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第6章 血痕を辿って

博文と莉奈は、床に残された血痕を見つめていた。

 二人とも――

 次に何をすべきか、分かっていた。

 まず警戒しながら周囲を確認する。

 廊下の左右。

 誰もいない。

 夜勤の職員と一部の入居者を除けば、この時間のヒポクラテス療養ホームはもともと静かだった。

 現在時刻――

 午後六時三十分。

 博文は血痕へ視線を落とす。

 色は、まだ鮮やかな赤。

 完全には固まっていない。

 つまり――

 流れてから、それほど時間は経っていない。

 これが誰の血なのかは分からない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 この血を流した人間は――

 重傷を負っている。

 あるいは。

 今まさに、命を失いかけている。

 二人はそれ以上迷わなかった。

 血痕を追って、すぐに廊下の奥へ進む。

 博文の頭には、次々と可能性が浮かんでいた。

 切断された腕?

 首を落とされた死体?

 それとも――

 内臓が床一面に散らばった、凄惨な現場?

 そのとき。

「……うぅ……。」

 廊下の奥から、かすかな呻き声が聞こえた。

 二人は同時に止まった。

 顔を見合わせる。

 少なくとも――

 まだ生きている。

 二人は急いで角を曲がった。

 そして次の瞬間。

 目に飛び込んできた光景は、博文が想像していたものとはまるで違っていた。

 一人の老人が、床にうつ伏せで倒れている。

 両腕と両脚を投げ出したまま。

 そして――

 全裸だった。

「っ!」

 莉奈はほとんど反射的に駆け出した。

 老人の横へ膝をつく。

 まず脈を確認する。

「脈はあります……。」

 指先に意識を集中させる。

 その表情が険しくなった。

「でも、弱くなってる。」

 莉奈は慎重に老人の身体を仰向けにした。

 肩を軽く叩く。

「分かりますか!」

「聞こえますか!」

「目を開けてください!」

 老人の瞼がわずかに動いた。

 ゆっくりと目が開く。

 口元からは、絶え間なく血が流れていた。

「に……。」

 声にならない。

 莉奈が顔を近づける。

「何ですか?」

「ゆっくりで大丈夫です。」

 老人は必死に息を吸った。

「逃げ……ろ……。」

「え?」

「近づく……な……。」

 血に濡れた唇が震える。

「赤い……。」

「……扉……。」

「赤い扉?」

 その直後。

「ゴフッ!」

 老人の口から、大量の血が噴き出した。

「っ!」

 莉奈が身体を支える。

 だが――

 老人はそのまま意識を失った。

「先生!」

 返事はない。

 そしてようやく。

 莉奈は傷口を発見した。

「……嘘。」

 老人の左胸。

 そこには――

 巨大な刺創があった。

 肋骨を横切るように深く刻まれた傷。

 そこから、血液が絶え間なく流れ出している。

 莉奈の顔色が一変した。

「誰か来て!」

 廊下へ向かって叫ぶ。

「負傷者です!」

「早く!」

 だが――

 博文は老人を見ていなかった。

 彼の視線は、まったく別の場所へ向けられていた。

 廊下の反対側。

 床の上に――

 何かが落ちている。

「……。」

 折り畳み式の小型ナイフ。

 刃は血で真っ赤に染まっていた。

 先端から、一滴。

 また一滴。

 血液が白い床へ落ちていく。

 博文は目を細めた。

 もっと詳しく確認しようとした、そのとき――

「どいてください!」

 二人の介護職員が走ってきた。

 大柄な身体が、博文の視界をほとんど塞ぐ。

 博文は二人を知っていた。

 ここ数日、何度も見かけている。

 椅子に座って雑談しているか。

 雑誌を読んでいるか。

 だいたい、そのどちらかだった。

 こんな必死な顔で走っているところを見るのは――

 初めてだ。

 ――ようやく本気で仕事を始めたか。

 博文は心の中で呟いた。

 自分でも、不謹慎なのは分かっている。

 それでも。

 血。

 重傷者。

 死。

 そういったものを目の前にすると――

