第100話 硝子
昭和五十五年(一九八〇年)五月 神奈川・川崎 球場
五月の夜風が、照明塔の光の中を、白く渦を巻いて吹き抜けていた。
外野スタンドの向こうで、内野席の客たちが、一斉に立ちあがっていた。三塁側の通路にまで人があふれ、子供たちが、手すりから身を乗りだしている。
打席に立っていたのは、張だった。
四十になろうとしていた。頬には深い皺が刻まれ、額の生え際が、少しずつ後ろへ退きはじめている。
並商から東名に入り、首位打者を何度も獲った。三十を過ぎてから、松木の東都に引き抜かれ、日本一の球団のユニフォームを着た。けれど、数年もすると、年を取った、もう衰えた、と言われて、松木の球団から、あっさりと放りだされた。
それでも、張は、野球にしがみついた。
拾ってくれたのは、モッテという、川崎に本拠を置く、客の少ない球団だった。持ち主は、戦後の焼け跡からガムと菓子とで身を起こした、半島生まれの男だった。母国の資本で建てられた、その小さな球団のユニフォームに袖を通して、張は、もう一度、打席に立った。
バットを構えたその姿は、二十年前と、少しも変わっていなかった。左の打席で、腰をわずかに落とし、投手の手元を、睨みつけるように見ている。
三千本目の安打まで、あと一本だった。この国の野球で、誰も打ったことのない数字だった。
投手が、振りかぶった。
白い球が、照明の光を切り裂いて、まっすぐに飛んできた。張の腰が回り、バットが、鋭い音を立てて振り抜かれた。
打球は、高々と舞いあがった。
照明塔の光の中を、白い球が、夜空に向かって、どこまでも昇っていく。客席の何千という顔が、一斉にその行方を追って、空を見上げた。球は、右翼の上空で、一瞬、止まったように見えた。それから、ゆっくりと弧を描いて、外野席の向こうの、暗い夜の中へ消えていった。
球場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
張は、一塁へ向かって、ゆっくりと走りだした。二塁を回り、三塁を回るあいだ、一度も客席を見なかった。照明塔の光の向こうの、夜空の一角を、ずっと見上げていた。
本塁を踏んだあとで、張は、ヘルメットを脱いだ。高々と掲げはしなかった。ただ、それを胸の前に抱いたまま、もう一度だけ、夜空を見上げた。
同じ夜 球場の選手控室
記者たちが帰り、仲間たちが帰り、控室に一人残った張は、自分の鞄の底から、古い桐の箱を取り出した。
十七年前、浜町の部屋の、寝室の脇の小部屋の、机の引き出しの一番奥から、預かった箱だった。朱の印の封書は、あの年の暮れに、言いつけどおり燃やした。箱の中には、金の懐中時計が一つと、四つに畳んだ灰色の紙が一枚、紫の絹に包まれて入っていた。
張は、時計を手に取った。
蓋の表の、鳳凰の細かな彫りが、控室の裸電球の光を受けて、鈍く光った。蓋の裏には、朝鮮の文字が刻まれている。張は、その文字を、指先で一つずつなぞった。
海は、まだ、静かになっていなかった。
あの人の娘が、咸興のどこで、どうしているのか。生きているのかどうかさえ、張には、知る術がなかった。灰色の手紙を書いた女のことも、同じだった。時計は、まだ、張の手の中にあった。
〈兄さん〉
張は、誰もいない控室で、朝鮮の言葉で呟いた。
〈三千本、打ちましたよ。松木の球団に捨てられても、しがみついて、打ちました。誰に書かれた台本でもない、俺の数字です〉
張は、天井の裸電球を見上げた。
〈最後の一本は、兄さんに届くように、空へ向かって打ちましたよ〉
張は、時計の蓋を、そっと閉じた。
〈まだ、届けられません。もう少し、預からせてください〉
時計と手紙を桐の箱に戻し、鞄の底にしまう。それから張は、汗の染みたユニフォームのまま、控室の長椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
裸電球が、じじ、と小さな音を立てていた。
昭和五十五年(一九八〇年)秋 東京・世田谷 熊木の団体の道場
道場の古い床板が、若い衆たちの受身の音で、絶え間なく震えていた。
リングの縁に腰かけ、腕を組んでその稽古を見ている男がいた。
アナーキー熊木。いまでは、日本じゅうの誰もが、その名で彼を呼んでいた。
三十七になっていた。太い首も、長い顎も、あの頃のままだった。
十六年前、羽田から、窓のない通路側の席に乗りこんで、アメリカへ渡った。向こうのリングで、どれだけ叩きつけられても、骨が無いかのような体でぐにゃりと逃げ、何度でも起きあがってくる東洋の若い大男を、アメリカの客たちは、いつしか、無法者、アナーキーと呼ぶようになった。
名前も、こっちで考えておいてやる。そう言った男は、その名を聞く前に、逝ってしまった。
帰国してからは沢登に誘われて新しい団体を旗揚げし、それが数か月で潰れると、借金だけを背負って、もう一度、自分の名前で一から団体を作り直した。いまでは、ビッグフット郷馬の団体と並んで、この国のプロレスを二つに分ける看板になっていた。
道場の戸口に、和服姿の女が一人、立っていた。熊木は、リングの縁から立ちあがった。
律子だった。四十を過ぎていた。目元に細い皺が刻まれていたが、背筋がすっと伸び、膝の前で重ねた手の指先までが、乱れることなく整っていた。
「突然、お邪魔して、ごめんなさい」
律子は、穏やかに頭を下げた。
熊木は、若い衆たちに稽古を続けさせて、律子を、道場の奥の小さな事務室へ通した。粗末な椅子に向かいあって腰を下ろすと、律子は、しばらく何も言わずに、熊木の顔を見ていた。
