第一章 最終話 第17話 廃業
昭和二十五年(一九五〇年)五月 東京・両国
咳を噛み殺しながら、信格は、土俵に上がりつづけた。
医師の言葉は、誰にも話さなかった。親方にも、桜富士にも。立ち合いのたびに胸が裂けるように痛み、取組のあとは、支度部屋の厠で、人知れず血を吐いた。それでも、関脇の地位だけは譲らなかった。
千秋楽、八勝七敗。
一つだけの勝ち越しだった。大関には、遠く届かない数字だった。新聞は、力王山、精彩を欠く、とだけ書いた。
昭和二十五年(一九五〇年)八月 東京・銀座
ビルの最上階の事務所で、子分が、声を潜めて報告していた。
「先生。赤坂の病院から、力王山はもう相撲は無理だと、報告が上がってます」
大河原は、葉巻の灰を落としながら、黙って聞いていた。
「放っておいても、いずれ自分から辞めるでしょう。わざわざ先生が手を汚さなくても、よろしいのでは」
「だから、どうした」
大河原は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「は、いえ……」
子分が、口ごもった。
「馬鹿野郎」
大河原は、葉巻の先で、子分の顔を指した。
「袱紗は、もう受け取ってるんだ。頼まれた仕事を途中で放り出したら、俺の顔に泥を塗ることになる」
それから、窓の外の夜の銀座を見下ろして、薄く笑った。
「それにな。あの体は、横綱の綱なんぞより、よっぽど金になる。病気だろうが何だろうが、ここで手放す手はねえよ」
数日後 東京・赤坂 料亭の奥座敷
料亭の奥座敷に呼び出されたのは、真夏の、蒸し暑い夜だった。
親方からは、偉い先生がお前に会いたいとおっしゃっている、とだけ告げられた。迎えの黒塗りの車に押しこまれ、着いた先が、この座敷だった。
床の間を背にして、小柄な男が一人、葉巻をくゆらせていた。痩せているが、目だけが、異様に光っている。
「あんたが、力王山か」
男は、値踏みするように、信格を眺め回した。
「大河原だ」
その名前は、信格も聞いたことがあった。巣鴨から出てきて、たった一年半で、政界にも裏社会にも顔の利く男になったと、夜の街で噂されていた。
「座れ。飲め」
大河原は、自ら徳利を傾けて、信格の盃に酒を注いだ。
「肺を、やられてるそうだな」
信格の手が、止まった。誰にも話していないはずだった。
「相撲は、もう終わりだ。わかってるだろう」
大河原は、紫煙を吐き出しながら言った。
「協会は、お前を大関には上げねえ。親方は、お前を売った。肺は、虫に食われてる。どう転んでも、お前の土俵は、ここまでだ」
信格は、盃を握りしめた。言い返す言葉が、一つも見つからなかった。
「だがな」
大河原は、身を乗り出した。
「お前の拳は、まだ金になる」
「……どういう意味だ」
「アメリカへ行け。向こうに、プロレスってえ見世物がある。でけえ男同士が、リングの上で殴りあう。客は熱狂して、金が唸るほど落ちる」
大河原は、にやりと笑った。
「アメリカの薬なら、その肺も治る。治したら、向こうでレスリングを覚えてこい。帰ってきたら、俺が、お前を日本じゅうの英雄にしてやる」
「英雄……」
「ああ。負けた国の連中が、毎晩、お前を拝むようになる」
大河原は、盃を掲げた。
「どうする、関脇。このまま血を吐いて、番付の天井の下で腐っていくか。それとも、海を渡るか」
信格は、長いあいだ黙っていた。
それから、大河原の仕立てのいい背広や、膳の脇に置かれた舶来の葉巻の箱、細い指に光る金の指輪を、ゆっくりと眺め回した。外には、自分をここまで運んできた運転手つきの黒塗りの車が、まだ待っているはずだった。
「……あんた、金は持ってそうだな」
大河原の眉が、わずかに上がった。
「当面の面倒は、見てくれるんだろうな」
「ほう」
大河原は、面白そうに目を細めた。
「それと、もう一つある」
信格は、盃を膳に置いた。
「女を一人、食わせなきゃならねえ。俺がいねえあいだ、そいつに仕事と、暮らしに要るものを、用意してやってくれ」
