第23話 凱旋
昭和二十八年(一九五三年)三月 東京・羽田
プロペラ機のタラップを降りると、フラッシュの閃光が、一斉に浴びせられた。
「力王山さん! アメリカ修行、お疲れさまでした!」
「二百六十戦して、負けはわずか三つというのは本当ですか!」
滑走路の脇に、新聞記者とカメラマンが、黒山の人だかりを作っていた。その後ろには、どこから聞きつけたのか、日の丸の小旗を振る群衆まで詰めかけている。ロビーに入りきれない人々が、金網にしがみついて、名前を叫んでいた。
信格は、タラップの途中で足を止めた。
仕立てたばかりのダブルの背広。短く刈りこんだ髪。日に焼けた、岩のような顔。目元は、アメリカで買った黒いサングラスで隠していた。
本郷に教わったとおり、一呼吸置いてから、ゆっくりと群衆を見渡した。口元に、白い歯を見せた笑みを浮かべた。
「アメリカの連中は、日本人を馬鹿にしていた」
低く、太い声だった。記者たちの鉛筆が、一斉に動きだした。
「戦争に負けた国の人間だと、俺の目の前で唾を吐きやがった。だが、俺はリングの上で、そいつら全員を叩きのめしてきた」
信格は、拳を握りしめて、天に突きあげた。
「今度は、この日本で、アメリカの大男どもを叩きのめす。日本人の誇りを、取り戻すためにな」
群衆から、地鳴りのような歓声が上がった。日の丸の小旗が、波のように揺れた。
信格は、笑顔のまま、手を振りつづけた。サングラスの奥の目だけは、少しも笑っていなかった。
アメリカじゃ、ジャップと唾を吐かれた。この国じゃ、朝鮮人と土俵を追い出された。その連中が、いま、俺の作った嘘の仮面を、有難がって拝んでやがる。
歓声が、さらに大きくなった。
馬鹿どもめ、と信格は思った。たっぷり、巻きあげてやる。
滑走路の端には、大河原が手配した黒塗りのキャデラックが、エンジンをかけたまま待っていた。
同じ日の夜 東京・赤坂 料亭の奥座敷
料亭の奥座敷で、信格は、三人の男と向きあっていた。
大河原と、松木と、もう一人。恰幅のいい体を、上品な仕立ての着物に包んだ、四十がらみの男だった。柔和な丸顔に、細い目が笑っている。けれど、その目の奥だけは、少しも笑っていなかった。
「こちらは、神戸の岡田さんだ」
大河原が、葉巻で男を指した。
「西の興行は、この人が仕切っとる。芝居も、歌い手も、相撲の巡業も、岡田さんの許しがなきゃ、大阪から西では一歩も動けねえ」
「岡田です。よろしゅう」
岡田は、軽く頭を下げた。
「あんたの相撲、何べんか見せてもろたことがあります。桜富士を投げ飛ばした、あのうっちゃり。ええもん見せてもろた」
「……そりゃ、どうも」
「せやけど、もっとええのは、その顔や」
岡田は、細い目をさらに細めた。
「羽田の写真、夕刊で見ましたで。あれは、金になる顔や。客がなんぼでも銭を払う顔しとる」
松木が、膝の前に、一枚の書類を広げた。
「大和プロレスリング協会。この夏に、旗揚げします」
書類には、細かい字で、組織の名簿が並んでいた。会長、理事、顧問。並んでいる名前は、政界や財界の、新聞で見覚えのある名前ばかりだった。その一番下のほうに、力王山の名前が、代表選手として、小さく書かれていた。
「私のテレビ局は、八月に開局します。その目玉として、あなたの試合を、全国に流す」
松木は、穏やかに微笑んだ。
「アメリカから、大男のレスラーを呼んでくる。あなたは、それを空手チョップで薙ぎ倒す。日本じゅうが、テレビの前で、あなたに喝采を送ることになる」
「金の取り分は」
信格が、ぶっきらぼうに訊いた。
三人の男が、一瞬、顔を見合わせた。それから、大河原が、葉巻の灰を落としながら笑った。
「アメリカで、少しは商売を覚えてきたか」
「覚えたさ」
信格は、名簿の一番下の、自分の名前を、指で叩いた。
「この並びじゃ、俺は一番下っ端の、ただの役者だ。客を呼ぶのは俺なのに、金は上の連中に吸いあげられる。そういう仕組みだろう」
座敷が、静まり返った。
