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第8章:人間太鼓の鼓動

蓮見悠真が李本徳医師と対峙した、その夜。

彼は病室のベッドに横たわり、身動き一つせず白い天井を見つめていた。

身体は完全に静止している。

だが――頭の中は違った。

思考は、終わりのないマラソンのように走り続けていた。

今夜は――眠れない。

いや。

眠ろうとするつもりさえなかった。

だが、彼を眠らせなかったのは思考だけではない。

その夜――悠真は、人生で最も痛ましい教訓の一つを知ることになる。

人は――目を覚ましたままでも夢を見ることができる。

あるいは。

悪夢に眠りなど必要ないのかもしれない。

最初に聞こえたのは、暗闇の中を響く微かな足音だけだった。

そして――

二つの影が突然、病室へ飛び込んできた。

悠真が誰か入ってきたと理解した時には――すでに二人はベッドのすぐ横に立っていた。

その後に起きたことを、悠真ははっきりとは思い出せなかった。

記憶は細かく砕け散っている。

完全な映像など残っていない。

残っているのは――感覚だけ。

鈍く重い痛みが、何度も顔を打つ感覚。

胸。

腹部。

腕。

脚。

一撃。

また一撃。

次々と身体へ叩き込まれる。

そして同時に――胸郭の中では、ゆっくりと規則正しい打撃音が響いていた。

まるで誰かが音楽を演奏しているように。

そして――悠真の身体そのものが。

太鼓になったかのように。

その後――すべてが闇へ消えた。

音もない。

光もない。

自分が存在しているという感覚さえ、ゆっくり薄れていく。

残ったのは――果てしない虚無だけ。

底がなく。

静かで。

無限。

悠真の意識に、一つの考えが漂った。

ああ……

死ぬって、こういう感じなのか。

だが――死は。

どうやら彼を連れていくつもりがなかったらしい。

どれほど時間が経ったのか、悠真にはわからなかった。

突然――

眩しい光が目を刺した。

悠真はゆっくり目を開ける。

全身に激痛が走った。

不思議なことに――それで安心した。

痛いということは。

まだ――生きている。

ベッドの横に立っていたのは――片桐圭介。

昨夜、夜勤を担当していた看護師だった。

悠真はゆっくり周囲を見回した。

ここは自分の部屋ではない。

医療機器が周囲を埋め尽くしている。

消毒薬の臭い。

家庭らしさなど、欠片もない。

別に構わなかった。

どうせ――ヒポクラテス介護センターを、自分の家だと思ったことなど一度もない。

圭介が静かに言った。

「目が覚めたんですね」

「動かないでください」

「それから、あまり喋ろうとしないで」

「重度の脳震盪を起こしています」

「骨折も何か所かあります」

悠真はただ頷いた。

強がるつもりなどなかった。

自分の身体を――自分以上に理解している人間などいない。

今は。

ほんの少し動くだけでも――身体が引き裂かれそうだった。

圭介は続けた。

「本当に心配したんですよ」

「六時間も意識がなかった」

「でも、心拍はずっと安定していました」

「だから……もっと酷いことになっていてもおかしくなかった」

悠真は何も言わなかった。

頭の中では、昨夜の出来事を何度も再生している。

だが記憶は不完全なまま。

抜け落ちた部分が多すぎる。

空白が多すぎる。

足りない……

もっと思い出さないと。

圭介は椅子をベッドの横へ寄せた。

「運がよかったんです」

「たまたま病室の外で物音を聞いて」

「中へ駆け込んだら……」

「二人の男があなたを殴っていました」

「追いかけたんですが……」

「逃げられました」

悠真はゆっくり目を閉じた。

つまり――

悪夢ではなかった。

本当に誰かが病室へ入ってきた。

本当に――自分を殺そうとした。

襲撃は正確だった。

効率的。

ほとんどの職員が気づいていない。

偶然ではない。

周到に計画されていた。

そして即座に。

一つの名前が浮かんだ。

李本徳医師。

襲撃されたのは――あの会話から数時間後。

今までわかっていることだけを考えれば。

李医師が最も疑わしい。

だが。

医師が、本当に命を守る誓いを裏切るだろうか?

