第7章:声を潜めて読む
ヒポクラテス介護センターの図書室は、施設内でも特に静かな場所の一つだった。
もう一つは――霊安室だ。
蔵書の数は、決して多いとは言えなかった。
それでも、長い午後を本棚の間で過ごすことを好む数少ない入居者たちにとっては、十分すぎるほどだった。
そして、この図書室を誰よりも愛していたのが――高橋悠司。
二十代の青年だった。
下半身麻痺のため、長年車椅子を使用している。
なぜなのかは誰にもよくわからなかったが――悠司はいつも、人から最も来てほしくないと思われる場所に現れてしまうような人間だった。
自分の家族の中でさえ。
ただし――この図書室だけは違った。
ここでは、彼には居場所があった。
本を開けば――現実は消えていく。
ほんの少しの間だけ、自分の身体では決して行くことのできない場所へ旅することができた。
ヒポクラテス介護センターへ初めて入居した時、悠司が最初に尋ねたのは、自分の部屋がどこにあるのかではなかった。
最初の質問は――
「図書室はありますか?」
だった。
それから間もなく、悠司は小さな読書会を始めた。
参加者は決して多くなかった。
だが不思議なことに――その会は続いた。
誰にも邪魔されることなく。
そして今――悠司が姿を消してから、三日が経過していた。
相次ぐ入居者の失踪は、ようやく一部の職員たちの注意を引き始めていた。
ただし――ほんの一部。
施設全体を動かすほどではない。
まったく。
いつも通りの日常は続いた。
食事が配られる。
看護師たちは巡回する。
医師たちは診察を行う。
悠司という人間など最初から存在しなかったかのように。
すべてが続いていた。
誰もが彼を忘れていた。
誰もが――ただ一人を除いて。
蓮見悠真。
そして、読書会の仲間たち。
悠真は驚かなかった。
ヒポクラテス介護センターについて、すでに一つ――恐ろしいことに気づいていたからだ。
ここでは、人が忘れられるのが早すぎる。
幸い――悠真は違った。
彼は忘れない。
◇ ◇ ◇
莉奈の休暇が始まった翌日、悠真は限界を迎えた。
彼女がいなければ――調査はほとんど不可能だった。
他の看護師たちにも協力を頼んでみた。
全員、丁寧に断った。
中には――笑った者さえいた。
その日、悠真は一つの不愉快な事実を理解した。
莉奈がいなければ、この施設で起きている謎は――一つも解決できない。
介護センターの中に隠された秘密は、永遠に埋もれたままになる。
入居して以来、初めて――悠真は、本当の意味で無力だと感じた。
*これが……一人になるってことなのか。*
そしてようやく――莉奈が休暇から戻ってきた。
悠真はほとんど即座に彼女を見つけた。
どこから調べるべきかも、すでに決めていた。
悠司が消えたのなら――彼について最もよく知っているのは、読書会の仲間たちだ。
リーダーを失ったことで、読書会はすべての活動を休止していた。
そして今日、最後の集まりが開かれる。
皆で悲しみを分かち合う最後の時間。
辛い現実を受け入れるための最後の機会。
高橋悠司は――もう、戻ってこないかもしれない。
悠真は参加することにした。
無遠慮なのはわかっている。
他人の個人的な会話へ首を突っ込むなど、探偵として褒められた礼儀ではない。
だが、真実に近づけるのなら――その程度の罪悪感は受け入れられる。
◇ ◇ ◇
読書会のメンバーたちは、図書室の奥にある円形のテーブルを囲んでいた。
他に利用者はいない。
重い沈黙が部屋を包んでいた。
誰も、何を言えばいいのかわからない。
時には――わからないということそのものが、最も重い苦しみになる。
テーブルには三人が座っていた。
佐藤慎一。
小林美咲。
そして――森川敦志。
三人とも、施設内で特に人気のある入居者というわけではなかった。
だが、本が彼らを結びつけた。
そして今日――その輪の中に、二人の部外者が加わった。
蓮見悠真。
そして、白石莉奈。
悠真はゆっくりテーブルへ近づいた。
待つ。
ほぼ同時に――三人が顔を上げた。
その表情には警戒が浮かんでいる。
最初に口を開いたのは慎一だった。