 博文は無意識に、ブラックユーモアへ逃げ込む癖があった。

 恐怖を感じないからではない。

 むしろ逆だ。

 恐怖を、自分なりの方法で処理している。

 もちろん。

 そんなことを実際に口に出したことはない。

 誰かに言えば、また変な目で見られるだけだ。

 だから――

 考えるだけ。

 笑うのも。

 怒るのも。

 怯えるのも。

 ほとんどすべて、自分の中だけで終わらせる。

 佐伯博文という男は――

 人生の大半を。

 自分の頭の中で生きてきた。


❖

 老人が襲われたという知らせは、瞬く間にヒポクラテス療養ホーム全体を駆け巡った。

 施設はただちに全面封鎖。

 警察も通報を受け、すぐに現場へ駆けつけた。

 警察の発表によれば――

 容疑者は現場のすぐ近くで確保されたという。

 抵抗はなかった。

 逃げようともしなかった。

 そして――

 一言も喋らなかった。

 一方。

 襲われた老人は……。

 懸命な救命処置もむなしく、傷が深すぎたため、そのまま息を引き取った。

 警察の確認によって、老人の身元も判明した。

 名前は――

 高橋天祐(たかはし てんゆう)。

 数年前、重大な交通事故に遭い、その後遺症によって重い障害が残った。

 それをきっかけに、ヒポクラテス療養ホームへ入居したという。

 警察はその後、博文と莉奈からそれぞれ事情を聞いた。

 残念ながら――

 二人が提供できる情報は、それほど多くなかった。

 だが。

 博文の事情聴取だけは、少し妙なものになった。

 なぜなら――

 話を聞かれているはずの博文が、ほとんど警察へ質問していたからだ。

「容疑者の動機は分かったんですか?」

 博文が突然尋ねた。

 二人の警察官が同時に動きを止める。

 互いに顔を見合わせた。

「……何?」

「すみません。」

 博文は淡々と言った。

「少し気になっただけです。」

「俺も現場を全部見たわけじゃありません。」

「でも……。」

 少し間を置く。

「衝動的な犯行には見えませんでした。」

 一人の警察官が眉をひそめる。

「どうしてそう思う?」

「傷です。」

 博文は答えた。

「傷口がきれいすぎる。」

「狙った場所も明確でした。」

「刃物を入れるときに、ほとんど迷いがない。」

「まるで――」

「外科手術みたいに正確だった。」

 警察官の表情が少し変わった。

 博文は続ける。

「もし極度の怒りに任せて人を刺したなら。」

「もっと傷が乱れていてもおかしくない。」

「何度も刺したり。」

「狙いがずれたり。」

「そういう痕跡が残るはずです。」

「違いますか?」

 警察官の顔が険しくなった。

「もういい。」

 低い声だった。

「探偵さん。」

 その呼び方には、明らかな皮肉が込められている。

「捜査するのは我々の仕事だ。」

「あなたは聞かれたことだけに答えてくれ。」

「どう捜査するかまで教えてもらう必要はない。」

 博文は静かに頷いた。

「分かりました。」

 それ以降――

 彼は一言も余計なことを言わなかった。

 これ以上追及しても、相手を苛立たせるだけだ。

 それくらいは理解している。

 警察がいる間は――

 何もしないほうがいい。

 本当の調査は。

 彼らが帰ってから続ければいい。

❖

 三十分後。

 事情聴取は終了した。

 警察は現場で必要な確認を済ませると、ほどなくして撤収を始めた。

 彼らにとっては――

 証拠の揃った殺人事件だった。

 凶器がある。

 容疑者もいる。

 現場も特定されている。

 そして容疑者は、犯行現場の近くで確保された。

 すべてが――

 あまりにも分かりやすい。

 だからこそ。

 博文は不安だった。

「……。」

 何かがおかしい。

 説明できない。

 まだ証拠もない。

 だが――

 あまりにも簡単すぎる。

 まるで最初から。

 誰かが「こういう事件だった」と説明するために、必要なものをすべて並べておいたような――

 そんな違和感があった。

 警察が施設を出ようとしていたとき。

 博文は遠くに、連行される容疑者の姿を見つけた。

「……あれが。」

