第9章:大落下(前編)
長く、疲れ切った一日の仕事を終えたあと、李本徳はようやく地下駐車場へと向かっていた。
今の彼が望んでいることは、ただ一つ。
家に帰ること。
そして眠ることだった。
地下駐車場は、ほとんど無人だった。
何時間も前から停められているらしい数台の車を除けば、人影はどこにもない。
ヒポクラテス・ケアセンターの管理責任者である李本徳は、買ったばかりのリンカーンに乗っていた。
しかし……
車まであと数歩というところで、彼は突然足を止めた。
背筋を冷たいものが這い上がった。
助手席に誰かが座っていた。
女だった。
刃物のように鋭い爪。
唇には、闇よりも濃い漆黒の口紅。
そして、その瞳は……
夜そのものよりも暗かった。
彼女の本名を知る者はいない。
その存在を知る者たちは、ただ一つのコードネームで彼女を呼んでいた。
ナイクス。
神秘と……
闇を象徴する名。
李本徳は運転席のドアを開け、静かに車内へ乗り込んだ。
ナイクスがゆっくりと彼へ顔を向けた。
その表情は冷たい。
「話がある」
声は落ち着いていた。
低く。
ほとんど感情がない。
李本徳は小さくため息をついた。
苛立っていたからではない。
ただ……
いつかこの日が来ることを、彼は知っていたからだ。
「すべてはまだ私の管理下にあります」
「計画に、ほんの少し問題が生じただけです」
ナイクスは無言で彼を見つめた。
やがて口を開く。
「職員が一人、加重暴行罪で逮捕された」
「入居者が施設内で公然と殺された」
「この一か月だけで、警察が何度も施設を捜査している」
彼女は一度言葉を切った。
「それをあなたは……」
「……ほんの少しの問題と呼ぶの?」
李本徳はネクタイを緩めた。
考えをまとめるための時間稼ぎだった。
「状況が少々複雑になったのは事実です」
「ですが……」
「問題の原因は一人だけです」
「入居者の一人です」
ナイクスが目を細めた。
「名前は?」
「韓博文です」
李本徳は即答した。
「彼の医療記録なら暗記しています」
「テキサス州の小さな町の出身」
「家族の付き添いはありません」
「それ以外は……」
「ほとんど何もない」
ナイクスはゆっくり目を閉じた。
「誰にでも物語がある」
「彼の物語を見つけなさい」
「過去のすべてを調べるの」
「それまでは……」
「作戦を中断する」
李本徳はすぐに首を振った。
「その必要はありません」
「韓博文のことは私に任せてください」
「あなたが彼の物語を知ることはありません」
「なぜなら……」
「もう誰にも知られることはないからです」
ナイクスは長いあいだ彼を見つめた。
そして……
ようやく頷いた。
しかし、その瞳に宿っていた信頼は……
すでに失われ始めていた。
次の瞬間、彼女は助手席のドアを開け、闇の中へ消えていった。
まるで最初から、そこに存在していなかったかのように。
李本徳は一人、車内に残された。
エンジンをかけることもなく。
長いあいだ。
ナイクスが自らここまで来たということは……
状況は、彼が想像していたよりはるかに悪い。
そして彼女が一度誰かへの信頼を失えば……
その先に待つ結果は想像もできない。
ナイクスを失望させた人間は……
最後には必ず消える。
跡形もなく。
李本徳はゆっくりスマートフォンを取り出した。
番号を入力する。
呼び出し音が鳴り始めた……
数日間の入院と経過観察を終え、韓博文はようやくヒポクラテス・ケアセンターへ戻ってきた。
頭蓋骨型の指輪によって残された痣が、最終的に決定的な証拠となった。
警察は方可をすぐに逮捕した。
皆の目の前で。
手錠がかけられた。
襲撃以来初めて、博文は小さく安堵の息をついた。
少なくとも……
自分を襲った男の一人は、もう檻の向こう側だ。
しかし、もう一人は……
まだ闇の中に潜んでいる。
おそらく……
今も、この施設のどこかに。
その日以来、博文はほとんど眠れなくなった。
毎晩ベッドに横たわり、ドアを見つめる。
また誰かが部屋へ飛び込んでくるのではないかと待ち続けながら。
幸い……
誰も来なかった。
それでも……
彼の中で何かが変わってしまっていた。
疑念が、ゆっくりと思考を蝕んでいく。
足音が聞こえるたび。
ドアが開くたび。
全身の神経が張り詰めた。
林莉は、そのすべてに気づいていた。
襲撃のことを知ってからというもの、彼女はほとんど博文のそばを離れなかった。
その接し方は、もはや看護師と患者という関係を超えていた。
友人に近い。
あるいは……
家族。
