第19話 受身
昭和二十六年(一九五一年)十月 東京・両国
一年ぶりに見上げる大鉄傘は、もう、国技館とは呼ばれていなかった。
入口の上には、英語の看板が掲げられていた。
『MEMORIAL HALL』
米軍に接収され、名前まで変えられた建物だった。空襲で開いた天井の穴は塞がれ、かつて優勝額が並んでいた壁には、星条旗が垂れ下がっている。
信格は、その中央に立っていた。
かつて土俵があった場所に、白いロープを張った四角いリングが組まれていた。
「ここで、か」
思わず、声が漏れた。
十年のあいだ、四股を踏み、血を流し、うっちゃりで桜富士を投げ飛ばした場所だった。その同じ場所に、アメリカ人が持ちこんだ見世物の舞台が建っている。
数日前から、信格は、アメリカから来た一座の稽古に加わっていた。進駐軍の慰問のために海を渡ってきた、プロレスラーの一行だった。大河原が話をつけ、元関脇の力王山を、その興行に一人だけ紛れこませたのだ。
一座の頭は、ボビー・ブラントという金髪の大男だった。
「Hey, sumo boy」
初めての稽古の日、ブラントはにやにやと笑いながら、信格の分厚い腹を指で突いた。
「お前に教えることは、一つだけだ。倒れ方さ」
「……倒れ方?」
通訳が、ブラントの言葉を伝えた。
「プロレスでは、投げられたときに怪我をしないように、うまく倒れるのが一番大事だ。相撲取りは、倒れたら負けだと思ってるだろう。だが、ここじゃ、倒れるのも仕事のうちだ」
ブラントは、信格の腕を取ると、軽々と投げ飛ばした。
信格の巨体が、マットに叩きつけられた。背中から脳天まで、衝撃が突き抜けていった。周りのアメリカ人たちが、手を叩いて笑った。
「Get up, Jap」
信格は、マットに手をついて立ちあがった。
土俵の上では、一度も背中をつけたことのない体だった。その背中を、この日、信格は何十回も、マットに叩きつけられた。
稽古場の隅で、もう一人、日本人の男が受身を取っていた。
柔道着の上だけを羽織った、上背のある、がっしりとした体の男だった。去年潰れたプロ柔道から流れてきたのだという。投げられるたびにすぐに起きあがり、アメリカ人たちに、愛想よく笑ってみせていた。
天道、と名乗っていた。
信格は、その男と、一言も口をきかなかった。
本番の前夜 メモリアル・ホールの控室
本番の前夜、控室で、ブラントが一枚の紙を広げた。英語で、何かが細かく書きつけてある。
通訳が、それを読みあげた。
「明日の試合は、十分間。最初の三分は、ブラントさんが攻める。次の三分で、力王山さんが反撃する。最後は、両者もつれあって場外。時間切れで、引き分け」
信格は、紙を見下ろした。
「……引き分け?」
「最初から、そう決まってます」
通訳は、当たり前のことのように言った。
「プロレスは、ショーですから。勝ち負けは、あらかじめ決めておくんです」
信格は、黙って紙を見つめていた。
十年前、障子の隙間から見た封筒が、脳裏に浮かんだ。土俵の上の勝ち負けは、金でやりとりされていた。そのことに、あの夜、自分は冷えた笑いを漏らしたのだった。
ここでは、それを隠しもしない。紙に書いて、堂々と渡してくる。
「わかった」
信格は、紙を通訳に突き返した。
「やってやるよ。お前らの、筋書きどおりにな」
翌日の夜 メモリアル・ホール
メモリアル・ホールの客席は、軍服姿のアメリカ兵で埋め尽くされていた。ビール瓶を振り回し、指笛を鳴らし、口々に何かを叫んでいる。
その最前列の端に、背広姿の男が二人、並んで座っていた。大河原と、松木だった。
ゴングが、鳴った。
筋書きどおり、ブラントが攻めてきた。投げられ、絞められ、ロープに叩きつけられる。そのたびに、米兵たちが歓声を上げた。
「Kill the Jap!」
「Go back to Japan!」
罵声が、四方から降りそそいだ。
日本では、朝鮮人と蔑まれた。ここでは、日本人と罵られている。どこへ行っても、自分は誰かの敵だった。
三分が、過ぎた。信格の、反撃の番だった。
信格は、ブラントの胸板に、掌を叩きこんだ。上から、斜め下へ。十一年前、稽古場の柱に何万回と打ちこんできた、あの角度だった。
乾いた音が、ホールに響き渡った。
ブラントの顔が、一瞬だけ、本物の痛みに歪んだ。筋書きにない、本気の一撃だった。米兵たちの罵声が、ぴたりと止んだ。
信格は、もう一発叩きこんだ。さらに、もう一発。ブラントの白い胸板が、みるみる赤黒く腫れあがっていった。
ブラントが、信格の耳元で、押し殺した声で何かを囁いた。英語は、わからなかった。けれど、意味はわかった。筋書きを、守れ。
信格は、口の端を吊りあげた。
それから、ゆっくりと手を緩め、ブラントともつれあうようにして、リングの外へ転げ落ちた。
時間切れを告げるゴングが、鳴り響いた。引き分け。紙に書かれていたとおりの結末だった。
花道を引き揚げるとき、最前列の大河原と、目が合った。大河原は、葉巻をくわえたまま、満足そうに頷いていた。その隣で、松木が、何かを手帳に書きつけていた。
信格は、控室の暗がりに入ると、赤く腫れた自分の掌を見下ろした。
あの数発だけは、筋書きではなかった。自分の拳だった。
それが、この見世物の中で、自分に残された、ただ一つの本物だった。




