第10章:大落下(後編)
住民の死亡事故は、介護センター全体を厳戒態勢にするには十分すぎるほど重大な事件だった。
事件との関係がないかを確認するため、ほぼすべての住民と職員が事情聴取を受けた。
違法薬物の売買については。
ほとんどの者が。
何も知らないと答えた。
そして。
実際に薬を購入した者。
あるいは現在も使用している者たちは――
全員。
口を閉ざした。
やがて。
韓博文と林莉の番が来た。
呼ばれるのを待つ間。
二人は。
博文が手に入れた証拠を提出するべきかについて話し合った。
博文としては――
選択肢など。
ほとんどなかった。
自分たちを守るために。
証拠を隠しておきたいという誘惑は。
確かにあった。
なにしろ。
介護センターの経営陣が犯している罪は。
ナイジェルとディランがやっていることなど比較にならないほど。
はるかに深刻なのではないか。
博文は。
ますますそう確信し始めていた。
とはいえ――
捜査側から。
自分と林莉まで共犯者だと思われる可能性もある。
長いこと考えた末。
博文は。
やはり正直に話すのが最善だと結論づけた。
ただし――
話すのは。
林莉のほうがいい。
彼女は医療従事者だ。
捜査に巻き込まれたとしても。
韓博文より。
はるかに信用されやすい。
そして結局――
林莉の判断は。
正しかった。
管理側から事情を聞かれた際。
彼女は。
博文が手に入れた薬物の袋を自ら提出した。
介護センター側が最初に疑ったのは。
規制薬物が。
施設内の自動薬剤管理システム――
Pyxisから持ち出された可能性だった。
なにしろ――
これほど厳重に管理された薬へアクセスできる場所は。
そこしかない。
それでも。
決定的な証拠がない以上。
経営陣は。
ナイジェルとディランを告発しようとはしなかった。
そして。
韓博文も――
疑われることはなかった。
もちろん――
証拠を手に入れるために。
自分が薬を買うふりをしたことについては。
意図的に伏せておいた。
残念ながら――
それでも。
証拠は足りなかった。
ナイジェルとディランは。
完全に処罰を免れた。
事情聴取が終わり。
博文が事務室を出て間もなく。
廊下で。
二人と鉢合わせた。
二人はすぐに。
博文を脇へ連れていった。
どうやら――
二人にとって。
捜査そのものはどうでもいいらしい。
知りたいのは。
博文が。
自分たちを裏切ったかどうか。
いつもの二人とは違い――
明らかに。
落ち着きを失っていた。
博文と目を合わせることすらできない。
まるで。
彼の視線が。
太陽の光のように肌を焼くかのようだった。
先に口を開いたのは。
ディランだった。
「見つかったか?」
博文は。
表情を変えなかった。
「いや」
「俺が持ってる」
ディランの身体から。
目に見えて力が抜けた。
「よかった」
「そのままにしておけ」
だが。
声が突然。
冷たくなる。
「俺たちに面倒を持ち込むな」
「お前は俺たちを見ていない」
「俺たちとは話していない」
「俺たちの名前すら聞いたことがない」
「分かったな?」
博文は。
軽く頷いた。
「分かった」
ディランは。
それ以上何も言わなかった。
頭を下げ。
できるだけ目立たないように。
足早に立ち去った。
一方。
ナイジェルは。
すでにいつもの陽気な表情へ戻っていた。
ニヤリと笑い。
付け加える。
「もちろん……」
「また何か欲しくなったら……」
「どこへ来ればいいか、分かってるよな」
そうして。
二人は一緒に去っていった。
博文は。
壁際に残り。
考え込んだ。
現時点では――
二人を追い詰める証拠は。
まだ足りない。
そして。
次に何をすればいいのか。
思いつかなかった。
そのとき――
突然。
一つの考えが。
頭をよぎった。
ナイジェルとディランの部屋へ入ることができれば――
本物の証拠が。
見つかるかもしれない。
だが。
そのためには――