悠真はその結論を拒んだ。

他に説明があるはずだ。

絶対に。

圭介の声が思考を遮った。

「さっき警察が来ました」

「まだ意識がなかったので」

「話を聞きたがっていました」

「もう少し回復したら、また来るそうです」

彼は少し迷った。

「今、話せますか?」

悠真の声は、乾いた囁きになった。

「……はい」

圭介は笑った。

「よかった」

「予想より早く回復しています」

「でも無理はしないでください」

そして――

圭介は悠真の手を優しく握った。

「聞きたいんですけど……」

「何か見ませんでした?」

「二人を捕まえる手掛かりになりそうなものとか」

「早く捕まえれば……」

「あなたも安全になります」

悠真はすぐに答えなかった。

意識のすべてが――圭介の手へ向いていた。

ここ数週間。

悠真は、ヒポクラテス介護センターで向けられる親切を――すべて疑うようになっていた。

なぜならここでは。

親切さえ――別の仮面になり得る。

そして握手というものは。

多くの人が思っている以上に、多くを語る。

圧力。

温度。

緊張。

手は――滅多に嘘をつかない。

そして悠真は、ほぼ即座に違和感へ気づいた。

圭介の握力が――強すぎる。

手のひらは――汗でびっしょりだった。

心配している人間の握り方ではない。

まるで――正体を暴かれることを恐れている人間の手。

悠真はいくつかの可能性を即座に消した。

心配じゃない。

罪悪感でもない。

恐怖だ。

でも――俺を恐れてるんじゃない。

自分自身を恐れてる。

あるいは――

誰かを。

やがて悠真は口を開いた。

「……何も……」

「思い出せません」

その言葉が出た瞬間。

圭介の握力が弱くなった。

肩の力が抜ける。

小さく息を吐いた。

安堵。

悠真はそのすべてを見逃さなかった。

結論は――すぐに出た。

昨夜、自分を襲った二人のうち一人は。

片桐圭介。

ただし――証拠がない。

まだ。

だから悠真は黙って聞いた。

圭介が、心配する看護師という役を演じ続けるのを。

圭介は大げさに溜息を吐いた。

「残念ですね」

「あいつら、まだ逃げてるんですよ」

「考えるだけで腹が立つ」

悠真は心の中で答えた。

俺もだよ。

もう少しで成功してたな。

長い沈黙の後。

悠真はもう一度目を閉じた。

「少し時間をください」

「真実は……」

「いつか必ず浮かび上がる」

圭介が笑った。

「そういうものですよ」

「じゃあ……」

「ちょっと飲み物を取ってきます」

「喉が痛くて」

彼は立ち上がった。

何気なく身体を伸ばし――

指を鳴らす。

パキッ。

パキッ。

何でもない仕草。

昔からの癖のように。

圭介は気づかなかった。

その動きによって。

悠真の視線が――真っすぐ彼の手へ向いたことに。

さっきまで悠真の視界はぼやけていた。

曇ったガラス越しに見ているように。

だが今は――はっきり見える。

先ほど見落としていた細部まで。

圭介の手の甲。

拳。

そこには――新しい擦り傷がいくつもあった。

看護師の手につく傷としては。

普通ではない。

悠真は無言で、その特徴を頭へ刻み込んだ。

それでも――まだ足りない。

やがて圭介は病室を出ていった。

再び静寂。

悠真は目を閉じた。

一つずつ。

手掛かりを整理する。

そして――あることに気づいた。

昨夜の襲撃は。

相当な音が出ていたはずだ。

なのに――ほとんど誰も来なかった。

本当に俺を殺すつもりだったなら……

時間は十分あった。

なら――

目的は殺人ではない。

本当の目的は。

警告。

残酷な――警告。

調査をやめろ。

悠真はゆっくり拳を握った。

残念だったな。

無理だ。

やめるつもりもない。

その時――

病室のドアが開いた。