 汚れた入居者用の服を着た男だった。

 両側を警察官に挟まれ、ゆっくりと廊下を歩いている。

 抵抗はしない。

 暴れもしない。

 助けを求めることもない。

 その顔には――

 何の表情もなかった。

 怒り。

 恐怖。

 後悔。

 悲しみ。

 何一つ浮かんでいない。

 ただ、虚ろな目で前を見ている。

 感情そのものを失ってしまったかのようだった。

 だが同時に。

 その瞳は鏡のようにも見えた。

 周囲のすべてを映している。

 それなのに――

 自分自身の中には、何も存在しない。

 博文はその男から目を離せなかった。

 あの目。

 なぜだろう。

 どうしても気になる。

 まるで――

 誰にも聞いてもらえなかった物語が、その奥に閉じ込められているようだった。

 そして。

 事件を早く終わらせるために。

 誰も、その物語を聞こうとしていない。

 博文はゆっくりと視線を落とした。

 これまで起きたことが、頭の中に次々と浮かんでくる。

 ウォレスの失踪。

 血に染まったベッド。

 志保の転落事故。

 隔離棟。

 青葉湖の汚染。

 大量に死んだ魚。

 黒川の警告。

 そして――

 高橋天祐の死。

 最期に残した言葉。

 赤い扉。

 事件は一つではない。

 それぞれが完全に無関係だとも――

 もう思えなかった。

 博文の中で。

 一つの確信が、ゆっくりと形になり始める。

 問題なのは――

 特定の誰かではない。

 一つの事件でもない。

 本当の問題は。

 ヒポクラテス療養ホームそのものだ。

 博文は顔を上げた。

 見慣れ始めた白い廊下。

 清潔な壁。

 磨き上げられた床。

 穏やかに働く職員たち。

 何も知らずに暮らす入居者たち。

 表面だけを見れば――

 どこにでもある療養施設。

 だが。

 その奥には。

 まだ誰にも見つかっていない何かがある。

 博文には、それが分かった。

 ならば――

 見つけるだけだ。

 どれだけ深く隠されていても。

 どれだけ多くの人間が口を閉ざしていても。

 どんな真実が待っていたとしても。

 佐伯博文は――

 この場所に隠されたすべてを、必ず暴いてみせる。


❖

 施設の封鎖が解除されると。

 博文はすぐに調査を再開した。

 幸運なことに――

 今日も彼の担当は莉奈だった。

 莉奈が休みの日。

 博文は、ほとんど自分から調査をしようとはしない。

 理由は単純だった。

 今の時点でも。

 一連の事件の裏にいる人間が、誰なのか分からないからだ。

 入居者かもしれない。

 医師や看護師かもしれない。

 あるいは――

 施設の本当の経営者たちかもしれない。

 誰であってもおかしくない。

 そして可能性を考えれば考えるほど――

 危険は大きくなっていく。

 莉奈が博文のそばを歩きながら、静かに尋ねた。

「昨日のこと……。」

「まだ怖いですか?」

 博文は首を横に振った。

「怖い、というのは少し違います。」

「だったら?」

「どちらかというと……。」

 少し考える。

「好奇心があります。」

 莉奈は苦笑した。

「殺人事件と『好奇心』って言葉を一緒に使う人、初めて見ました。」

 博文は珍しく、少し恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

「本物の探偵なら、みんなそうですよ。」

「もちろん。」

 一拍置いて。

「俺も。」

「自分まで入れるんですね。」

 莉奈は呆れたように笑った。

「じゃあ、やっぱり思ってるんですか?」

「昨日の事件。」

「見た目ほど単純じゃないって。」

「もちろん。」

 博文は迷わず頷いた。

「いくつか仮説はあります。」

「ただ――」

「まだ証拠が足りない。」

「それで?」

「どこから始めるんです?」

 博文は廊下の先を見つめた。

「すぐ分かります。」

 それだけ言うと、電動車椅子を動かして病室を出ていった。

 莉奈は止めなかった。

 この数日間で。

 彼女も一つのことを学んでいた。

 佐伯博文が一度「何かがおかしい」と確信したら――

 誰にも止められない。

 それに。

