第21話 仮面
昭和二十七年(一九五二年)秋 アメリカ・サンフランシスコ
アメリカ本土の会場は、どこも同じ匂いがした。葉巻の煙と、こぼれたビールと、汗にまみれた群衆の熱気。そして、どこへ行っても、同じ罵声が飛んできた。
「Jap!」
「Remember Pearl Harbor!」
リングに上がるたびに、紙コップが飛び、唾が飛び、ときには腐った卵が飛んできた。戦争が終わって、七年が経っていた。それでも、この国の人々にとって、日本人の大男は、まだ叩きのめされるべき敵だった。
信格は、その罵声を浴びながら、黙ってロープをくぐった。
日本では、朝鮮人と蔑まれた。この国では、日本人と罵られる。どちらの国でも、自分は、あっち側の人間だった。
本土に着いて最初の夜、控室に、一人の男が現れた。
小柄で、ずんぐりとした体つきだった。剃りあげた頭に、ちょび髭。下駄を履き、派手な柄の着物を羽織っている。まるで、アメリカ人の思い描く悪い日本人を、そのまま絵に描いたような男だった。
「あんたが、リキオーザンか」
男は、ロサンゼルス訛りの、崩れた日本語で言った。
「パワー本郷だ。この西海岸で、日本人の悪役といやあ、俺のことよ」
本郷は、信格の向かいにどっかりと腰を下ろし、葉巻に火をつけた。
「今日から、あんたの面倒は、俺が見る。ブッキングも、ギャラの交渉も、全部な」
「……面倒なら、もう見てもらった。ハワイで」
「沖田のじいさんか」
本郷は、鼻で笑った。
「あのじいさんが教えたのは、体の鍛え方だけだろう。この国で金を稼ぐのに、そんなもんは、半分の役にも立たねえ」
本郷は、鏡の前に立つと、わざとらしく顔を歪め、目を剥き、歯を剥き出してみせた。鏡の中の顔は、憎たらしいジャップ、そのものだった。
「客は、本物の強さなんか、見たくねえんだよ。見たいのは、憎たらしいジャップが白人に叩きのめされるところか、白人を叩きのめして、もっと憎まれるところだ。どっちでもいい。客が金を払って、腹の底から怒鳴れりゃな」
本郷は振り返り、にやりと笑った。
「強さは、作るもんだ。英雄も、悪党も、全部な。台本と、顔と、間の取り方で作る。それを覚えりゃ、あんたは一生、食いっぱぐれねえ」
信格は、黙ってそれを聞いていた。
十一年前、障子の隙間から見た封筒。紙に書かれた、引き分けの筋書き。どこの国でも、同じだった。勝ち負けも、英雄も、金で作られている。
「……教えてくれ」
信格は、低い声で言った。
「その、作り方を」
それからの数か月、信格は、本郷のもとで、嘘の売り方を一から叩きこまれた。
怒りを見せるときの、拳の握り方。苦しむときの、顔の歪め方。客の罵声が最高潮に達するまで、わざと反撃を待つ、間の取り方。
本郷は、金の扱い方も教えた。
「ギャラは、絶対に相手に数えさせるな。英語がわかる奴にはわからねえふりを、わからねえ奴にはわかってるふりをしろ。それだけで、取り分は倍になる」
最初の月、信格のファイトマネーは、約束の額の半分しか手元に残らなかった。本郷が、黙って抜いていたのだ。
問い詰めると、本郷は、悪びれもせずに笑った。
「授業料だよ。いい勉強になったろう」
信格は、拳を握りしめた。けれど、殴らなかった。この男から盗めるものを、全部盗むまでは。
昭和二十七年(一九五二年)冬 テキサス
会場の裏手には、もう一つ、狭く薄暗い控室があった。黒人のレスラーたちが押しこめられる部屋だった。
ある夜、その部屋の前を通りかかったとき、信格は、白人のレスラーたちが、黒人の若いレスラーをからかっているのを見た。若い黒人は、黙ってうつむいていた。
信格は、足を止めた。白人たちが、じろりとこちらを見た。
信格は、黒人の若者の前に進み出ると、その足元に、ぺっと唾を吐いた。
一瞬の沈黙のあとで、白人たちが、げらげらと笑いだした。
「Hey, the Jap's alright!」
一人が、信格の肩を叩いた。その夜から、信格は、白人たちの控室で、ビールを分けてもらえるようになった。