大河原は、しばらく黙って、信格の顔を見ていた。
「女も、朝鮮人か」
信格の肩が、ぴくりと動いた。この男は、自分の生まれを知っているのだ。
「……そうだ」
座敷に、短い沈黙が落ちた。庭で、鹿威しが乾いた音を立てた。
「わかった」
大河原は、あっさりと頷いた。その目の奥で、何かが小さく光ったことに、信格は気づかなかった。
信格は、盃の酒を一気に呷った。喉を焼く熱さが、胸の痛みを、一瞬だけ忘れさせた。
昭和二十五年(一九五〇年)九月 東京・三河島 秀貞の安宿
秋場所の初日を目前に控えた夜だった。
秀貞の安宿の四畳半で、信格は、一本の包丁を手にしていた。秀貞が台所で使っている、菜切り包丁だった。
秀貞は、部屋の隅で、黙って膝を抱えていた。あの夜、殴られた頬の腫れは、もうとうに引いている。けれど、二人とも、そのことを口にしたことは、一度もなかった。
信格は、髷に左手をかけた。
十年。入門の日に、親方の部屋で朱肉に指を押しつけ、対馬光夫になったあの日から、ずっとこの頭に載っていた髷だった。
「……シンラック」
秀貞が、小さく呼んだ。
信格は、振り返らなかった。包丁の刃を、元結の根元に当てた。それから、一気に引いた。
ざくり、と鈍い音がした。
畳の上に、黒い髷が、ぼとりと落ちた。
信格は、それを見下ろしていた。十年分の飢えと、血と、屈辱とが、ただの髪の束になって、畳の上に転がっていた。
秀貞が、そっと近づいてきて、落ちた髷を両手で拾いあげた。それから、まるで赤子を抱くように、胸に押し当てた。
翌朝 三所の山部屋の前
翌朝、信格は、ざんばら髪のまま部屋を出た。
三所の山部屋の前には、どこで嗅ぎつけたのか、新聞記者たちが群がっていた。フラッシュが、焚かれた。
「力王関! 廃業というのは本当ですか!」
「協会との確執が原因だという噂がありますが!」
信格は、足を止めた。記者たちを、ゆっくりと見回した。
「確執? そんなもんじゃねえよ」
ふっ、と、信格は口の端を吊りあげた。
「俺が、相撲を捨てたんだ」
フラッシュが、一斉に焚かれた。
翌日の新聞には、こういう見出しが躍っていた。
『力王山、電撃廃業 「相撲を捨てた」』
同じ日 東京・上野
同じ日、秀貞は、大河原の手配した上野の新しい部屋に移った。
真新しい畳の匂いのする、六畳間だった。台所には鍋も釜も揃い、近くの料理屋に、働き口まで用意されていた。
荷を解き終えると、秀貞は、買ってきた新聞を広げ、力王山の名前が躍る見出しを、指先でそっとなぞった。それから、白い布に包んだ黒い髷を、押し入れの一番奥に、大切にしまった。
誰一人として、あの見出しの裏に、何人の男の書いた台本があるのかを知らなかった。
信格自身でさえも。
第一章「因果の土俵」は、ここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
朝鮮半島の北の村から海を渡り、対馬光夫という書類一枚の名前を与えられて、土俵に上がった少年、崔信格。
ちゃんこ鍋の底のゴミ、雨の夜のクッパ、血に染まった一本の柱。戦火の中で弟分を見捨て、満州で同郷の女と出会い、焼け跡で恩人の店を失い、ただ一人の日本人の友を得る。そして、金で星が売り買いされる土俵の天井に頭を押さえつけられ、最後には、自らの手で髷を切りました。
「俺が、相撲を捨てたんだ」
そう言い放った男は、まだ知りません。その言葉さえも、誰かが書いた台本の一行だったことを。
明日からは、第二章「偽りの大和魂」の投稿を始めます。
髷を切った男が、海の向こうで新しい名前と新しい技を身につけ、敗戦国の英雄として帰ってきます。白い歯を見せて笑い、空手チョップでアメリカの大男たちを薙ぎ倒す、その姿の裏で、何が動いていたのか。
これまで以上に「最低」な男の姿を、どうか見届けていただければ幸いです。
引き続き、『最低のヒーロー ~仮面の怪物・力王山物語~』を、よろしくお願いいたします。
木下店長