 今のヒポクラテス療養ホームには――

 本当に、そういう人間が必要なのかもしれなかった。

❖

 博文が向かったのは、施設の共用ラウンジだった。

 ここは入居者たちが食事をする場所でもあり。

 毎週開かれる読書会の会場でもある。

 これまで何人もの入居者が、博文を読書会へ誘っていた。

 だが――

 彼は一度も興味を示さなかった。

 架空の世界にいる英雄。

 怪物。

 魔法。

 冒険。

 そういったものについて語り合うことに――

 博文はあまり意味を感じていなかった。

 なぜなら。

 彼はすでに、別のクラブへ入っているからだ。

 現実だけを扱うクラブ。

 そこに幻想はない。

 いるのは――

 本当に存在する怪物だけ。

 そして。

 そういう怪物の多くは。

 人間自身の手によって作り出される。

 今。

 博文が知りたいのは――

 自分が、その一人をすでに見つけているのかどうかだった。

 記憶を辿る。

 警察に連行された、あの男。

 彼は時々、一人でラウンジの隅に座っていた。

 誰かへ自分から話しかけることはない。

 親しい友人らしき人物も、ほとんど見たことがなかった。

 ならば――

 まずは彼を知っている人間から話を聞く。

 博文が最初に選んだ相手は。

 **田村泰良(たむら たいら)**という入居者だった。

 莉奈は少し離れた場所に立ち、二人の会話を邪魔しないよう見守っている。

 施設内の噂や出来事について知りたければ。

 泰良ほど適した人間はいない。

 彼は高位脊髄損傷によって、身体のほとんどを自由に動かすことができなかった。

 そのため、一日の大半を自室で過ごしている。

 介護職員に余裕があるときだけ。

 身体に合わせて特別に調整された電動車椅子へ移乗し、共用スペースへ出てくることができる。

 今日は――

 そんな数少ない日の一つだった。

 この機会を、博文が逃すはずがない。

 電動車椅子をゆっくりと進め。

 泰良の前で止まった。

 目の前にいる、自分以上に細身の男を見る。

 その瞬間。

 博文は、二人が以前からよく身長をネタにしていたことを思い出した。

 ほとんど、顔を合わせるたびに行われる恒例行事だ。

「久しぶりだな。」

 泰良が笑う。

「チビ。」

 博文も珍しく応じた。

「お互い様ですよ。」

「もやしさん。」

「ハハハ!」

 泰良は声を上げて笑った。

「しょうがないだろ。」

「俺なんて一年の大半、病室で冬眠してるんだから。」

「今日は久しぶりに巣穴から出してもらえたんだ。」

 だが。

 その笑顔は、すぐに消えた。

 泰良には分かっていた。

 今日の博文は――

 世間話をするために来たわけではない。

 そして博文も。

 結局、頭の中にある疑問を抑えられなかった。

 泰良は、そんな彼の性格にもう慣れている。

 長い付き合いだ。

 博文が会話のできない人間ではないことも知っている。

 ただ――

 彼の頭の中には、いつだって謎がある。

 何か分からないことを見つければ。

 答えが出るまで考え続ける。

 その少し異常なほどの情熱を――

 泰良はむしろ気に入っていた。

 ヒポクラテス療養ホームには。

 何か一つのことに、ここまで真剣になって生きている人間は少ない。

「それで?」

 泰良が笑った。

「今日は昔話をしに来たんじゃないんだろ?」

「何が知りたい?」

 博文は遠回しな言い方をしなかった。

「この前の殺人事件。」

「知ってますよね?」

「ああ。」

 泰良は頷く。

「ここで起きたことなら、大抵は耳に入る。」

 そして博文を見る。

「聞いたぞ。」

「お前、その場にいたんだって?」

 博文は答えなかった。

 ただ、小さく頷く。

 その瞬間。

 あの光景が再び頭の中に浮かんだ。

 老人。

 血。

 床に落ちたナイフ。

 そして――

 最期の言葉。

 赤い扉に近づくな。

 泰良はしばらく黙った。

 やがて。

「……ひでえ話だ。」

 それだけ呟いた。

 博文は続ける。

「警察に連れていかれた人。」

「知ってますか?」

 泰良は少し考えた。

「知り合いってほどじゃない。」