やがて、岡田が、くつくつと喉の奥で笑いだした。
「ええなあ。この男、ほんまにおもろいわ」
岡田は、信格の盃に、自ら酒を注いだ。
「わしはな、力王山はん。国のためやの、反共やの、そういう難しい話には、とんと興味がない。わしが動くのは、損か得か、それだけや」
細い目が、まっすぐに信格を見た。
「あんたが金を生むうちは、わしは、あんたの味方や。それだけは、覚えといてや」
それから岡田は、ふと声を落とした。
「……ああ、それと」
盃を置き、細い目で、信格の顔をじっと見た。
「戦争が終わってすぐの頃、神戸では、朝鮮人の連中が、だいぶ悪さしとってな。闇市を仕切って、警察も手ぇ出されへん。誰かがやらな、街が回らんかった」
座敷の空気が、すっと冷えた。大河原も松木も、黙って盃を口に運んでいる。
「わしが、やらなあかんかった。だいぶ、血も流させてもろた」
岡田は、軽く頭を下げた。
「堪忍やで」
信格の指が、盃の縁で止まった。この男も、知っているのだ。
しばらくして、信格は、低く言った。
「……何の話だ。俺は、長崎の生まれだ」
岡田は、一瞬きょとんとした顔をして、それから、喉の奥でくつくつと笑った。
「せやったな。長崎の、対馬はんやった」
信格は、盃を一気に呷った。
この座敷の中で、本音を口にしているのは、この男だけかもしれない。そう思った。
その夜遅く 東京・上野 秀貞の部屋
秀貞の部屋の扉を開けたのは、もう日付が変わる頃だった。
秀貞は、繕い物の手を止めて、顔を上げた。一年ぶりだった。
秀貞は、何も言わずに立ちあがり、信格の背広を受け取り、湯を沸かし、茶を淹れた。まるで、昨日の夜も同じようにしていたかのように。
〈おかえり〉
それだけ言った。
信格は、畳の上にどさりと腰を下ろした。秀貞は、信格の鞄を開けて、汚れ物を取り出しはじめた。シャツ、靴下、アメリカの酒場のマッチ。
その手が、鞄の底で、ふと止まった。
取り出されたのは、紐で縛られた、手紙の束だった。上野の住所から、ハワイへ、アメリカへ、ひと月に一度ずつ送りつづけた手紙だった。十二通。一通も、封が切られていなかった。
秀貞は、手紙の束を膝の上に置いたまま、長いあいだ黙っていた。信格も、何も言わなかった。
やがて、秀貞は、束の中から一通を抜き出した。一番最近の日付のものだった。秀貞は、自分の手で、その封を切った。
中から出てきたのは、手紙ではなかった。一枚の、小さな写真だった。
〈去年の秋に、ようやく村から届いたの〉
秀貞は、写真を、信格の前に置いた。
〈あの子。生きてた〉
信格は、写真を見下ろした。
色褪せた白黒の写真の中で、おかっぱ頭の小さな女の子が、粗末な服を着て、まっすぐにこちらを見つめていた。太い眉。張った顎。相手を射抜くような、強い目。
毎朝、鏡で見ている目だった。
本当に、俺の子か。
六年前、安宿の四畳半で、自分はそう言った。その答えが、いま、目の前の写真の中から、自分を睨み返していた。
信格は、写真に手を伸ばしかけて、止めた。それから、背広の内ポケットから分厚い封筒を取り出し、写真の横に置いた。
アメリカで稼いだ金だった。ハリーから掠め取った金だった。ロペスの首を壊して稼いだ金だった。
〈……村に、送れ〉
声が、少しだけ掠れていた。
秀貞は、封筒を見下ろして、静かに首を横に振った。
〈この写真も、ひとつ届くのに一年かかったの。戦争で、海も、境も、閉ざされてる。お金なんて、もう、届かないかもしれない〉
〈届かなくてもいい〉
信格は、写真から目を逸らしたまま、言った。
〈届く日まで、取っておけ〉
秀貞は、それ以上、何も言わなかった。封筒には目もくれず、写真を手に取って、そっと胸に押し当てた。
届くはずがない。信格は、そう思った。そう思ったまま、やがて、そのことを忘れていった。
秀貞だけが、忘れなかった。
窓の外で、帰国を祝う号外を売る声が、夜更けの上野の街に、いつまでも響いていた。