「何の用だ?」
悠真は落ち着いて答えた。
「実は……俺も、まさにその質問に答えるために来た」
「行方不明になった君たちの友人について、話を聞きたい」
「蓮見悠真だ」
美咲が静かに首を振った。
「遅すぎるわ」
「悠司は行方不明なんかじゃない」
彼女は俯いた。
「死んだのよ」
悠真は即座に尋ねた。
「遺体は見つかったのか?」
「いいえ」
「でも……」
美咲の声が震えた。
「他にどこにいるっていうの?」
彼女はさらに俯いた。
声がほとんど囁き声になる。
「三年間……悠司はいつだって一番最初に来てた」
「一度だって集まりを休んだことがない」
悠真は少し考えた。
「教えてくれないか」
「失踪する前――何があった?」
慎一が眉をひそめる。
「なんでそこまで気にするんだ?」
「悠司からお前の名前なんて聞いたことない」
「そもそも知り合いですらなかったんだろ?」
「なのに、どうして調べる?」
悠真は数秒間黙った。
そして答えた。
「友達を守りたい気持ちはわかる」
「でも、信じてほしい」
「悪意があってやってるわけじゃない」
悠真は三人を見る。
「最近起きている失踪事件は……全部つながっていると思ってる」
「そして――君たちも同じことを考え始めてるんじゃないか?」
図書室が再び静まり返った。
慎一が口を開く。
だが――言葉は出てこない。
悠真は小さく頷いた。
「やっぱりな」
その時、ようやく――敦志が口を開いた。
三人の中で、間違いなく最も無口な男だった。
いつも背中を丸め、いつも存在感を消そうとしている。
だからこそ、彼が口を開くと――全員が聞いた。
「彼は……ここにいた」
悠真が瞬きをした。
「ここ?」
「図書室に?」
敦志は頷いた。
「失踪する前の日……俺は彼と話した」
「悠司は……閉館後も残るつもりだって言ってた」
「次の読書会で読む本を選びたいって」
敦志は俯いた。
「それから……誰も彼を見てない」
悠真は続けた。
「失踪を報告したのは誰だ?」
「俺たちだ」
慎一が答えた。
莉奈が眉をひそめた。
「職員は気づかなかったんですか?」
「その日、悠司さんを担当していた看護師が最初に報告するはずです」
美咲が苦い笑みを浮かべた。
「しなかったわ」
「私たちが聞くまでは」
「それで初めて――みんな悠司がいなくなってることに気づいたの」
莉奈の表情が険しくなる。
「その日、担当だった看護師を覚えていますか?」
慎一は首を振った。
「いや」
「看護師なんて、しょっちゅう入れ替わる」
「今日会っても……明日は二度と会わないかもしれない」
「だから誰も名前なんて覚えない」
「みんな同じに見える」
莉奈は頷いた。
「私が調べてみます」
悠真は少し間を置いた。
そして――最後の質問をした。
「誤解しないでくれ」
「これは一応、確認しておく必要がある」
三人を見る。
「悠司に敵はいたか?」
慎一は即答した。
「いない」
「読書会以外じゃ……ほとんど部屋にいた」
「そうじゃなければ、本を読んでた」
「誰かに迷惑をかけるような奴じゃなかった」
悠真はゆっくり頷いた。
「わかった」
「聞きたいことは全部聞けた」
「ありがとう」
少し間を置く。
「それから……友人のことは残念だった」
悠真と莉奈は静かにその場を離れた。
彼らには――悲しむ時間が必要だ。
そして悠真にも、考える時間が必要だった。
彼は莉奈へ顔を向ける。
「担当看護師のことは、まだ調べなくていい」
莉奈が眉を上げた。
「どうして?」
「まず、この場所を調べたい」
「何を探すの?」
悠真はゆっくりと並んだ本棚を見渡した。
「棚Aから始める」
そして、
「一つ残らず全部調べる」
莉奈は溜息を吐いた。
「そう言うと思った……」
それでも――彼女はついてきた。
悠真の奇妙な捜査方法には、とっくに慣れていた。
◇ ◇ ◇
二人は本棚を一つずつ調べていった。
A。
次はB。
そしてC。
時間だけが過ぎていく。
何もない。
莉奈は次第に疲れ始めた。
だが――悠真の身体は、それ以上の速さで限界へ近づいていた。
捜索を続けるため、午後の呼吸治療を飛ばした。
