エピローグ
平成七年(一九九五年)三月 東京・永田町 議員会館
議員会館の小さな部屋の窓から、春の霞んだ空の下に、国会議事堂の白い塔が見えていた。
熊木は、五十二になっていた。リングを降りてから、もう何年も経つ。いまは、国会議員という、自分でも似合わないと思う肩書きを背負って、この部屋の古い机に向かっていた。それでも、太い首と、長い顎と、静かに深くなっていくあの目だけは、昔のままだった。
扉が叩かれて、秘書が、客の名を告げた。
入ってきたのは、少し薄くなった髪を、きれいに後ろへ撫でつけた男だった。仕立てのいい背広の下で、肩も、胸も、がっしりと厚みを保っている。現役を退いて十年以上が経っても、その体には、まだ、打席に立つ男の重さが残っていた。両手に、紫の風呂敷で包んだ四角い箱を、大事そうに抱えていた。
張だった。
五十五になろうとしていた。三千本の安打を打ち立てた男として、いまでは、野球の解説者として、日曜の朝のテレビにときおり顔を見せていた。
「熊木さん」
張は、机の前で、深く頭を下げた。
「来月、北へ行かれると、新聞で拝見しました」
熊木は、黙って頷いた。
来月の末、北の都の、十五万とも二十万とも言われる巨大な競技場で、プロレスの大会を開く。日本からも、アメリカからも、名だたる男たちを連れていく。国と国とのあいだに、まだ一本の橋も架かっていない時代に、リングという名の、小さな橋を一本だけ架けにいくのだと、熊木は記者たちに言った。
かつて師が、板門店の雪の上で、北に向かって叫んだ。その国だった。
張は、風呂敷の結び目を解いた。
中から現れたのは、古い桐の箱だった。角はすっかり丸くなり、蓋の木目は、何十年ものあいだ、何度も何度も撫でられたように、艶を帯びていた。
「三十二年、預かってきました」
張は、桐の箱を、机の上に、そっと置いた。
「兄さんに、いつか、北とこっちとのあいだの海が、もう少し静かになったら、届けてくれと言われていたんです。いや、兄さんは、自分で届けに行くつもりでした。それまで、お前が預かっとけ、と」
張は、箱の蓋に、そっと掌を置いた。
「海が、少しだけ、静かになりました。でも、私には、まだ、行けません。私の名前で、あの国の土を踏むわけにはいかないんです」
張は、熊木の顔を、まっすぐに見た。
「あなたに、届けてほしい。熊木さん」
熊木は、長いあいだ、机の上の桐の箱を見下ろしていた。それから、両手を伸ばして、箱を自分の前に引き寄せた。
「……預かります」
張は、もう一度、深く頭を下げた。顔を上げたとき、その目が、赤く潤んでいた。
平成七年(一九九五年)四月の末 平壌 五月一日競技場
競技場は、人で埋め尽くされていた。
すり鉢の底から、空の縁まで、何十万という顔が、隙間なく塗りこめられている。どの顔も、同じ方向を向き、同じ瞬間に手を叩き、同じ声で叫んでいた。巨大なすり鉢の底の真ん中に、白いリングが一つ、ぽつんと据えられている。そのリングの上に、熊木は立っていた。
客席から、地鳴りのような歓声が湧きあがった。熊木は、リングの真ん中から、その客席を、ゆっくりと見回した。
この光景を、熊木は知っていた。
三十年以上も前、東京の体育館の客席を、日本じゅうの茶の間を、同じように埋め尽くしていた顔だった。白い歯を見せて手刀を振りあげる一人の男に、何万という人々が、同じ瞬間に拳を突きあげていた。その男が、大和魂の英雄などではないことを、誰一人として知らないまま。
あの人は、あの熱狂を、どんな顔で見ていたのだろう。熊木は、それを、いまになって、ようやくわかったような気がした。
客席の歓声が、一段と高くなった。熊木は、長い顎を突きだして、両手を高々と掲げた。
その胸の内ポケットには、何も入っていなかった。
同じ夜 平壌 ホテルの一室
夜の十時を回った頃、部屋の扉が、控えめに叩かれた。
