第16話 寄生
昭和二十四年(一九四九年)秋 東京・三河島
焼け跡に建ったバラックの朝鮮人街は、焼肉の煙とにんにくの匂いとで、いつも白く霞んでいた。
信格は、人目を避けるようにして秀貞を連れ、路地の奥の小さな飯屋に入った。秀貞の安宿からほど近い、看板も出していない店だった。この街なら、関取が朝鮮の女を連れて歩いていても、誰も気に留めない。
「オモニ、ケジャンはあるか」
皺だらけの店の女が、顔を上げた。
小柄で、腰の曲がった、骨ばった女だった。あの雨の夜にクッパを作ってくれたオモニとは、背格好も顔立ちも、少しも似ていない。それでも、女が朝鮮の言葉で答えたとき、信格の胸の奥が、かすかに疼いた。
〈今朝、川で獲れたのを漬けたばかりだよ。座りな、大きいの〉
ぶっきらぼうで、飾り気のない、あの口調だった。
焼け跡で、ひびの入った土鍋を拾いあげた夜から、四年が経っていた。あの店のオモニが生きているのか、死んでいるのか、信格はいまだに知らない。知ろうとしたことも、なかった。
運ばれてきた皿の上で、醤油に漬かった生の蟹が、艶やかに光っていた。
信格は、殻ごとかぶりつき、とろりとした身を啜った。甘く、しょっぱく、どこか土の匂いのする味がした。故郷の村で、本当の母が、祭りの日にだけ作ってくれた味だった。その母の顔は、もう霞んでしか思い出せない。それでも、この味だけは、舌が覚えていた。
あっという間に、皿は殻だけになった。
向かいに座っていた秀貞が、黙って、自分の皿を信格の前に押しやった。
〈あたしのも、食べて〉
〈お前の分だろう〉
〈いいの。あんたが、そんな顔して食べてるの、初めて見たから〉
秀貞は、小さく笑った。
信格は、何も言わずに、秀貞の皿の蟹にも手を伸ばした。
〈うまいかい〉
店のオモニが、皺の奥の目を細めて訊いた。
信格は答えずに、二皿目の蟹を、殻の隅まで残さず舐めつくした。誰にも見せられない顔をしていた。
昭和二十四年(一九四九年)冬 三所の山部屋
最初は、ただの咳だった。
冬の稽古場は冷える。風邪でもひいたのだろうと、誰も気にしなかった。信格自身も、気にしなかった。
けれど、咳は、ひと月経っても止まなかった。夜になると胸の奥が焼けるように痛み、立ち合いで当たるたびに、息が続かなくなった。番付の天井に頭を押さえつけられた男の体が、内側から、じわじわと削られていった。
ある夜、秀貞の安宿で、信格は激しく咳きこんだ。
口元を押さえた掌に、赤黒いものが、べったりとついていた。
秀貞が、息を呑んだ。
〈シンラック、それ……〉
「なんでもねえ」
信格は、掌を浴衣で乱暴に拭った。
〈なんでもないわけないでしょう。血じゃないの〉
「うるせえ。喉が切れただけだ」
〈お願い、病院に行って〉
秀貞は、信格の腕にすがりついた。
〈あんたがいなくなったら、あたしは……村のあの子は、どうなるの〉
信格は、その手を振り払おうとした。けれど、秀貞の指は、思いのほか強く、腕に食いこんでいた。新京の駅のホームで、紙切れを握りしめていた指だった。
「……わかった。行きゃいいんだろう」
翌日、三所の山部屋で病院のことを切り出すと、親方は、煙管をふかしながら、信格の顔を眺めた。この半年で、頬の肉が、げっそりと落ちていた。
「それなら、いいところがある」
親方は、帳面の切れ端に何かを書きつけて、信格に差し出した。赤坂の、聞いたことのない病院の名前だった。
「協会の偉い先生方も、みんな、そこで診てもらってる。腕は確かだ。俺から、話を通しておく」
信格は、紙切れを受け取った。