だからこそ……
林莉は一つの決断を下した。
もう博文の事件調査には協力しない。
調査に意味がないと思ったからではない。
ただ……
本当に怖かったのだ。
彼がこのまま首を突っ込み続ければ……
次は……
生き残れないかもしれない。
意外にも……
博文は反論しなかった。
あの襲撃によって傷ついたのは、骨だけではなかった。
心にも傷が残っていた。
今の彼に必要なのは……
何よりも……
逃げることだった。
ほんの少しのあいだだけでも。
そしてヒポクラテス・ケアセンターには……
ちょうど、その機会があった。
その夜。
入居者たちは、施設内の小さな上映室へ次々と集まっていた。
毎月恒例の映画鑑賞会は、昔から入居者たちに人気のイベントだった。
上映室自体は質素なものだった。
合成皮革のソファは、長年使われて表面がひび割れている。
プロジェクターは、どう見ても十五年以上前の代物。
スクリーン代わりの白い布でさえ、年月とともに黄ばんでいた。
上映される映画もかなり適当だった。
ただし、一つだけ共通点がある。
どの作品も二十世紀が終わる前に公開されたものだった。
おそらく……
高齢の入居者たちに、若かったころを思い出してもらうためなのだろう。
今夜の上映作品は、古典的なフィルム・ノワール。
『グレート・フォール』。
博文は何度も観たことがあった。
結末もすでに知っている。
それでも……
年老いた刑事を演じるクリフ・リースの演技は、今でも好きだった。
ヴァレリー・ヴェイルも、彼のお気に入りの女優の一人だ。
映画は始まったばかりだった。
誰もが画面に夢中になっているように見えた。
少なくとも……
表面上は。
そのとき……
博文は後方に座っている二人の入居者に気づいた。
ナイジェル。
そしてディラン。
二人はいつも一緒だった。
いつも落ち着きがない。
いつも何かを囁き合っている。
この施設で……
二人の評判は最悪だった。
誰かが消えるたび……
誰かが死ぬたび……
真っ先に笑うのは彼らだった。
時には、悲劇そのものを冗談にすることさえあった。
誰かに問い詰められると……
いつも鎮痛剤の副作用だと言い訳した。
それでも……
処方された鎮痛剤以外にも何かを使っているのではないかと疑う者は多かった。
ただ……
証拠がなかった。
映画が流れる中、二人は興奮した様子で何かを囁き合っていた。
博文の注意がそちらへ向く。
そして……
ナイジェルが何か小さなものを、こっそりディランの手へ渡した。
あまりにも自然な動作だった。
注意していなければ見逃していただろう。
博文は目を細めた。
心拍が速くなる。
小さすぎる。
遠すぎる。
ただのキャンディーかもしれない。
あるいは……
違法な何か。
博文の頭の中で激しい葛藤が始まった。
もう調査はしないと、自分自身に約束したばかりだった。
少なくとも、しばらくは。
なのに……
早くも、その約束を破ろうとしている。
ナイジェルとディランは数列先にいる。
ここからでは、はっきり確認できない。
できることは一つ。
二時間後の休憩時間まで待つことだった。
ようやく……
映画が休憩に入った。
『グレート・フォール』という題名は確かに相応しい。
上映時間は四時間を超える。
入居者たちは休憩を利用して、それぞれ必要なことを済ませ始めた。
薬を飲む者。
処置を受ける者。
看護師に体位を変えてもらう者。
しかしナイジェルとディランは……
上映室を出なかった。
その場に残り、数人の入居者を集め、小さな輪を作って談笑していた。
博文はすぐに何かがおかしいと感じた。
自分も処置を受ける予定だったことを無視して、車椅子を静かに近づける。
会話を盗み聞きするために。
近づいたころには……
すでに取引が始まっていた。
「持ってきたか?」
一人の入居者が囁いた。
「落ち着けって」
ナイジェルが笑った。
「全員分あるから」
「一人ずつだ」
ディランが冷たく付け加えた。
「もう待てない」
男が苛立った声を上げた。
「痛くてたまらないんだ!」
博文は、男が左脇腹を片手で押さえ続けていることに気づいた。
強い痛みを庇うような姿勢。
怪我かもしれない。
感染症かもしれない。
それと同時に、男は何度も不安そうに周囲を確認していた。
額は汗で濡れている。
目の下には濃い隈。
何日も眠っていないのだろう。
長期間眠れないことが人間に何をするのか、博文はよく知っていた。
まして、すでに限界まで追い詰められた人間ならなおさらだ。
「落ち着けよ」