「何度か会ったことがあるくらいだ。」

「前に俺から話しかけたこともある。」

「でも、そのあと分かった。」

「彼は喋れない。」

 博文の表情が変わる。

「喋れない?」

「ああ。」

「声帯に問題があるらしい。」

「だから答えたくても、声じゃ答えられない。」

 博文は眉をひそめた。

 もし会話そのものができないなら。

 本人から情報を得ることは難しい。

 いくつもの手がかりが、そこで途切れてしまう可能性がある。

 だが――

「ただし。」

 泰良が続けた。

「字は書ける。」

 博文が勢いよく顔を上げた。

 目の色が一瞬で変わる。

「何を書いたんです?」

 泰良は記憶を探るように天井を見る。

「最初は自分の名前。」

「リーヴァイ。」

「それから……。」

 少し考え込む。

「何度も同じ言葉を書いてた気がする。」

 博文は黙って続きを待った。

「俺が知ってるのは、その程度だよ。」

「名前はリーヴァイ。」

「それ以外だと……。」

 泰良は少し笑った。

「好きなゲームがあったな。」

「確か――」

「『チャンピオン・クラッシュ』。」

「ほとんど毎日やってた。」

「俺も何回か一緒に遊んだよ。」

「正直。」

「一日中病室にいるなら、時間を潰すには悪くないゲームだ。」

 博文は小さく頷いた。

 そして次の質問へ移る。

「他の入居者に敵意を見せたことは?」

「特に――」

「高橋天祐さんに。」

 泰良は即座に首を横へ振った。

「それは絶対にない。」

「天祐さんは別棟の入居者だ。」

「俺はむしろ――」

「二人がお互いの存在を知ってたかどうかすら怪しいと思ってる。」

「それに。」

 泰良の表情が少し曇る。

「リーヴァイは、ずっと静かなやつだった。」

「誰かと喧嘩してるところなんて見たことない。」

「まさか、あんなことをするとは思わなかったよ。」

 博文は考え込むように頷いた。

「なるほど。」

 しばらく沈黙する。

 そして――

「彼の部屋がどこか知ってますか?」

「知ってる。」

 泰良は廊下の方向を示した。

「二十五号室。」

「ただ、行くなら急いだほうがいい。」

「さっき介護職員が話してるのを聞いた。」

「そろそろ部屋を片づけるらしい。」

 博文の表情が一変した。

「ありがとうございます。」

「どういたしまして。」

 必要な情報を手に入れた瞬間。

 博文は莉奈へ視線を送った。

 行く。

 莉奈にも、それだけで意味は伝わった。

 二人はすぐに共用ラウンジを離れる。

 もし――

 リーヴァイが本当に濡れ衣を着せられているのなら。

 彼の部屋には。

 まだ何かが残っているはずだ。

 そして博文が、何よりも信じているもの。

 それは人の言葉ではない。

 噂でもない。

 印象でもない。

 証拠。

 証拠がリーヴァイの無実を示すなら。

 それを受け入れる。

 逆に。

 彼が本当に高橋天祐を殺したと証明するなら――

 それも受け入れる。

 博文が欲しいのは。

 自分にとって都合のいい答えではない。

 ただ一つ。

 真実だけだった。

❖

 数分後。

 二人は二十五号室の前まで来ていた。

 本来なら、もっと早く着けたはずだった。

 だが途中で何度も足を止め、周囲に誰かいないか確認しなければならなかった。

 現在時刻は午後三時。

 ちょうど看護師たちが午後の薬を配る時間帯だ。

 廊下には職員が頻繁に行き来している。

 二人は機会を待つしかなかった。

 誰かが別の入居者に呼び止められるか。

 急な用事で持ち場を離れるか。

 何でもいい。

 莉奈には、博文以外にも担当している入居者がいる。

 ここで見つかれば、ただでは済まない。

 そしてようやく――

 廊下から人の気配が消えた。

「今です。」

 二人はすぐに扉を開け、二十五号室へ入った。

 中は――

 ほとんど手つかずだった。

 ベッドは整えられていない。

 掛け布団も半分めくれたまま。

 まるで部屋の主が少し外へ出ただけで、すぐに戻ってくるような状態だった。

 壁には、数え切れないほどのゲームポスターが貼られている。

 どれも同じ作品。

