第22話 暴君
昭和二十八年(一九五三年)二月 アメリカ・セントルイス
松木の電報を受け取ってから、信格の中で、何かの箍が外れた。
あとひと月もすれば、日本へ帰る。向こうでは、日の丸を振る群衆が、英雄の帰りを待っている。ならば、この国では、何をしてもいい。どうせ、二度と来ることもない国だった。
その朝、ジムの隅に、ひょろりとした白人の若者が立っていた。
ミズーリの農家の出で、レスラーになりたくて、毎朝ジムの掃除を手伝っている練習生だった。まだ、十八だという。
信格は、若者を手招きした。
「おい。稽古だ」
片言の英語でそう言うと、若者は目を輝かせた。日本から来た、二百戦以上して負け知らずの男が、自分に稽古をつけてくれる。そう思ったのだろう。若者は、喜び勇んでリングに上がった。
最初の一撃で、若者の体は、ロープまで吹き飛んだ。
「立て」
二撃目、三撃目と、手刀が、若者の胸板に、脇腹に、容赦なく叩きこまれていった。ばきり、と乾いた音がした。肋骨の折れる音だった。若者は、マットの上で体を丸め、声も出せずに震えていた。
「立てって言ってんだ」
信格は、若者の髪を掴んで引きずり起こし、また叩きのめした。やがて、若者は白目を剥いて、動かなくなった。
信格は、その脇腹を、爪先で蹴り飛ばした。
「根性がねえ」
吐き捨てるように言うと、信格はロープをくぐって、リングを降りた。ジムにいた誰一人、止めに入らなかった。
昨夜、リングの上で黄色い悪魔と罵られ、紙コップを投げつけられた屈辱が、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
一週間後 セントルイス キール・オーディトリアム
その夜の筋書きは、信格の負けだった。
相手は、バディ・ウォーカー。金髪に青い目の、この街の人気者だった。悪いジャップを、地元の英雄が叩きのめす。客が一番喜ぶ筋書きだった。
試合は、筋書きどおりに進んだ。信格が反則で攻め、客が罵声を浴びせ、ウォーカーが耐える。そして、反撃に移る。
ウォーカーが、客席に向かって、両腕を広げてみせた。それから、振り向きざまに、信格の頬を平手で張った。
筋書きにはない、本気の張り手だった。客の前で、ジャップの顔を張ってみせる。地元の英雄の、ちょっとした見せ場のつもりだったのだろう。
客席が、どっと沸いた。
「Slap the Jap! Slap him again!」
信格の頬が、じんじんと熱を持った。その熱が、一瞬で、脳天まで駆けあがった。
信格は、ウォーカーの顔面に、手刀を叩きこんだ。
筋書きにない、本気の一撃だった。ウォーカーの鼻が、ぐしゃりと潰れる音がした。のけぞったウォーカーの顎に、さらに、もう一発。顎の骨が砕ける手応えが、掌に伝わってきた。
ウォーカーは、血を撒き散らしながら、マットに崩れ落ちた。
館内が、凍りついた。レフェリーが、呆然と立ちつくしている。信格は、倒れたウォーカーを見下ろしたまま、肩で荒い息をついていた。
筋書きは、もう、どこにもなかった。
同じ夜 キール・オーディトリアムの控室
控室の扉が、乱暴に開け放たれた。
真っ赤な顔をしたプロモーターが、怒鳴りながら飛びこんできた。
「You son of a bitch! あいつは、うちの一番の稼ぎ頭だぞ! 顎が砕けて、三か月は試合ができねえ!」
信格は、椅子に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。拳には、まだウォーカーの血がこびりついていた。
信格は立ちあがり、その血まみれの拳を、プロモーターの鼻先に突きつけた。そして、本郷に教わった片言の英語で言った。
「文句があるなら、俺とやるか」
プロモーターの顔から、血の気が引いた。
「それとも、次の興行も、その次も、全部ぶち壊されてえか」
控室が、静まり返った。
信格は、拳を引いた。それから、片手の指を五本、広げてみせた。
「次から、ギャラは五割増しだ」
プロモーターは、しばらく震えていた。やがて、喉の奥から、絞り出すように言った。
「……わかった」
その夜の興行は、ウォーカーの惨劇が新聞に載ったおかげで、翌週の切符まで売り切れた。
同じ夜更け セントルイスの裏町
キャバレーの一番奥の席で、信格は、ウイスキーの瓶を何本も空けていた。
吊りあげたばかりのギャラで、店の酒をすべて買い占めたような勢いだった。バンドの演奏が気に入らないと、テーブルをひっくり返した。ボーイが止めに来ると、その胸倉を掴んで壁に叩きつけた。グラスが割れ、客が悲鳴を上げて逃げだしていく。店の主人は、青い顔で金を受け取り、何も言わなかった。
その夜、信格は、店の金髪の女を、札束で連れ出した。
安宿の薄暗い部屋で、女は、慣れた手つきで笑みを作った。その笑みが、癇に障った。
金髪。青い目。白い肌。リングの上で自分を罵る客たちと、同じ顔だった。ウォーカーと、同じ色の髪だった。
信格は、女の髪を鷲掴みにした。女が、悲鳴を上げた。
「お前らの国の連中が、俺に唾を吐いたんだ」
日本語だった。女には、一言もわからなかっただろう。
信格の手が、女の頬を打った。もう一度。さらに、もう一度。女は、泣き叫びながら部屋の隅へ逃げ、扉をこじ開けて、裸足のまま廊下へ飛びだしていった。
信格は、ベッドの端に腰を下ろした。
部屋の隅の、ひび割れた鏡に、自分の顔が映っていた。目を剥き、歯を剥き出し、憎悪に歪んだ、獣のような顔だった。本郷が、鏡の前で作ってみせた、憎たらしいジャップの顔だった。
信格は、その顔を、長いあいだ見つめていた。
いつからだろう。この顔を、作らなくても、できるようになったのは。