ナイジェルが笑う。
「でも、その顔を見る限り……」
「もうすぐ脳みそが落っこちそうだな」
彼はポケットから、小さな透明のビニール袋を取り出した。
中には正体不明の粉末。
ナイジェルが手を完全に伸ばすより先に……
男は袋を奪い取った。
手に入れた瞬間……
出口へ急ぐ。
しかしディランが腕を掴んだ。
「約束を忘れるな」
「一週間に一袋だ」
「一気に全部使うな」
「一度に全部体へ入れたら……」
「どうなるか分かってるだろ」
「分かってる! 分かってる!」
男は苛立たしげに彼の手を振り払い、足早に去っていった。
博文は黙って一部始終を見ていた。
まだ自分の存在を明かすつもりはない。
もっと情報が欲しかった。
ところが……
二人の観察力を甘く見ていた。
「おい」
ナイジェルが突然声をかけた。
博文は振り向いた。
「僕?」
「ああ」
「買うか?」
「何を売ってるんです?」
博文は何気ない調子で尋ねた。
ナイジェルはニヤリと笑い、上着を開いた。
並んだ薬瓶。
小さな袋。
液体の薬。
すべてが綺麗に整理されている。
「何が欲しい?」
「鎮痛剤?」
「睡眠薬?」
「錠剤?」
「液体?」
博文は考えるふりをした。
「眠れるものが欲しいです」
ただの口実だった。
もっとも……
ほんの一瞬だけ……
本当に欲しいと思ってしまった。
恐怖を感じず……
暖かい毛布に包まれて……
静かに眠れる。
その想像は、妙に魅力的だった。
「いい選択だ」
ナイジェルは二本の瓶を見せた。
「メラトニン」
「それとも睡眠薬?」
博文は瓶を眺めた。
「もっと強いものは?」
ナイジェルが瞬きをした。
どうやら、車椅子に乗った新入りがここまで大胆だとは思っていなかったらしい。
「ベンゾジアゼピン系?」
首を振る。
「いや」
「それはナースステーションに鍵をかけて保管されてる」
「盗むのが面倒なんだ」
ナイジェルが続きを言う前に……
ディランが彼を押し退けた。
そのとき初めて博文は気づいた。
ディラン……
本当に仕切っているのは、こっちだ。
二人は小声で話し始めた。
博文には聞こえない。
しかし……
自分について揉めていることだけは分かった。
数秒後、話し合いは終わった。
二人は再び笑顔を浮かべる。
熟練した営業マンのような、作り物めいた笑顔。
「今のは忘れてくれ」
ナイジェルが笑った。
「本当にいいやつが欲しいなら……」
「用意できる」
ディランが続ける。
「ただし金はかかる」
「新規客なら……」
「千ドルだ」
ナイジェルがすぐに笑った。
「でも、お前かなり大変そうだからな」
「だから……」
「最初のサンプルは無料にしてやる」
博文は目を見開いた。
「本当に?」
「ありがとうございます」
ディランが頷く。
「映画が終わる前には渡す」
「それと忘れるな」
「誰にも言うな」
「こっちから連絡する」
そのとき……
休憩時間が終わった。
入居者たちが次々と席へ戻る。
今の出来事に気づいた者はいない。
ナイジェルとディランも人混みの中へ溶け込んだ。
まるで最初から存在していなかったかのように。
博文は、先ほど薬を買った入居者を探した。
しかし、もういない。
代わりに……
林莉を見つけた。
映画を観に来たわけではない。
自力では動けない別の入居者を介助していた。
上映室の片側には車椅子用のスペースが設けられていた。
通常の座席は撤去されている。
車椅子で利用できるようにはなっていたものの……
画面を見る角度は最悪だった。
博文にはどうでもよかった。
林莉から数メートルのところまで静かに近づき、小さく咳払いする。
「ねえ」
彼女が振り返った。
博文を見た瞬間……
ろくな話ではないと悟った。
これまで二人で経験してきたことを考えれば……
博文が本当の意味で調査をやめたことなど、一度もなかった。
「何?」
林莉は苛立った声で囁いた。
「ちょっと問題が起きました」
博文も小声で答える。
「何が――」
林莉はすぐに手を上げた。
「やめて」
「聞きたくない」
腕を組む。
「前にも言ったでしょ?」
「もうあなたの捜査には協力しない!」
博文は落ち着いたままだった。
「違法な薬を売っている人たちを見つけました」
林莉が眉をひそめる。
「放っておいて」
「あなたの仕事じゃない」
「殺されかけたくらいじゃ足りなかったの?」
「そんなに死にたいの?」
博文は静かに答えた。
「できれば死にたくありません」
「でも誰かが止めないと」
「そうしなければ……」
「誰かが傷つきます」
