰がいくら借金を抱えてるか、全部こっちに上げろ。力王山本人のこともな。とくに、あいつが日本語じゃない言葉を口にしたときは、一言も漏らさず書き留めろ」
天道の笑みが、ほんの一瞬だけ、止まった。
「……先生は、そこまでご存じで」
「横浜の港で、五年も朝鮮の荷役どもと寝起きしてた男だ。先生が、ただの柔道崩れを、あいつの隣に座らせるわけがねえだろう」
天道は、にっこりと頷いた。
「お安いご用です」
昭和二十八年(一九五三年)五月 東京・蔵前
蔵前の国技館裏の居酒屋に、信格が姿を現す、三日前の夜だった。
同じ隅の席で、同じ元十両の男が、安い焼酎を舐めていた。その向かいに、大河原の子分が腰を下ろした。
「借金は、いくらだ」
男は、ぎょっとして顔を上げた。
子分は、帳面を開いて、男の借金の額を読みあげた。高利貸しの名前まで、すべて正確だった。
「全部、片をつけてやる」
「……な、なんで、俺なんかに」
「三日後、この店に力王山が来る。お前の前に、札束を置くだろう」
子分は、表情一つ変えずに言った。
「そのときは、椅子から転げ落ちて土下座しろ。一生ついて行きます、と言え。それだけでいい」
男は、ぽかんと口を開けたまま、子分の顔を見つめていた。
「ほかの四人にも、同じ話をしてある。いいか、心の底から、ありがたそうにやれよ」
三日後の夜、信格が札束を置き、男が土下座したとき、店の奥の暗がりで、大河原の子分が一人、黙って焼き鳥を齧っていた。
信格は、その男に、一度も気づかなかった。
昭和二十八年(一九五三年)五月 ハワイ・ホノルル
沖田識吉の小さな家を、日本から来た男が訪ねたのは、信格の電報が届く一週間前だった。
男は、大河原の名刺を差し出し、縁側で冷えた麦茶を一口飲んでから、本題に入った。
「力王山が、日本で団体を作ります。いずれ、あなたにレフェリーを頼む電報が届くはずです」
沖田は、黙って聞いていた。
「渡航の費用も、向こうでの住まいも、こちらで用意します。それと」
男は、懐から封筒を取り出し、縁側の上に置いた。
「力王山がこちらにいた頃、だいぶ、あなたのツケで飲み歩いたそうですね。その分は、先生がお立て替えになるそうです」
沖田は、封筒にちらりと目をやり、それから、庭のハイビスカスに目を移した。
「……それは、受け取れないね」
「は?」
「あの子の飲み代は、わしが好きで払ったんだ。誰かに立て替えてもらう筋合いのもんじゃない」
沖田は、封筒を、男のほうへ押し戻した。
「電報が来たら、行くよ。あんたたちに頼まれたからじゃない。あの子に頼まれたら、行く。それだけさ」
男は、しばらく沖田の顔を見ていたが、やがて肩をすくめて、封筒をしまった。
一週間後、信格からの電報が届いた。詫びの言葉が一行もない、短い電文だった。
沖田はそれを読み終えると、小さく笑って、返事を書いた。
『行くよ。体に気をつけな』
昭和二十八年(一九五三年)七月 東京・赤坂 料亭の奥の小部屋
発足を祝う宴が果てた、深夜のことだった。
料亭の奥の小部屋で、大河原は、天道からの報告を聞いていた。
「……あの人、沖田さんの電報を丸めて、屑籠に捨ててましたよ。そのあと、しばらく、屑籠を見てましたけどね」
天道は、楽しそうに笑った。
「それと、上野に女を囲ってます。朝鮮の女です。毎月、どこかに金を送らせてるみたいですね」
「知ってる」
大河原は、葉巻の煙を、ゆっくりと吐き出した。
「それは、こっちで手配した部屋だ」
天道が帰ったあと、大河原は窓辺に立ち、夜の赤坂を見下ろした。
あの男は、今夜、自分の力で仲間を集め、自分の団体を作ったと信じて、酒に酔い潰れているだろう。土下座した元力士も、隣の席に座った柔道崩れも、即座に返事をよこしたアメリカの悪役も、すべて、こちらが配った札だとは知らずに。
ただ一人、ハワイの老人だけは、こちらの金を受け取らなかった。
大河原は、小さく鼻を鳴らした。
金で動かない人間というのは、扱いにくい。けれど、ああいう人間が一人そばにいるからこそ、あの男は、自分が本当に慕われていると思いこめる。
それもまた、よくできた台本の一部だった。