薬も飲んでいない。
莉奈は何度も頼んだ。
休んでほしい。
治療を受けてほしい。
薬を飲んでほしい。
そのたびに――悠真は拒否した。
時間のほうが大切だった。
だが、彼の身体は――そんな理屈など知ったことではない。
呼吸が少しずつ重くなる。
胸の奥から微かな喘鳴が聞こえ始める。
気道が狭くなっていた。
悠真には、それが何を意味するのかわかっていた。
もう長くは続けられない。
何か、見つけなければ。
そして――Xの棚へ到達した時、悠真は突然止まった。
床に一冊の本が落ちていた。
ページが何枚もカーペットへ散らばっている。
表紙を下にしたまま。
清潔に整えられた図書室の中で、明らかに――異質だった。
悠真が囁いた。
「見つけた」
莉奈が急いで近づく。
本を拾い上げた。
表紙は濃い灰色の革。
絵はない。
ただ、金色の文字で題名だけが刻まれていた。
『忘れられた者たち』
著者――ウィリアム・サンダー。
莉奈が眉をひそめる。
「変ね」
悠真が手を伸ばした。
「見せて」
莉奈は本と破れたページを、悠真の車椅子に取り付けられたトレーの上へ置いた。
悠真は慎重に調べた。
表紙は酷く傷んでいる。
ページは年月で黄ばんでいた。
角も擦り切れている。
何十年も前の本に見えた。
もしかすると――初版本かもしれない。
次に、散らばったページを確認する。
端がギザギザだった。
自然に外れたわけではない。
引き裂かれている。
力任せに。
さらに奇妙なのは――どのページも続いていないことだった。
すべて、小説のまったく異なる部分から破られている。
まるで――誰かが意図的にバラバラにしたように。
悠真は本をめくり続けた。
そして、止まった。
背表紙の隙間から――白いものが覗いている。
折り畳まれた紙。
本そのものより、明らかに新しい。
「あそこだ」
悠真が指差した。
「真ん中」
莉奈は慎重に取り出した。
紙を開こうとして――あるものに気づいた。
端の一角。
乾いた血液が一滴だけ付着していた。
莉奈は何も言わなかった。
そのまま完全に紙を開いた。
そこには――手書きの文章が一文だけ。
「忘れられた者たちを探せ。」
二人は黙った。
悠司は間違いなく何かを発見していた。
何かを――この図書室の中で。
文章の下には雑な絵が描かれている。
いくつかの円。
いくつかの四角。
そして歪んだ線。
それは――どう見ても地図だった。
悠真は静かに言葉を繰り返した。
「忘れられた者たち……」
莉奈が彼を見る。
「意味がわかる?」
悠真はゆっくり首を振った。
「まだ」
「でも……時間が必要だ」
「この本を最初から最後まで全部読む」
「もしかしたら……答えが中にある」
悠真は傷んだ小説と謎のメモを慎重にしまった。
悠司が生きていようと、死んでいようと、彼の友人たちには――真実を知る権利がある。
そして悠真は探すことをやめない。
真実を――見つけるまでは。
◇ ◇ ◇
その夜、悠真はようやく自室へ戻った。
呼吸治療を済ませ、薬を飲んだ。
図書室を出る前、あのメモを読書会の三人にも見せていた。
残念ながら――彼らの不安をさらに強くしただけだった。
悠真は眠らなかった。
代わりに『忘れられた者たち』を最初から最後まで読んだ。
悠司が意図的にこの本を残したのなら――答えは必ずどこかにある。
だが、小説は予想以上に読みづらかった。
文章が古い。
堅苦しい。
長く複雑な文章ばかり。
読み終えるまで――ほとんど一晩かかった。
そしてようやく最後のページを閉じた時、悠真は落胆した。
悠司につながる明確な手掛かりは何一つない。
それどころか――そもそも悠司が好みそうな小説ですらなかった。
後で読書会の三人へ本を見せると、全員の意見が一致した。
悠司が自分からこの本を選ぶはずがない。
この三年間、読書会で選ばれた本はすべてファンタジーだった。
ローファンタジー。
ハイファンタジー。
だからこそ――悠真は読書会に参加したことがなかった。
単純にファンタジーが好みではない。
『忘れられた者たち』の舞台は、十九世紀後半。