助けが必要だった。
住民の部屋へ。
正当に入る権限を持っている人物。
すぐに。
一人の名前が浮かんだ。
林莉。
もっとも。
彼女を説得するのは――
簡単ではないだろう。
博文は。
長いこと彼女を探した。
だが。
どこにもいない。
その日は。
博文の担当ではなかった。
別の住民たちの世話に追われ。
ほとんど自由な時間がなかったのだ。
これは。
博文にとって初めての問題ではない。
確実に彼女を捕まえる方法は――
昼休みに入る直前を狙うこと。
職員たちは通常。
正午から午後二時までの間に。
交代で昼食を取る。
そして林莉は――
ほぼ必ず。
最後だった。
自分のことを考える前に。
担当している患者全員の世話を終わらせる。
博文は。
そんな彼女を昔から尊敬していた。
しかし同時に。
それこそが。
彼女を最も捕まえにくい看護師にしていた。
仮に捕まえられたとしても――
時間はほとんどない。
一瞬。
博文は。
次に彼女が自分の担当になる日まで待とうかとも考えた。
だが。
すぐにその考えを捨てた。
あの薬のせいで。
すでに一人死んでいる。
もう。
悠長に待っている余裕などなかった。
❖
案の定――
午後二時三十分きっかり。
林莉が。
ようやく一人の住民の部屋から出てきた。
ほとんど。
時間通りだった。
博文は。
ベッドに横になったまま。
開いたドア越しに。
廊下を見張っていた。
彼女が通り過ぎた瞬間。
声をかける。
「林莉!」
彼女は足を止め。
部屋へ入ってきた。
両手を。
ポケットの中へ突っ込んでいる。
疲労で。
まぶたが垂れていた。
高く結んでいたポニーテールも崩れ。
何本もの髪が。
顔の周りへ乱れて垂れている。
完全に。
疲れ切っていた。
「何……?」
弱々しく尋ねる。
博文は。
単刀直入に切り出した。
「あの二人の友達について聞きたい」
林莉の顔が。
苦痛に歪んだ。
「お願い……」
「今じゃなきゃ駄目?」
「もう身体がバラバラになりそうなの」
「それに、お腹もペコペコ」
博文は頷いた。
「経営側は、薬が施設のPyxisから出たと思ってる」
「どうやってアクセスしたと思う?」
林莉が首を振った。
「分からない」
「身分証のバッジがなければシステムは開けられないの」
「医師たちも、誰が二人を手伝ったのか調べてるところ」
博文は。
しばらく黙った。
そして。
尋ねた。
「証拠を提出したのは君だ」
「その……」
「君まで疑われた?」
声には。
わずかな罪悪感が混じっていた。
「ごめん」
「君を巻き込むべきじゃなかった」
「証拠を渡してくれなんて頼むべきじゃなかった」
林莉が。
小さく鼻を鳴らした。
「心配しないで」
「黙って真面目に仕事してる勤勉な看護師の私を、疑ったりなんてしないわよ」
目を転がす。
声は。
皮肉たっぷりだった。
「ただ、いつか……」
「あいつらの澄ました顔に、証拠を全部叩きつけてやれる日が来ればいいけど」
博文は。
苦笑した。
まさに。
自分が考えていたことだった。
数秒後。
再び口を開く。
「力を貸してほしい」
「ナイジェルとディランの部屋を一緒に調べてくれ」
「何か見つかるかもしれない」
林莉は。
すぐには答えなかった。
代わりに。
慎重に廊下を確認する。
誰もいないことを確かめてから。
声を落とした。
「明日」
「明日は私があなたの担当だから」
「そのときに行きましょう」
それ以上。
話そうとはしなかった。
そして。
ようやく待ち望んでいた昼食を取りに。
足早に去っていった。
博文は。
複雑な気持ちで。
その背中を見送った。
捜査を。
丸一日先延ばしにしなければならない。
それが。
苛立たしかった。
それでも――
こういう状況になるたび。
博文は。
昔から大切にしている言葉を思い出した。
果報は寝て待て。
❖
昼が。
夜になった。
夜が明け。
朝になった。
博文にとって。
一秒一秒が。
