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第99話 継承

 昭和五十一年(一九七六年)二月 東京・蔵前 国技館の楽屋


楽屋の鏡の前で、郷馬は、朝刊を広げていた。


三十八になっていた。二メートルを超える体は、若い頃ほどの切れはなくなっていたが、そのぶん、肩にも背中にも、岩のような厚みが加わっていた。十二年前、師の死とともに崩れていった大和プロレスの残骸の中から、郷馬は自分の団体を旗揚げし、いまでは、金曜夜八時ではないにせよ、別の局の、土曜の夜の枠を張っていた。


新聞の一面には、大きな見出しが躍っていた。


アメリカの航空機会社から、日本の政財界の大物たちへ、巨額の金が流れていたという記事だった。発端は、海の向こうの議会の公聴会で、ある日突然、明るみに出された一束の書類だった。旅客機の売りこみのために、誰に、いくらが、どういう道筋で渡ったのか。その書類には、日本の名だたる名前が、何人も記されていたという。


記事の真ん中に、一人の老人の写真があった。病床に伏せたまま、もう人前には出られなくなったという、昭和のフィクサー。大河原の名だった。


写真の中の老人は、痩せ衰えていた。かつて世田谷の座敷で、床の間を背に悠然と膝を崩していた男の面影は、どこにもなかった。細く骨ばった指が、布団の端から、力なくはみ出していた。


郷馬は、その写真を、しばらく黙って見ていた。それから、新聞を、丁寧に畳んだ。


鏡の脇の台の上には、別の新聞も一部、置かれていた。運動面の一面に、熊木の大きな写真が載っている。アメリカから呼んだボクシングの世界王者との、前代未聞の異種格闘技戦が、この夏に決まったのだという。長い顎を突きだして、カメラを睨みつけている熊木の顔は、あの頃と少しも変わっていなかった。叩きつけられても、叩きつけられても、静かに深くなっていく、あの目のままだった。


郷馬は、口元を、ほんのわずかに緩めた。


「……ふっ」


楽屋の扉の外で、若い衆が、出番を告げる声を張りあげていた。


同じ年の春 東京・六本木 郷馬の団体の事務所


事務所の応接間の窓から、春の陽が、斜めに差しこんでいた。


郷馬は、応接の椅子に長い脚を組んで座り、向かいの若い男の顔を、黙って見ていた。


二十六になる男だった。京都の大学を出て、東京の小さな広告の会社に勤めていたという。背は高くも低くもなく、体つきは細かった。父親の体の大きさは、少しも受け継いでいなかった。


けれど、その目は、違った。


いつも何かに怒っているような、それでいて、どこか途方に暮れたような目。郷馬は、その目を、十三年前の赤坂の白い病室で、最後に見ていた。


対馬光一、と、男は名乗った。


「母から、聞きました」


光一は、膝の上で両手を握りしめたまま、言った。


「父が、亡くなる少し前に、郷馬さんに、僕のことを頼んだそうですね。誰から聞いたのかは、母も言いませんでした。ずっと、本当かどうか、わからなかったんです」


郷馬は、答えなかった。


背広の内ポケットから、使い古した手帳を取り出した。東都の頃から書きつづけてきた手帳だった。表紙は擦り切れ、何冊目かになっていたが、その一冊だけは、ずっと手元に置いていた。郷馬は、ある頁を開いて、光一の前の卓の上に置いた。


『十二月十四日。赤坂。


先生、痩せる。


ハワイの金のこと、使った、と。知っていた、と答える。


俺みてえになるな、と。


京都の倅を、頼む、と。


早く復帰して、私を倒してください、と答える』


光一は、その頁を、食い入るように見つめていた。最後の一行の下には、何も書かれていなかった。引き受けた、とも、断った、とも。


「君のお父さんは、ひどい人だった」


郷馬は、穏やかに言った。


「弟子を殴り、金をごまかし、嘘ばかりついていた。技術は学ぶべきところがあったが、人としては、見習うべきところは一つもなかった。僕は、ずっと、そう思っていたし、いまも、そう思っている」