「十七年のあいだ、あなたに、ずっとお伝えしなければと思っておりました。でも、どうしても、来られなかったの。あの人のことを口にすると、あの白い病室が、目の前に戻ってきてしまうものですから」
熊木は、黙って、律子の顔を見ていた。
「あなたと、郷馬さんが、廊下をこちらへ歩いてくる足音が聞こえたとき、あの人、ほんの少しだけ、笑ったんです。ふっ、て。いつものように」
律子の声が、かすかに震えた。
「それから、こう言いました。これからは、お前らの時代だ、って」
事務室の中が、静まり返った。壁の向こうから、若い衆たちがマットに叩きつけられる音が、規則正しく響いてきていた。
熊木は、何も言わなかった。膝の上で、両の拳を、ゆっくりと握りしめた。十七年前、白い病室の寝台の足元で、行き場を失ったまま握りしめた、あの拳だった。
いつか、ぶっ殺す。
その相手は、自分たちが扉を開ける、ほんの一瞬前に、そう言い残して逝ったのだ。お前らの時代だ、と。叩きつけて、夜の海に突き落として、後頭部を殴りつけた弟子に向かって。
熊木の長い顎が、かすかに震えた。
握りしめた拳の上に、何かが、ぽたりと落ちた。それが自分の涙だということに、熊木はしばらく気づかなかった。
律子は、何も言わずに、熊木が顔を上げるのを待っていた。
やがて熊木は、拳をほどき、律子に向かって、深く、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございます、奥さん」
それだけ言うのが、精一杯だった。
昭和五十五年(一九八〇年)十二月十五日 東京・池上 古刹の墓所
十七年目の命日の朝は、よく晴れていた。
池上の寺の、本堂の裏手の墓所に、冬の澄んだ陽が、斜めに差しこんでいた。墓所の一角に、大きな墓石が建っている。その脇には、胸の前で腕を組んだ、銅の像が立っていた。紋付袴の、大きな男の像だった。
像の台座には、碑が嵌めこまれていた。
力王山光夫君の碑。長崎の生んだ不世出の英雄、その大和魂は、永遠に日本の人々の胸に生きつづける。そう刻まれた碑文の最後に、撰文した者の名として、大河原の名が記されていた。
その碑の前に、背の高くも低くもない男が、一人立っていた。
光一だった。三十になっていた。郷馬の団体で働きはじめて四年、いまでは、興行の段取りのほとんどを任されるようになっていた。
光一は、碑文を、一字一字、黙って読んでいた。長崎の生んだ不世出の英雄。大和魂。
父の本当の名前を、光一は、郷馬から一度だけ聞かされていた。四年前の春、事務所の応接間で、マネージャーの仕事を引き受けたその日の夕方に。郷馬は、それだけを言って、あとは何も言わなかった。その名前は、この碑のどこにも、刻まれていなかった。
光一は、背広の内ポケットから、小さなものを一つ取り出した。硝子の石だった。
親指の先ほどの大きさで、角はもう、すっかり丸く磨り減っている。二十年前、京都の体育館の薄暗い控室で、大きな手が、小さな自分の掌に、これを握らせてくれた。世界の王者のベルトから外れた石だ、と、その手の主は言った。
本物だぞ。
光一は、その石を、冬の陽にかざした。光が、石の中を通り抜けて、光一の掌の上に、小さな虹を落とした。
本物の宝石ではないことは、もう、とうにわかっていた。子供の頃に、町の質屋に持っていって、笑われたことがある。ただの硝子玉だ、坊や、と。ベルトから外れたというのも、たぶん、嘘だったのだろう。父は、嘘ばかりついていた男だったと、郷馬は言った。人としては、見習うべきところは一つもなかった、と。
それでも。
光一は、掌の上の小さな虹を、じっと見つめていた。
それでも、あの日、あの大きな手は、確かに温かかった。本物だぞ、と言ったときの、あの不器用な笑い方も。あれだけは、嘘ではなかったと、光一は思う。
背後で、砂利を踏む足音がした。
振り返ると、紺の外套を着た大きな男が、墓所の入口に立っていた。郷馬だった。手に、白い菊の花束を一つ提げている。
郷馬は、光一の掌の上の硝子の石に、ちらりと目をやった。それから、何も言わずに墓石の前に進み出て、花束を供え、長いあいだ、手を合わせていた。
手を下ろすと、郷馬は、台座の碑文を見上げた。長崎の生んだ、不世出の英雄。郷馬の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「……ふっ」
光一は、硝子の石を、掌の中に握りしめた。それから、銅の像の、腕を組んだ大きな男の顔を見上げた。
白い歯を見せて笑っている顔ではなかった。像を作った誰かの手が、たまたまそう刻んだのか、それとも、父のことをよく知っている誰かが、そう頼んだのか。銅の像の口の端は、ほんのわずかに持ちあがっていた。ふっ、と笑うときの、あの形のままで。
光一は、硝子の石を、背広の内ポケットに、そっと戻した。父が、いつも二つに折った古い写真をしまっていたのと、同じ場所だった。
冬の陽が、墓所の砂利の上に、二人の男の影を、長く伸ばしていた。
その影の先で、銅の像の足元の、碑文の刻まれていない台座の裏側に、陽の光が、白く、静かに当たっていた。そこには、何も書かれていなかった。
崔信格、という名前は、この国のどこにも、刻まれていなかった。
それでも、光一の胸の内ポケットの、硝子の石の中には、確かに、小さな光が宿っていた。
本物だぞ、と、あの人は言った。
その言葉だけは、嘘ではなかった。
(了)