永遠のように長かった。
そしてようやく。
林莉が。
彼の部屋へ戻ってきた。
捜査を。
再開できる。
朝のケアを終えると。
林莉は。
博文を電動車椅子へ移乗させた。
二人は一緒に。
ナイジェルとディランの部屋へ向かった。
幸い――
二人は。
同室だった。
おかげで。
捜索はかなり楽になる。
そして。
チャンスはすぐに訪れた。
ナイジェルとディランは。
一緒に理学療法へ行っていた。
少なくとも。
あと一時間は戻ってこない。
その隙を利用して。
林莉と韓博文は。
静かに部屋へ入った。
驚くほど。
何もない部屋だった。
シングルベッドが。
二台並んでいる。
シーツは同じ。
それぞれのベッドの横には。
小さなランプ。
二台の間には。
桜材のチェスト。
その上には。
古いレコードプレーヤー。
壁には。
35インチのテレビ。
それだけ。
写真なし。
飾りなし。
私物らしいものもない。
まるで。
誰もここで暮らしていないかのようだった。
他に調べる価値がありそうなものもなく。
博文は。
すぐにチェストへ注目した。
犯罪の証拠があるとすれば――
そこが。
最も可能性が高い。
「引き出しを調べて」
林莉が。
一段目を開ける。
中には。
綺麗に畳まれたタオルが数枚。
二段目は――
レコードでいっぱいだった。
ほとんどが。
1960年代のサイケデリック・ロック。
三段目には――
未開封のミネラルウォーターが。
ケースごと入っていた。
林莉が。
困惑する。
「何もない」
「叔父さんが昔好きだったような古いレコードくらい」
「薬をどこに隠してるのか、全然分からない」
博文は。
何かを見落としている気がした。
特に――
レコードでいっぱいの引き出し。
理由は。
説明できない。
だが。
直感が。
何かがおかしいと告げていた。
「レコードをもう一度調べて」
林莉は。
不思議そうにしながらも。
もう一度調べ始めた。
数分経っても――
何もない。
「俺に渡して」
林莉は。
レコードのジャケットを。
博文の車椅子のトレイへ並べた。
一枚ずつ。
表紙を上にして。
博文は。
すべてのアルバムを。
じっくり観察した。
林莉には。
何を探しているのか分からなかった。
だが。
これまでの経験から――
彼を信じることを覚えていた。
すべての行動には。
理由がある。
「端だ」
博文が。
突然言った。
林莉は。
すぐに理解した。
ジャケットを横向きにし。
彼が確認できるようにする。
博文が見ていたのは。
表紙の絵ではない。
レコードを差し込む。
ジャケットの開口部。
ほとんどのジャケットは。
開口部が2センチにも満たなかった。
どれも。
ほぼ同じ。
ただ一枚だけ。
違った。
アルバムタイトルは――
『夢への入口』。
アーティストは――
ジョニー・ミラージュ。
そのジャケットだけ。
開口部が。
明らかに他より広かった。
そして。
そのアルバムタイトル自体が――
博文には。
無視できなかった。
「それだ」
「中には何が入ってる?」
博文の目が。
輝いた。
ついに。
突破口を見つけた。
そんな感覚があった。
林莉が。
ジャケットを逆さまにして。
軽く振る。
レコードが。
ゆっくり滑り出した。
それと同時に――
別の何かが。
博文のトレイへ落ちた。
コトッ。
ラミネート加工された。
職員用身分証バッジ。
林莉が。
固まった。
「これ……」
「これが探してたもの?」
博文が。
わずかに笑う。
「それが証拠だ」
林莉が。
バッジを拾い。
名前を読む。
「アーサー・スミス」
「知ってる」
「ちょっと抜けてるところはあるけど……」
「ちゃんとした看護師だと思ってた」
苦々しく笑う。
「やっぱり……」
「人は見かけによらないのね」
博文は。
別の可能性を提示した。
「このバッジが二人のものじゃない可能性もある」
「盗んだのかもしれない」
林莉が頷く。