扉の外には、案内役の背広の男が立っていた。この国に着いてから、熊木のそばを片時も離れなかった男だった。その後ろに、地味な灰色の上着を着た、五十がらみの女が一人、うつむいて立っている。
案内役の男は、女を部屋の中へ促すと、自分も続いて入ってきて、静かに扉を閉めた。それから、扉の脇の壁際に、背筋を伸ばして立った。
「通訳を、いたします」
男は、なめらかな日本語で言った。部屋を出ていくつもりは、少しもないようだった。
女は、部屋の真ん中に立ったまま、熊木の顔を見上げた。
頬はこけ、髪には白いものが混じっていた。背は高くもなく、低くもなかった。けれど、その目だけは、熊木がいままで見てきた誰の目とも違っていた。
いつも何かに怒っているような、それでいて、どこか途方に暮れたような目。三十二年前、白い病室の寝台の上で、最後に閉じられた目と、同じ目だった。
熊木は、しばらく何も言えなかった。
それから、机の上に置いてあった桐の箱を、両手で取りあげた。女の前に進み出て、箱を、そっと差しだした。
女は、壁際の男のほうを、ちらりと見た。男が小さく顎を引くのを待ってから、箱を受け取った。
震える指で、蓋を開けた。紫の絹の上に、金の懐中時計が一つと、四つに畳んだ灰色の紙が一枚、並んでいた。
女は、まず、灰色の紙を手に取った。広げた。その目が、紙の上の文字を追った。見慣れた筆跡だったのだろう。女の唇が、かすかに震えた。
こちらは、本当に楽園です。毎日、白いお米をいただいております。皆さん、親切にしてくださいます。
女の目が、手紙の一番下の、一行だけ少し小さな字で書き添えられたところで、止まった。
こちらの川は、もう、凍りはじめました。今年は、あなたのお汁は、作れそうにありません。
女の喉が、小さく動いた。
けれど、女は、声を上げなかった。壁際の男の目が、自分の手元に注がれていることを、知っているようだった。女は、唇を固く結び、目を伏せたまま、手紙を、ゆっくりと四つに畳み直した。その指先だけが、細かく震えていた。
三十二年前、この国のどこかの部屋で、母が、誰かに見張られながらその手紙を書いていたのと同じように。
女は、畳んだ手紙を胸に押し当て、それから、金の時計を手に取った。蓋を開け、蓋の裏に刻まれた文字を、指先で一つずつなぞった。時計は、もう、とうに止まっていた。
女は、時計を握りしめたまま、長いあいだ、うつむいていた。
やがて、顔を上げた。涙をこらえた、怒ったような目が、まっすぐに熊木の顔を見ていた。それから、女は、朝鮮の言葉で、短く何かを訊いた。
壁際の男が、平板な声で、それを日本語に直した。
「父は、どんな人でしたか、と、訊いております」
熊木は、すぐには答えられなかった。
夜の海の、冷たい水。千回のスクワットの床。三十足の靴。叩きつけられた背中。後部座席から落ちてくる拳。
隅田川の見える部屋。三杯の黒いラベル。だろう、欣ちゃん、と笑った声。
雪の上で、白いシャツ一枚で、北に向かって叫んでいた背中。
これからは、お前らの時代だ、と、扉が開く一瞬前に、言い残していった声。
熊木の長い顎が、かすかに震えた。それから、熊木は、口の端を、ほんのわずかに持ちあげた。
「……最低の」
壁際の男が、通訳しようと口を開きかけて、止まった。熊木の顔を、怪訝そうに見た。
熊木は、口をつぐんだ。
女が、熊木の顔を見つめていた。言葉はわからなくても、何かを待っている目だった。あの人と同じ、怒ったような目で。
熊木は、ゆっくりと息を吸いこんだ。それから、壁際の男ではなく、女の目を、まっすぐに見返して、言い直した。
「最高の、ヒーローでした」
壁際の男が、少しの間を置いてから、それを朝鮮の言葉に直した。
女は、その言葉を、黙って聞いていた。それから、止まった金の時計を、両手で胸に抱いたまま、小さく、一度だけ頷いた。
熊木は、深く、深く、頭を下げた。
窓の外の、北の都の夜空に、春の終わりの星が、ひとつ、静かに瞬いていた。
(完)