二人の警察官が入ってくる。

どちらも若い。

制服には乱れ一つない。

それぞれ手帳を持っていた。

だが、顔に浮かんだ疲労感から――経験不足なのは明らかだった。

悠真には一目でわかった。

新人か。

しかも。

この事件を――大して重要だと思っていない。

もし重要視しているなら。

もっと経験豊富な刑事が来るはずだ。

それでも――悠真は協力するつもりだった。

一人が名乗った。

「こんばんは」

「高橋巡査です」

「こちらは佐々木巡査」

「昨夜の暴行事件について伺いに来ました」

悠真は眉をひそめた。

「“暴行事件”?」

「“暴行の疑い”じゃなかったんですか?」

高橋巡査は気まずそうに笑った。

「手続き上の表現です」

「気にしないでください」

「何があったのか教えていただけますか?」

悠真はしばらく黙った。

「ほとんど覚えてません」

「痛みだけです」

「重い痛み」

「一発一発が……」

「ハンマーで殴られてるみたいだった」

「それから……」

「ベッドの横に立ってる二人の影」

そして――

突然。

埋もれていた記憶が閃いた。

「……太鼓」

佐々木巡査が瞬きをする。

「太鼓?」

悠真はゆっくり答えた。

「一人に……」

「刺青がありました」

「太鼓の絵」

「左腕に」

「刑務所で入れた刺青です」

二人の警察官が顔を見合わせる。

「どうして刑務所の刺青だと?」

悠真は淡々と答えた。

「刑務所で入れる刺青は……」

「ボールペンのインクを使うことが多い」

「色が抜けていく」

「だんだん暗い緑色になる」

「プロが彫る刺青は、そうならない」

病室が静まり返った。

警察官たちは疑わしそうに悠真を見る。

その反応には慣れていた。

高橋巡査が渋々頷いた。

「……調べてみます」

悠真はそれ以上説明しなかった。

経験上。

人は――悠真の推理をなかなか信じない。

探偵を見るより先に。

車椅子を見る。

弱々しい患者。

無害な人間。

脅威ではない。

皮肉なことに――

だからこそ、人は悠真の前では警戒を解く。

そして――

決して明かしてはいけないことまで。

話してしまう。

悠真は昔から信じていた。

知識こそ。

自分の最も鋭い武器だと。

そして今――

それは唯一の盾にもなっていた。

少し間を置いて。

悠真は尋ねた。

「俺は戻らないといけませんか?」

「ヒポクラテス介護センターに」

高橋巡査が肩をすくめた。

「あなた次第です」

「戻りたいですか?」

本音は――

嫌だ。

だが。

捜査はまだ終わっていない。

今ここで逃げれば――

ヒポクラテス介護センターの中にいる人間たちは。

これからも罪のない入居者を傷つけ続ける。

やがて悠真は。

一言だけ答えた。

「……はい」

警察官たちは何も言わなかった。

高橋巡査が手帳を閉じる。

「残りはこちらで調べます」

「心配しないでください」

「病室の外に警察官を一人配置します」

佐々木巡査も頷いた。

「また質問があれば戻ってきます」

二人は病室を出た。

再び静寂。

悠真はまた天井を見つめた。

テレビは消えている。

重度の脊柱側弯症があるため。

悠真は褥瘡を防ぐため、枕の位置を細かく調整する必要があった。

病院の職員は忙しすぎて――そうした細かい部分に気づかないことが多い。

妙なことに。

ヒポクラテス介護センターでは違った。

あそこの職員たちには――

いつも。

時間があるように見えた。

本当の問題は。

その時間を――何に使っているのか。

悠真の思考が再び渦を巻く。

次々と仮説が浮かんだ。

入居者を秘密裏に別の施設へ送り、利益を得ている?

監視カメラの届かない場所へ連れて行っている?

恐喝?

虐待?

拷問?

それとも――

殺人?