親方の目が、ほんの一瞬だけ、自分から逸れたような気がした。
数日後 東京・赤坂 病院
白い壁。白い天井。消毒液の匂い。
磨きあげられた廊下の奥の診察室で、銀縁の眼鏡をかけた医師が、レントゲンの写真を光にかざしていた。
「肺ジストマですね」
医師は、事務的な口調で言った。
「寄生虫です。川の蟹などを生で食べると、肺に入りこむ。心当たりは」
信格は、答えなかった。脳裏に、あの店の皿の上の、艶やかな蟹が浮かんでいた。自分の皿を押しやって、小さく笑った、秀貞の顔も。
「肺の中に、だいぶ巣を作っています。薬で治療はできますが、時間がかかる」
医師は、写真を机に置き、眼鏡の奥から、信格をじっと見た。
「はっきり申しあげましょう。相撲は、もう無理です」
「……なんだと」
「これ以上、あの激しい稽古を続ければ、肺がもちません。土俵の上で血を吐いて、倒れることになる。命が惜しければ、廃業をお勧めします」
医師の声は、どこまでも穏やかだった。
信格は、膝の上で拳を握りしめた。
九年間、柱を打ちつづけてきた拳だった。差別も、飢えも、刃物も、この拳ひとつで撥ね返してきた。その体が、小さな虫けらに、内側から食い破られている。
「……ほかに、手はねえのか」
「ありません」
医師は、もう、次のカルテに目を落としていた。
診察室を出ると、白い廊下が、どこまでも長く続いていた。信格は、壁に手をついて、しばらくそこから動けなかった。
同じ夜 秀貞の安宿
部屋には、戻れなかった。
親方の顔も、付け人たちの顔も、見たくなかった。関脇がもう土俵に上がれないと知ったときの、あの連中の目を想像するだけで、吐き気がした。
気がつくと、信格は、秀貞の安宿の軋む階段を上っていた。
扉を開けると、秀貞が、繕い物の手を止めて顔を上げた。
〈どうだった〉
信格は、答えなかった。裸電球の下に、どさりと腰を下ろした。四畳半の床が、巨体の重みで悲鳴を上げた。
長いあいだ、黙っていた。それから、天井を見上げたまま、ぽつりと言った。
〈……もう、駄目だってよ〉
秀貞の手から、針が落ちた。
〈相撲は、もう取れねえ。続けりゃ、土俵の上で血を吐いて、くたばるそうだ〉
信格は、乾いた声で笑おうとした。声は、出なかった。
十年だった。飢えて、殴られて、蔑まれて、柱を打ちつづけて、ようやく這いあがった。その土俵から、たった一皿の蟹で、転げ落ちたのだ。
秀貞は、しばらく黙って、信格の横顔を見つめていた。やがて、針を拾いあげ、繕いかけの浴衣を丁寧に畳んで、脇に置いた。
〈わかった〉
秀貞は、静かに言った。
〈あたしが、何とかする〉
信格が、ゆっくりと顔を向けた。
〈あんたが治るまで、あたしが稼ぐ。村のあの子への仕送りも、あたしが続ける。新橋あたりなら、まだ朝鮮の女でも雇ってくれる店が——〉
乾いた音が、四畳半に響いた。
秀貞の体が、畳の上に崩れ落ちた。その頬が、みるみる赤く腫れあがっていった。
信格は、振り抜いた掌を宙に浮かせたまま、肩で荒い息をついていた。
〈……また、あの世界に戻るってのか〉
声が、震えていた。
〈新京の、あの奥の部屋に。俺みてえな男どもの相手をする、あの世界に〉
秀貞は、頬を押さえたまま、黙って信格を見上げていた。その目に、涙はなかった。
信格は、秀貞から目を逸らした。
殴ったのだ。自分を案じて、自分のために身を売ろうとした女を。九年間、柱を打ちつづけてきた、この掌で。
信格は、自分の掌を見下ろした。血の滲んだ古傷が、裸電球の下で、鈍く光っていた。
その掌で、守れるものなど、何一つなかった。