 **『チャンピオン・クラッシュ』。**

 テレビの下には、古びたゲーム機が電源につながれたまま置かれていた。

 他のソフトは見当たらない。

 あるのは一つだけ。

 金属製のケースに収められた、ひときわ目立つコレクターズエディション。

 やはり――

 **『チャンピオン・クラッシュ』。**

 部屋中に、リーヴァイという人間の痕跡が残されていた。

 莉奈はぐるりと室内を見回した。

 そして、とうとう我慢できなくなったらしい。

「絶対また『うるさいな』って思われる気がするんですけど。」

 博文が彼女を見る。

「何です?」

「私たち、結局何を探してるんですか?」

 博文は平然と答えた。

「見つけたら教えます。」

 莉奈は額へ手を当てた。

「またそれですか……。」

 以前なら、博文がわざと勿体ぶっているように感じていた。

 だが今では、もう慣れている。

 彼が何かをするときには――

 本人なりの理由が必ずある。

 博文はまずベッドのそばへ向かった。

 シーツ。

 枕。

 床。

 周囲を注意深く確認する。

 それから。

 ゆっくりと壁のポスターへ視線を移した。

 一枚。

 また一枚。

 何も見落とさないよう、じっくりと眺めていく。

 やがて――

 博文が小さく笑った。

「どうして俺がポスターを見てるか、分かります?」

 莉奈は肩をすくめる。

「どうせ今から教えてくれるんでしょう?」

「人間が何を尊敬しているか。」

 博文は言った。

「それを見ると、その人がどんな人間になりたいのか分かることがあります。」

「実在の人物でも。」

「架空のキャラクターでも。」

「同じです。」

 そう言って、一枚のポスターを指す。

「例えば、これ。」

「この人物を見て、どう思います?」

 莉奈は指差されたポスターへ目を向けた。

 描かれているキャラクターの名は――

 **コナー。**

 全身を重厚な未来型アーマーで覆っている。

 ただし頭部だけは無防備だった。

 両腕を大きく広げ。

 背後にいる一家を守るように立っている。

 そのさらに奥では、巨大な爆発が炎を上げていた。

 莉奈はしばらく真剣に考えた。

「えーっと……。」

「ちょっとヒーロー気取り?」

 博文は思わず笑った。

「俺とは少し違う解釈ですね。」

「でも、悪くない。」

 もう一度ポスターを見る。

「英雄的なキャラクターをここまで好む人間が。」

「本当に冷静に、人を殺すでしょうか。」

 莉奈は首を横に振った。

「それだけでは判断できないと思います。」

 博文が彼女を見る。

「普段は普通に見える人でも。」

「ある日突然、精神的に限界を超えることはあります。」

「好きなキャラクターが善人だからって、本人まで善人とは限らないでしょう?」

 博文は一瞬、黙った。

 そして。

「……その通りです。」

 今度は莉奈が目を丸くする。

「え?」

「私、合ってました?」

「もちろん。」

 博文は小さく息を吐いた。

「俺のほうが、結論を急ぎすぎました。」

「まだ証拠が足りない。」

 しばらく沈黙したあと。

「ただ……。」

 博文の表情が曇る。

「どうしても、リーヴァイのあの目が忘れられない。」

「目?」

「最初は。」

 博文はゆっくりと言葉を選んだ。

「殺人犯の目だと思いました。」

「感情がなくて。」

「何も感じていないように見えた。」

「でも――」

 あの瞬間を思い返す。

 警察官に挟まれ。

 無言のまま連れていかれたリーヴァイ。

「違った。」

「冷たいんじゃない。」

「怯えていたんです。」

 莉奈は黙って聞いている。

「リーヴァイは怖がっていた。」

「何を恐れていたのかは、まだ分かりません。」

「でも俺は――」

 博文は静かに言った。

「彼が殺していないと信じています。」

「答えを見つけるまでは。」

「諦めるつもりはありません。」

 莉奈は小さくため息をついた。

「分かってます。」

「佐伯さんが、この事件を気にしてるのは。」

「でも……。」

 少し優しい声になる。

「すべての事件に、隠された真相があるわけじゃありませんよ。」

「時には。」

「見えている通りのことが、そのまま真実ってこともあります。」