「どちらにしても……」
「確かめないと」
すぐに。
バッジをポケットへ入れる。
そして。
レコードをジャケットへ戻し。
すべてを。
元通り引き出しへ戻した。
部屋は。
何一つ変わっていない。
誰かが入った痕跡は。
まったくない。
そして林莉は。
急いで博文を。
部屋から連れ出した。
❖
その身分証バッジは。
最終的に。
ナイジェルとディランを破滅させる証拠となった。
その後の調査で。
アーサー・スミスは。
被害者ではなかったことが判明した。
彼も。
薬物販売網全体に関わる。
共犯者だった。
それから間もなく――
地元当局が。
摘発に動いた。
アーサーは。
警察に逮捕された。
そして。
ナイジェルとディランは――
介護センターの職員たちによって。
強制的に隔離棟へ連行された。
以前と同じように――
林莉は。
すべての証拠を。
経営側へ提出した。
韓博文が関わっていたことについては。
一切明かさなかった。
事件は。
解決した。
だが。
博文の疑問は。
増えるばかりだった。
連れていかれるナイジェルとディランが叫んだ。
最後の言葉。
それが。
頭の中で何度も響いていた。
「俺たちは、あんたたちに言われた通りにしただけだ!」
「言われた通りにしただけだ!」
「やめろ! こんなことするな!」
「嫌だ!」
「嫌だ――!」
博文の眉間に。
皺が寄る。
誰かに。
命令されていた。
だが――
誰に?
何をするように。
命令された?
そして。
なぜ?
くそ……。
どうして。
この場所の謎は。
一つ解決するたび。
また増えるんだ?
疑問ばかりで。
頭がおかしくなりそうだった。
だが。
それ以上考える時間すら。
与えられなかった。
すでに。
新しい何かが。
やって来ていた。
今度は――
夜中。
ドアの隙間から忍び込んでくる影ではない。
白い制服を着た。
複数の介助員たち。
博文が心の中で。
怠け者。
役立たず。
そう馬鹿にしていた男たちだ。
その中に――
見覚えのある顔がいた。
韓博文の瞳孔が。
縮んだ。
男の腕には。
小さな太鼓のタトゥー。
一瞬で。
分かった。
二人目の襲撃者。
そして――
博文を。
この介護センターまで連れてきた。
あのバスの運転手。
ジャズが好きだった。
あの男。
もし。
あのとき。
彼の警告を聞いていたなら――
こんなことには。
ならなかったのかもしれない。
「待て!」
「どこへ連れていくんだ!?」
「お前――」
言い終える前に。
介助員の一人が。
博文の車椅子のトレイを。
乱暴に叩き落とした。
トレイが。
凄まじい音を立てて壁へ激突する。
そして。
数人が。
博文を車椅子から引きずり下ろした。
力の入らない両脚が。
磨かれた床を擦っていく。
「林莉!」
「林莉――!」
博文は。
出せる限りの大声で叫んだ。
だが。
誰もいない廊下から。
返事はなかった。
この介護センターの中を。
博文は。
数え切れないほど移動してきた。
それなのに。
今。
彼らが進んでいる道には。
まったく見覚えがない。
恐怖が。
胸を締めつける。
それでも。
博文は必死に冷静さを保った。
引きずられながら――
曲がった場所を。
一つずつ記憶していく。
左……。
右……。
両開きのドアを抜けて……。
止まる……。
別の廊下……。
七歩……。
左へ……。
違う。
右。
それに。
七歩じゃない……。
三歩。
だったか?
そのとき。
韓博文は。
バラバラにされた死体を見るよりも。
はるかに恐ろしいものを目にした。
血のように赤い。
一枚の扉。
介助員たちが。
ゆっくりと。
それを開いた。
向こう側の闇は。
まるで生きているかのようだった。
一瞬で。
すべてを飲み込んでいく。
博文が最後に見たものは――
あの。
恐ろしいほど鮮烈な赤。
そして――
世界は。
闇の中へ消えた。
韓博文には。
分からなかった。
自分が――
再び光を見ること