ある開拓者の一団が先住民の領域へ入り、一人、また一人と姿を消していく。
現地の祈祷師たちは、土地そのものが呪われていると主張する。
そこで、一人の先住民の捜査官が真相を突き止めるため調査を始める。
彼の前には――無数の超自然現象らしき出来事が現れる。
だが、最後の最後で――真実が明かされる。
呪いなど最初から存在しなかった。
本当の殺人犯は――軍から離反した騎兵隊だった。
失踪した開拓者たちは全員殺害されていた。
遺体は目印すらない墓へ埋められていた。
永遠に発見されることなく。
悠真はゆっくりと本を閉じた。
疑念がさらに強くなる。
悠司の失踪は――事故ではない。
他の失踪も、一つとして事故ではない。
ヒポクラテス介護センターの中に、すべてを仕組んでいる人間がいる。
そして、そいつは――ほぼ間違いなくこの施設で働いている。
もしかすると、一人ではない。
悠真は眉をひそめた。
頻繁に変わる勤務シフトのせいで、調査は難しい。
莉奈を除けば――看護師の名前すらほとんど知らない。
だから可能な限り、いつも彼女を担当に指名していた。
幸い――施設側はこれまで毎回その希望を認めていた。
その頃、莉奈も調査を止めてはいなかった。
彼女が知りたいことは一つ。
悠司が失踪した日――担当だった看護師は誰なのか。
グリーン湖での事件以来、莉奈の中で何かが変わっていた。
消えたポビドンヨードを調べた時と同じように、彼女自身が――真実を追うようになっていた。
数日後、物資管理部門から重要な情報を得た。
介護センターは大量のポビドンヨードを発注していた。
ところが――その薬品は一度も在庫へ入っていない。
莉奈が製造元へ問い合わせると、相手は間違いなく配送したと主張した。
正しい住所へ。
正常に。
その話を聞いた瞬間、悠真の頭の中に新しい可能性が生まれた。
誰かが――配送された荷物を途中で奪った。
湖を汚染した人間が、他の事件にも関係している可能性がある。
もしそうなら――次にやるべきことは一つしかない。
施設内で最も権限を持つ人物から、答えを聞く必要がある。
李本徳医師。
彼の反応次第で――悠真の捜査が向かう方向が決まる。
問題は単なる一般職員だけなのか。
それとも――経営陣にまでつながっているのか。
◇ ◇ ◇
翌朝、悠真が最初にしたことは――李医師との面会を申し込むことだった。
偶然にも、その朝は時間が空いていたらしい。
わずか二時間後、面会が設定された。
悠真は小さく笑った。
李医師に会うのが楽しみだからではない。
むしろ――逆だ。
李医師も同じくらい悠真に会いたがっている。
そういうことだからだ。
その日、莉奈は休みだった。
悠真の担当看護師は――田中直人。
無口な男。
控えめ。
悠真もほとんど覚えていない。
以前、一日だけ担当になったことがある。
それだけでは――人柄を判断するには短すぎる。
これから始まる会話を想像して、悠真は少し笑いそうになった。
直人がこれから聞く話にどう反応するのか、興味はあった。
だが同時に――その不確実さが悠真を慎重にもさせていた。
探偵には時に危険を冒す必要がある。
そして今日は――まさにその日だった。
◇ ◇ ◇
李医師はいつものように机の向こう側へ座っていた。
悠真が入ってくると――丁寧な笑みを浮かべる。
「蓮見さん」
「またお会いできて嬉しいですよ」
「もう一度お話ししたいと思っていました」
「前回のお話は……なかなか興味深かったですからね」
悠真は落ち着いて答えた。
「こちらも同じですよ」
李医師は身を乗り出した。
両手を組む。
「こちらでの生活には慣れましたか?」
悠真は世間話を飛ばした。
「いいえ」
「だから来ました」
李医師が眉を上げる。
「ほう?」
「聞きましょう」
悠真は彼の目をまっすぐ見た。
「ヒポクラテス介護センターには……深刻な問題があります」
「入居者が次々と姿を消している」
そして、
「すでに一人――殺されている」
李医師は溜息を吐いた。
「聞いています」
「この施設でそのような悲劇が起こることなど、誰も望んでいませんでした」