とうとう林莉が爆発した。
「その誰かって、あなたのことでしょ!!」
彼女の声は車椅子スペースのほぼ全体に響き渡った。
全員が振り向く。
一瞬……
映画のことなど誰も気にしていなかった。
林莉の顔が真っ赤になった。
怯えたネズミのように小さくなる。
「……ごめんなさい」
「ちょっと頭にきちゃって」
そんな彼女を見て……
博文は本気で申し訳なくなった。
「ありがとうございます」
「心配してくれて」
「あなたの言う通りです」
「これは僕の責任じゃない」
「でも……」
「何かをしていたいんです」
「一人で部屋に座って……」
「死ぬのを待っているよりは」
林莉は黙り込んだ。
何か言葉を探す。
論理的な反論。
感情に訴える言葉。
何でもよかった。
しかし結局……
何も見つからなかった。
彼の考えを変えられるような言葉は、一つも。
看護師として働いてきた五年間……
林莉は数え切れないほどの入居者と出会ってきた。
しかし彼ほど強く生きようとする者は、ほとんどいなかった。
他人から見れば……
彼らの日常など平凡だ。
意味もない。
忘れ去られるようなもの。
しかし博文は違った。
毎朝目を開けること。
一回一回、呼吸すること。
そのすべてが奇跡なのだと理解していた。
ようやく……
林莉は諦めた。
なぜなら……
彼を一人で調査させるほうが……
よほど無責任だと分かっていたから。
「それで……」
彼女はため息をついた。
「これからどうするの?」
博文は映画のスクリーンへ目を向けた。
物語はクライマックスを迎えようとしている。
そのとき、ディランの約束を思い出した。
博文の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「今は……」
「待ちましょう」
それから数分もしないうちに……
答えは予想より早くやってきた。
映画の刑事が最後の有名な台詞を口にしようとした、その瞬間……
博文は手のひらに何かを押し込まれた感触を覚えた。
静かに。
誰にも気づかれることなく。
小さい。
滑らかなビニールに包まれている。
握ると柔らかく、少しふわふわしていた。
小さなビーズクッションのようだ。
博文は手元を見た。
袋の中には黄色がかった粉末が入っていた。
粒子の大きさも形もバラバラ。
製造された薬物というより……
錠剤を砕いたものに見える。
すぐに理解した。
ナイジェルとディランは約束を守ったのだ。
商品を届けてきた。
博文はすぐに二人を探した。
しかし、もういなかった。
夜の闇へ消える幽霊のように。
静かに。
危険に。
博文にとっては……
それで十分だった。
ついに証拠を手に入れた。
「よし」
小さなビニール袋を掲げる。
「証拠です」
林莉は渋々それを受け取った。
上映室の照明にかざし、何度か裏返して確認する。
やがてため息をついた。
「これが本当に違法薬物だったとしても……」
「ナイジェルとディランがあなたに売った証拠にはならない」
「誰かが勝手にあなたの手に押し込んだとも言えるでしょ」
博文は落ち着いていた。
「証明する方法があります」
「さっき薬を買った男性を探すんです」
「彼が証言してくれれば……」
「全部つながります」
林莉は目を回した。
「素晴らしいわね」
「それで、その突然消えた謎の入居者を、いったいどこで探すつもり?」
その言葉を言い終えた瞬間……
答えが返ってきた。
博文からではない。
耳をつんざくような悲鳴だった。
上映室の外から響いた。
あまりにも鋭い叫びに、全員の耳が痛くなるほどだった。
室内が静まり返った。
数秒間……
誰一人動かなかった。
そして、まるで魂が体へ戻ってきたかのように……
全員が廊下へ向かって動き始めた。
博文と林莉も後を追う。
廊下へ出た瞬間……
全員が凍りついた。
数メートル先。
一人の入居者が壁にもたれるように倒れていた。
動かない。
死んでいた。
ほんの数分前……
ナイジェルから薬を買った、あの男だった。
左手には、まだくしゃくしゃになったビニール袋が握られている。
空になった薬物の袋。
彼はディランの警告を無視した。
一袋すべてを一度に摂取したのだ。
そして薬物は……
ついに彼の身体を限界まで追い込んだ。
集まった人々の中で、言葉を発せられる者はいなかった。
あまりにも突然訪れた死を前に……
全員が沈黙した。
そのとき……
上映室の中では……
映画がエンディングを迎えていた。
プロジェクターに最後の映像が映し出される。
『終』