光一は、顔を上げた。


「それでも、あの人は、最後に、君のことを頼むと言った。僕は、その場では、何も答えなかった。答えられなかったんだ」


郷馬は、手帳を閉じて、内ポケットに戻した。


「十三年、かかった」


それから郷馬は、長い脚を組み直して、窓の外の春の陽に目をやった。


「うちで、働かないか。興行の段取りや、選手たちの面倒を見る、マネージャーの仕事だ。楽ではないよ。給料も、広告の会社ほどは出せない」


光一は、しばらく何も言わなかった。やがて、膝の上で握りしめていた両手を、ゆっくりとほどいた。


「……やらせて、ください」


郷馬は、光一の顔を見た。それから、口元を、ほんのわずかに緩めた。


「ふっ」


光一は、目を丸くした。


その短い笑いを、光一は、ずっと昔に、どこかで聞いたことがあるような気がした。京都の体育館の、薄暗い控室で。一日じゅう重い鞄を抱えて、細い腕を赤く腫らしたあとで、大きな手が、小さな自分の掌に、何かを握らせてくれたとき。


同じ年の春 夜 東京・赤坂 目立たない建物の一室


赤坂の、大通りから一本裏に入った坂道の途中に、看板も表札も出ていない、四階建ての白い建物があった。


窓の外の夜景は、十二年前とは見違えるほど変わっていた。首都高速の高架が幾重にも交差し、硝子張りの高い建物が、夜空に向かって白く光っている。


部屋の主も、あの頃とは変わっていた。


窓を背にした机の向こうに座っていたのは、四十を少し過ぎた、栗色の髪のアメリカ人だった。十二年前、この部屋の隅の机で、黙ってタイプライターを叩いていた、あの若い秘書だった。


あの痩せた金髪の男は、もういなかった。本国へ呼び戻されたとも、どこか南の国で亡くなったとも聞いたが、確かなことを知る者は、誰もいなかった。机も、椅子も、窓の外を見下ろす角度も、何一つ変わらないまま、座っている男だけが入れ替わっていた。


その向かいの、かつて大河原が座っていた椅子の端に、黒い背広の男が、浅く腰かけていた。


町村だった。本名を、蔣巨正という。信格と同じ年に、同じ半島で生まれた男だった。十三年前の師走、池上の寺の本堂で、遺影を長いあいだ見上げ、朝鮮の言葉で何かを呟いて去っていった、あの男だった。


アメリカ人は、机の上の新聞を、指先で軽く叩いた。一面に、病床の大河原の写真が載っていた。


「ご覧のとおりです。あの方の時代は、終わりました」


前の男と、少しも変わらない、流暢な日本語だった。町村は、黙って新聞を見下ろしていた。


「これからは、君が、大河原さんのあとを引き継ぎなさい」


アメリカ人は、穏やかに微笑んだ。


「君なら、できるでしょう。君は、日本の人間でもなく、向こうの人間でもない。どちらにも顔が利いて、どちらにも借りがある。私たちにとっては、それがいちばん使いやすい」


町村は、何も答えずに、深く頭を下げた。


アメリカ人は、その下げられた頭を、しばらく眺めていた。それから、まるで天気の話でもするような口ぶりで、付け加えた。


「わかっているとは思いますが。間違えると、消されますよ」


町村の肩が、ほんのわずかに動いた。


「大河原さんも、力王山も、そうでした」


アメリカ人は、机の上の新聞を、指先で軽く揃えた。一面の見出しの脇に、政財界の名だたる名前が、いくつも並んでいた。


「場合によっては、総理大臣でも」


それから、アメリカ人は、自分の座っている椅子の肘掛けを、掌で、ゆっくりと撫でた。


「この椅子に座る者も、です」


町村は、頭を下げたまま、動かなかった。


部屋の隅の机で、若い秘書が、黙ってタイプライターを叩いていた。乾いた打鍵の音が、規則正しく、部屋の中に響いていた。


窓の外で、首都高速を走る車の灯りが、途切れることなく、夜の底を流れていた。



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