唾を吐かれた若者の顔は、二度と見なかった。見ようとも、しなかった。
その週の対戦相手は、ロペスという、痩せたメキシコ人のレスラーだった。
筋書きは、簡単だった。最初はロペスが攻め、最後は力王山の手刀で決着をつける。
控室で、ロペスは片言の英語で話しかけてきた。家族の写真を見せながら、照れくさそうに笑う。妻と、幼い娘が三人。この稼業で、家族を食わせているのだという。
信格は、その写真に、一瞥もくれなかった。
試合が始まった。筋書きどおり、ロペスが攻めてくる。けれど、その蹴りが一発、信格の顎に、まともに入った。わざとではなかった。ほんの、手元が狂っただけだった。
客席から、どっと笑いが起きた。
「Look at the Jap!」
信格の目の色が、変わった。
反撃の番が来た。信格は、ロペスの首筋に、手刀を叩きこんだ。一発目は、筋書きどおりの力加減だった。二発目から、力加減が消えた。
三発目、四発目、五発目。上から、斜め下へ。首の横、頸動脈の上。稽古場の柱を叩き割ってきた、あの角度だった。
ロペスの膝が崩れ、マットに倒れこんだ。それでも信格は手を止めず、倒れたロペスの喉元に、最後の一撃を振り下ろした。
ロペスの体が、びくりと痙攣して、動かなくなった。
レフェリーが、慌ててカウントを取った。客席が、総立ちで歓声を上げた。
「Kill him, Jap! Kill him!」
さっきまで自分を罵っていた群衆が、今度は、自分に喝采を送っている。
信格は、リングの上で、両腕を突きあげた。本郷に教わったとおりの、憎たらしい顔で。担架で運び出されていくロペスの姿を、一度も振り返らずに。
ロペスは、二度とリングに戻らなかった。首の骨が、ずれていたという。
プロモーターに呼び出され、きつく叱られた。けれど、その夜の興行は、その月の最高の売り上げを記録していた。叱責は、すぐに終わった。
控室に戻ると、本郷が、手を叩いて笑っていた。
「上出来だ。客は、ああいうのが一番好きなんだよ」
昭和二十八年(一九五三年)一月 カリフォルニア
本郷の手を離れた巡業の相棒は、ハリー武田という、ロサンゼルス生まれの日系二世だった。
人のいい男だった。日本語はほとんど話せないが、英語のできない信格の通訳代わりに、いつも何くれとなく世話を焼いてくれた。
ファイトマネーは、プロモーターから二人分まとめて、信格が受け取る決まりになっていた。英語の契約書を読めるのは、ハリーのほうだった。けれど、金を手にするのは、信格だった。
ある夜、ハリーが、遠慮がちに訊いてきた。
「ねえ、リキ。今週の僕の取り分、少なくないかな。前の興行の半分しかない気がするんだ」
信格は、首をかしげてみせた。
「Sorry. I don't understand」
本郷に教わった、覚えたての英語だった。
ハリーは困ったように笑い、それ以上は、何も言わなかった。
信格は、その夜も、ハリーの取り分の半分を懐に入れたまま、ロサンゼルスの酒場で、女を両脇に抱えて朝まで飲んだ。勘定は、つけにした。翌週、その街を出るとき、払わずに出た。
宿に戻ると、大河原の事務所を経て、日本からの手紙の束が届いていた。上野の秀貞からの手紙が、四通あった。信格は、それを封も切らずに、鞄の底に押しこんだ。その代わりに、今月の給金の半分を、いつものように日本へ送る手続きをした。ハリーから掠め取った金も、その中に混じっていた。
手紙の束の一番上に、一通だけ、見慣れない電報があった。差出人は、松木だった。
『テレビ局、八月開局決定。至急帰国されたし。日本中が、君を待っている』
信格は、その電報を、長いあいだ見つめていた。
十か月で、二百六十試合。負けたのは、たったの三回。その三回も、すべて筋書きどおりの負けだった。
ふっ、と、信格は電報を握り潰した。
この国では、俺はジャップだった。けれど、あの国では、俺は英雄になるらしい。
なら、なってやる。本郷に教わったとおりの、作り物の英雄に。