しばらくして。

圭介が病室へ戻ってきた。

相変わらず。

心配そうな笑顔を自然に浮かべている。

完璧な演技だった。

悠真にはわかっていた。

これが――片桐圭介の役。

そして。

自分にも――演じるべき役がある。

そういうゲームなら。

最後まで付き合ってやる。

「具合はどうです?」

圭介は笑った。

「目が覚めて本当に安心しました」

悠真は軽く頷いた。

「かなり楽です」

「ただ、ずっと寝てるだけだから退屈で」

「誰かと話せると助かります」

圭介は椅子を寄せ、ベッドの横へ座った。

「もちろん」

「今ちょうど暇ですから」

悠真は。

ただの雑談でもしているように――自然な声で尋ねた。

「看護師になって何年ですか?」

「五年」

圭介が笑う。

「でもその前は、十年間介護助手をやってました」

「それから三年間、患者ケア技師も」

「だから……」

「だいたい何でも見てきましたよ」

悠真の顔に僅かな驚きが浮かぶ。

「そんなに仕事を変えてきたんですか?」

「どうして?」

圭介が笑った。

「金ですよ、もちろん」

「もっといい暮らしをしたくない奴なんていないでしょう?」

そして声を潜め。

得意げに笑う。

「それに……」

「給料が高いほうが女の子にもモテますから」

悠真は愛想よく笑った。

冗談が面白かったわけではない。

ただ――人間は気が緩むと。

ミスをする。

「まあ、わかります」

圭介は椅子にもたれ、天井を見上げた。

「実は……」

「自分が看護師になるなんて、昔は思ってもみませんでした」

「そうなんですか?」

悠真が促す。

「以前は何を?」

「酷いもんでしたよ」

「付き合う相手も悪かった」

「馬鹿なことをいっぱいやって」

「でも……」

「最後にはまともな道へ戻れました」

悠真は考えるように頷いた。

「それで、どうしてヒポクラテス介護センターへ?」

圭介が吹き出した。

「これ、たぶん信じてもらえないと思います」

「俺をここへ連れてきたのは――李先生なんですよ」

悠真は驚いたふりをした。

「どうやって知り合ったんです?」

圭介は肩をすくめる。

「俺があの人を強盗しようとしたから」

また笑う。

「あの頃は、ただの弱そうなインテリに見えたんですよ」

「簡単に金を取れると思った」

「ところが……」

「思ったよりずっと喧嘩が強かった」

「面白い話ですね」

悠真は淡々と答えた。

「李先生には、かなり恩があるんじゃないですか?」

圭介は即座に頷いた。

「もちろん」

「誰だってそうなりますよ」

「今までやってきたことを全部許してくれる人がいたら……」

「一生かかっても返せない借りになります」

悠真は頷いた。

「なるほど」

準備は整った。

悠真は突然。

話題を変えた。

「ところで……」

「聞いてもいいですか?」

「その手、どうしたんです?」

病室が――静まり返った。

圭介は反射的に自分の手を見る。

視線が手の甲へ走った。

そして――ほとんど反射的に。

両手をポケットへ突っ込んだ。

その動きがあまりにも速く。

逆に――不自然さが際立った。

早すぎたか?