「ましてや――あなたは現場を直接目撃してしまった」
「そのことについては……本当に申し訳なく思っています」
彼は一度言葉を切った。
そして、安心させるような笑みを浮かべる。
「ですが、心配する必要はありません」
「犯人はすでに逮捕されています」
「危険は去りました」
悠真はゆっくり首を振った。
「そうは思いません」
李医師が首を傾げる。
「ほう?」
「なぜです?」
「まだ人が消えているからです」
悠真は答えた。
「そして一番問題なのは……誰も、どこへ消えているのかわからない」
李医師はまた溜息を吐いた。
「あなたの懸念は理解できます」
「本当に……私も同じ気持ちです」
「こちらでも調査します」
「ですから――私たちに任せてください」
「今は……ご自身の健康を守ることが最も大切です」
悠真はしばらく黙った。
それから、
「あなたの言う通りならいいんですが」
「でも――何も変わらないなら、もっと権限のある人たちに話すしかありません」
「警察」
「あるいは――理事会」
悠真は李医師の表情を観察した。
「きっと……喜ばないでしょうね」
李医師は笑った。
椅子の背もたれへ身体を預ける。
「危うく忘れるところでした」
「あなたは謎解きがお好きでしたね」
「ですが、法的に言えば……あなたには何の権限もない」
「結局のところ……これは単なる趣味でしょう?」
悠真は頷いた。
「今のところは」
「でも――もう一つ質問があります」
李医師の笑みは消えない。
悠真は続けた。
「ケリーさんの湖に入れられたポビドンヨード」
「大量の薬品です」
「どうして――あそこにあったんでしょう?」
オフィスが静まり返った。
初めて――李医師の笑顔が消えた。
数秒、沈黙が続く。
そしてようやく彼は答えた。
「残念ですが……そのような話は初耳です」
「それは……少々信じ難いですね」
「ケリーさんは昔から想像力の豊かな方です」
「長年一人で生活していると……誰でも疑り深くなることはあります」
悠真は静かに答えた。
「想像じゃない」
「俺自身が水を採取しました」
「ポビドンヨードの臭いも確認した」
李医師の表情は変わらない。
「それでも……意図的に汚染された証拠にはなりません」
「他にも多くの可能性があります」
悠真は突然話題を変えた。
「ところで――介護センターの拡張計画は順調ですか?」
ほんの一瞬、李医師が固まった。
まるで何かを隠しているところを見つかった子供のように。
顔から血の気が引く。
額に小さな汗が浮かぶ。
悠真は続けた。
「いつも予算不足を訴えている施設なのに……なぜか拡張工事をする金はある」
「すごいですね」
数秒後、李医師は平静を取り戻した。
笑顔も戻る。
「蓮見さん」
声が低くなる。
「このまま調査を続ければ……あなた自身を非常に危険な状況へ追い込むことになるかもしれませんよ」
「もし本当の犯人がまだこの施設内にいるのなら……きっと、自分の邪魔をする人間を歓迎しないでしょう」
彼の声がさらに柔らかくなる。
「私はただ、あなたの安全を心配しているだけです」
「この施設にいるすべての入居者を大切に思っているのと同じように」
悠真は答えなかった。
二人の男はただ互いを見つめた。
どちらも目を逸らさない。
怒鳴り声はない。
怒りもない。
あるのは――静かな意地と意地のぶつかり合い。
先に瞬きをしたほうが――負ける。
そんな無言の戦い。
部屋の隅では、直人がひどく居心地悪そうに立っていた。
この二人の間にどんな因縁があるのか、彼は知らない。
そして、本当の会話が――言葉では交わされていないことにも気づいていなかった。
これは心理戦だった。
やがて――悠真が車椅子の向きを変えた。
そして部屋を出る。
オフィスのドアがゆっくり閉まった。
その瞬間、悠真には――一つだけ絶対に確信できることがあった。
腐敗は――すでに木の一番上まで広がっている。
そして、ヒポクラテス介護センターの中で、今も悠真を信じてくれる人間は――たった一人。
彼を助けようとしてくれる人間も――たった一人。
白石莉奈。




