第25話 発足
昭和二十八年(一九五三年)四月 東京・銀座 大河原の事務所
大河原の事務所の応接間で、信格は、革張りのソファにふんぞり返っていた。
脚を投げ出し、アメリカ製の煙草をふかしている。目の前のテーブルには、分厚い書類の束が積まれていた。その向こうで、大河原の子分が、帳面を片手に、几帳面に説明を続けていた。
「……というわけで、協会の看板は、七月に掲げます。会長は、先生のご友人の、さる代議士の先生に。道場は、日本橋の浪花町に倉庫を一つ借りて、改装中です。リングは、アメリカから取り寄せています」
「ふうん」
信格は、天井に向かって煙を吐いた。
「八月には、松木さんのテレビ局が開局します。最初の大きな興行は、来年の二月。アメリカから、名の通ったレスラーを、兄弟で呼ぶ手筈になっています」
「ふうん」
「それで、ですね」
子分は、帳面をめくった。
「人を、集めなければなりません」
信格は、煙草を灰皿に押しつけた。
「人?」
「ええ。力王山さん一人じゃ、興行は打てません。対戦相手も、前座も、付け人も、レフェリーも要ります。それに、外国人を呼ぶ段取りをつける者も」
「そんなもん、そっちで集めりゃいいだろう」
「先生の、お言いつけです。力王山さんの団体なんですから、力王山さんが自分で声をかけるのが筋だと」
信格は、面倒くさそうに頭を掻いた。
「……俺の団体、ねえ」
子分は、表情一つ変えずに、帳面に何かを書きつけた。
昭和二十八年(一九五三年)五月 東京・蔵前
蔵前の国技館の裏手には、場所が終わるたびに、番付から落ちた男たちが吹き溜まっていた。十両から陥落した者。怪我で幕下に沈んだ者。親方と揉めて、部屋を飛びだした者。
信格は、その一人一人に、声をかけて回った。
居酒屋の隅で、安い焼酎をちびちびと舐めている元十両の男の前に、信格は、黙って札束を置いた。男が、目を丸くして顔を上げた。
「俺について来い。毎晩、腹いっぱい食わせてやる」
男は、札束と信格の顔とを、交互に見比べた。それから、椅子から転げ落ちるようにして、土下座した。
「力王関……いや、力王山さん。一生、ついて行きます」
信格は、その頭を見下ろしていた。
十二年前、障子の隙間から見た光景が、脳裏に浮かんでいた。親方の前に滑らされる、分厚い封筒。あのとき、自分は柱の陰で震えていた。いまは、封筒を差し出す側に立っている。
胸の奥から、甘く、暗い快感が湧きあがってきた。
こいつらは、仲間じゃない。金で買った、犬だ。犬なら、裏切らない。裏切っても、また別の犬を買えばいい。
信格は、口の端を吊りあげた。ふっ、と短く笑った。
その夜のうちに、五人の元力士が、信格の前に頭を下げた。
道場の顔ぶれは、少しずつ揃っていった。その中に、天道幸一という男がいた。
山形の生まれで、柔道で鳴らし、戦後は政木のプロ柔道にも加わっていた。上背のある、がっしりとした体つきの男で、それでいて、目端がよく利いた。
二年前、進駐軍の慰問興行のための稽古場で、隅のほうで受身を取っていた男だった。その後、アメリカへ渡って向こうの興行を回っていたが、信格の帰りの飛行機で、たまたま隣の席に座っていた。
「あんた、ブラントの稽古場にいたな」
雲の上で、信格のほうから声をかけた。
天道は、少しのあいだ値踏みするように信格の顔を見て、それから、人懐っこく笑った。
「覚えていてくださいましたか、力王山さん」
「日本で、一緒にやらねえか」
「力王山さんの下なら、食いっぱぐれはなさそうですね」
天道は、ほかの男たちと違って、信格に頭を下げなかった。その代わりに、よく笑った。誰にでも愛想よく話しかけ、誰の懐具合も、いつのまにか把握していた。
「力王さん。こいつは今月、田舎の母親に金を送るんで、苦しいそうですよ」
「あっちの奴は、女に入れあげて、借金がある」
天道は、そんな話を、ことのついでのように耳打ちしてきた。
信格は、それを黙って聞いていた。便利な男だと思った。同時に、いつか自分のことも、こうやって誰かに耳打ちするのだろうと思った。
同じ頃 東京・国際電報局
国際電報局の窓口で、信格は、二通の電報を打った。
一通目は、ロサンゼルスの、パワー本郷宛てだった。
『日本で団体を作る。外国人の手配を頼む。取り分は相談』
本郷からの返事は、翌日に来た。
『引き受けた。授業料の残りは、日本で払ってもらう』
信格は、その電報を握り潰した。いいだろう。お互い、どっちが先に相手の財布に手を突っこむか、見ものだ。
二通目は、ホノルルの、沖田識吉宛てだった。文面を考えるのに、時間はかからなかった。
『日本で団体を作る。レフェリーが要る。来てくれ』
詫びの言葉は、一行も書かなかった。ホノルルの埠頭で、受け取らなかった握り飯のことも。記者の前で、誰にも教わっちゃいねえ、と言い放ったことも。
書く必要が、なかった。あのじいさんは、何をされても文句を言わない。だから、使える。
窓口の女が、電文を読みあげて確認した。信格は、面倒くさそうに頷いた。
沖田からの返事は、三日後に来た。
『行くよ。体に気をつけな』
信格は、その短い電文を、しばらく見つめていた。それから、くしゃくしゃに丸めて、屑籠に放りこんだ。
胸の奥で、何かが、ちくりと痛んだ気がした。気のせいだと、思うことにした。
昭和二十八年(一九五三年)七月 東京・赤坂 料亭の大広間
大和プロレスリング協会の発足を祝う宴は、赤坂の料亭の大広間で、盛大に開かれた。
政治家、財界人、新聞社の重役、芸能界の顔役。床の間の前に並んだ顔ぶれを見ただけで、招かれた記者たちは息を呑んだ。
信格は、大広間の真ん中で、紋付袴に身を包み、次々と注がれる酒を飲み干していた。
後ろには、金で買った元力士たちが、ずらりと並んで控えている。天道が、如才なく客の間を回っている。ハワイから来る沖田のことは、新聞の片隅に、名レフェリー来日へ、と写真入りで載っていた。
全部、俺が集めた。俺の団体だ。
信格は、胸を張って盃を掲げた。
大広間の隅、障子の陰で、大河原と松木が、並んで宴を眺めていた。
「役者は、揃ったな」
大河原が、葉巻をくわえたまま呟いた。
「ええ。会場は押さえました。警察にも、話は通してあります。外国人の招聘も、こちらの筋で手当て済みです」
松木が、穏やかに答えた。
「本人は、自分で集めたつもりでいるようですが」
「それでいい」
大河原は、紫煙を吐き出した。
「自分で選んだと思ってる役者ほど、よく踊る」
大広間の真ん中で、信格の高笑いが、ひときわ大きく響いていた。