悠真は思った。

だが。

もう戻れない。

圭介は無理やり笑った。

「何でもないですよ」

「数日前、ガレージを直してて」

「釘を外して、自分の手をハンマーで叩いちゃって」

「いつも自分は修理が上手いって思うんですが……」

「実際は、全然なんですよ」

悠真は落ち着いて答えた。

「次からはプロに任せたほうがいいですね」

圭介は笑って頷く。

「そうかもしれませんね」

そして――

その笑顔がゆっくり消えた。

「それで……」

「あなたを襲った男たち」

「本当に警察が捕まえると思います?」

悠真は即座に。

その質問に隠された意味を感じ取った。

「祈るしかないですね」

圭介は俯いた。

「あそこまで酷く殴られたってことは……」

「つまり……」

「あなたは何か知ってるんでしょう」

「誰にも知られたくないことを」

圭介は悠真の目をまっすぐ見た。

「俺があなたなら……」

「しばらく大人しくしてます」

「今の生活だって、それなりに快適でしょう?」

「正義なんかのために……」

「全部捨てる必要はない」

悠真は一切目を逸らさなかった。

「忠告ありがとうございます」

「でも……」

「俺の経験上」

「本当の正義は……」

「そう簡単に間違った側にはつかない」

圭介は数秒間黙っていた。

そして――ゆっくり立ち上がった。

「身体を大事にしてください」

言葉だけなら。

心配しているように聞こえた。

だが――表情は違う。

その目には。

心配など欠片もなかった。

あるのは――冷たさ。

そして。

もっと暗いもの。

静かな悪意。

もしかすると――

李医師よりも。

不気味なほどの。

圭介はそれ以上何も言わず、病室を出ていった。

カチッ。

ドアが閉じる。

再び静寂が広がった。

悠真は目を閉じる。

得られた情報を。

一つずつ整理する。

そして――

ある記憶が頭をよぎった。

悠真は目を見開いた。

指輪。

襲撃の時。

圭介は左手の人差し指に――金の指輪をしていた。

帯の両側には小さなダイヤモンド。

中央には――浮き彫りの髑髏。

もし、その指輪をつけた拳で身体を殴られたなら。

特徴的な跡が残っているかもしれない。

だが――

包帯だらけ。

病衣を着ている。

自分で身体を確認することはできない。

誰かに頼むしかない。

数時間が過ぎた。

誰も病室へ入ってこない。

悠真は焦り始めた。

時間が経ちすぎれば――

証拠は消えるかもしれない。

このまま本当に――

逃げ切られるのか?

その時。

悠真の視線が病室の入口へ向いた。

外には警察官が一人立っている。

先ほど高橋巡査が話していた。

悠真の警護を担当する警察官だ。

悠真は即座に声をかけた。

「すみません」

「少し来てもらえますか?」

警察官が驚いた。

「私ですか?」

悠真は頷いた。

警察官がベッドの横へやって来る。

「何か必要ですか?」

悠真はゆっくり息を吸った。

「お願いがあります」

警察官は待った。

「胸を確認してもらえますか?」

警察官が瞬きをした。

「……はい?」

悠真は落ち着いて説明した。

「変なお願いなのはわかってます」

「でも……」

「探しているものがあります」

「跡です」

「髑髏の形をした跡」

警察官が眉をひそめる。

「髑髏?」

悠真は頷いた。

「お願いします」

「重要な証拠かもしれない」

警察官は少し迷った。

そして溜息を吐く。

「……わかりました」

「見てみます」

慎重に。

悠真の病衣を少しめくる。

身体のほとんどは――厚い包帯で覆われていた。

見えているのは。

痣になった皮膚の一部だけ。

警察官は一つずつ丁寧に確認した。

一分。

もう一分。

病室に聞こえるのは。

心電図モニターの規則正しい電子音だけ。

その時――

警察官が止まった。

目が大きくなる。

表情が――困惑から。

驚愕へ変わる。

悠真からは。

彼が何を見ているのか見えない。

だが――

もうわかっていた。

悠真は微かに笑った。

「……ありましたね」

警察官がゆっくり顔を上げる。

声が――明らかに真剣になっていた。

「あります……」

唾を飲み込む。

「本当に」

悠真は目を閉じた。

「どんな跡です?」

警察官がさらに近づく。

「痣です」

「でも普通の痣じゃない」

「これは……」

少し間を置く。

「指輪の跡みたいです」

視線は悠真の胸へ釘付けになっている。

「髑髏です」

「驚くくらい細かく残ってる」

「目の窪み」

「顎」

「輪郭まで」

「全部」

長い数秒。

二人とも何も言わなかった。

やがて警察官が尋ねた。

「どうしてわかったんです?」

悠真はゆっくり目を開けた。

「思い出したからです」

「俺を襲った男の一人が……」

「指輪をしてた」

「金の指輪」

「浮き彫りの髑髏がついた」

警察官の表情が即座に変わった。

もう――推測ではない。

物的証拠。

「もし本当なら……」

警察官が呟いた。

「あなたを襲った奴は……」

「自分の署名を残していったことになる」

悠真は弱く頷いた。

「その通りです」

警察官は姿勢を正した。

「すぐ報告します」

急いでドアへ向かう。

出る直前。

振り返った。

「蓮見さん……」

「これは、初めての本格的な手掛かりかもしれません」

ドアが閉じた。

悠真はゆっくり枕へ身体を預けた。

襲撃以来――初めて。

少しだけ。

身体の力を抜いた。

危険が去ったからではない。

そんなことはない。

自分を襲った人間は――今もヒポクラテス介護センターのどこかにいる。

だが。

今度は――向こうがミスをした。

不注意な。

小さなミス。

そして悠真は昔から知っていた。

どれだけ慎重な犯罪者でも――

いつか必ず。

何かを残す。

必要なのは――

それに気づく人間だけだ。

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