 莉奈は博文へ手を差し出した。

「行きましょう。」

「そろそろ戻らないと。」

「勝手に病室へ入ったのがバレたら――」

 苦笑する。

「今度こそ、本当に仕事を失います。」

 博文は視線を落とした。

 そして小さく頷く。

「……そうかもしれません。」

「俺が考えすぎてるだけなのかも。」

 二人が部屋を出ようとした――

 その瞬間だった。

「いや。」

 博文が止まる。

 莉奈が振り返った。

「まだ一つあります。」

「何です?」

「コントローラーを取ってください。」

「コントローラー?」

「お願いします。」

 莉奈は意味が分からないまま、テレビのそばに置かれていたゲームコントローラーを手に取った。

 そして博文の膝の上へ置く。

「どうぞ。」

「ありがとうございます。」

 博文はすぐにゲーム機の電源を入れた。

 画面が点灯する。

 『チャンピオン・クラッシュ』のタイトルロゴ。

 メニュー。

 そして――

 セーブデータ画面。

「……。」

 博文の指が止まった。

 次の瞬間。

 その目が大きく見開かれる。

 **最新セーブ時刻――18時45分。**

「……見つけた。」

 博文が顔を上げた。

 声が興奮でわずかに震えている。

「見つけました!」

「何を?」

「リーヴァイは犯人じゃない!」

 莉奈が画面を見る。

「事件が起きた時間――」

 博文はセーブデータを指した。

「彼はこの部屋でゲームをしていたんです!」

「…………。」

 莉奈は画面を凝視した。

「嘘……。」

 数秒後。

「本当に……。」

「アリバイがある。」

「そうです。」

 博文の顔に一瞬、勝利したような笑みが浮かんだ。

 だが。

 その表情は、すぐに消えた。

 代わりに――

 重い影が落ちる。

 莉奈はすぐに気づいた。

「どうしたんです?」

 博文は画面を見つめたまま、低い声で言った。

「誰かが……。」

「喋ることのできない人間を、わざと犯人に仕立てた。」

 莉奈の表情からも笑みが消える。

「しかも。」

 博文は続けた。

「リーヴァイが自分の言葉で弁解できないことまで利用した。」

「彼の障害そのものを。」

 部屋に静寂が落ちた。

 莉奈はしばらく何も言わなかった。

 やがて。

 博文を励ますように、小さく笑った。

「あと少しでしたね。」

「でも――」

「気づけてよかった。」

 そして二人は部屋を出る。

 莉奈は博文のそばを歩きながら言った。

「実は今日。」

「勤務が終わったあと、私も一つ調べようと思ってるんです。」

 博文が少し驚いたように彼女を見る。

「本当に?」

「何を?」

「ポビドンヨード。」

 莉奈は真剣だった。

「最近の施設内の使用記録を確認してみようと思います。」

「必ず何か見つかるとは限りません。」

「でも――」

「やってみないと分からないでしょう?」

 博文の顔に。

 その日初めて、本当に肩の力が抜けたような笑みが浮かんだ。

「それは助かります。」

「じゃあ、別々に調べましょう。」

「藤原さんはポビドンヨード。」

「俺は――」

 そこで言葉を止めた。

 頭の中に。

 あの老人が最期に残した声がよみがえる。

 逃げろ。

 近づくな。

 そして――

 **赤い扉。**


 博文の目が、再び鋭さを取り戻した。

「――あの。」

 一拍置く。

「謎の赤い扉です。」

 二人が二十五号室を出た、その直後だった。

 まだ次の行動について話す間もない。

 廊下の反対側から、慌ただしい足音が響いてきた。

 数人の看護師が、ほとんど駆け足でこちらへ向かってくる。

 誰もが切迫した表情をしていた。

「ちょっと待って!」

 莉奈はそのうちの一人を呼び止める。

「何かあったんですか?」

 看護師は足を止めなかった。

 走りながら、慌てて振り返る。

 息が上がり、声も途切れ途切れだった。

「読書会……!」

「読書会で、また一人――」

 そして。

「入居者さんがいなくなったんです!」

 そう言い残すと。

 看護師はそのまま廊下の奥へ走り去っていった。

「…………。」

 博文と莉奈は、その場に立ち尽くした。

 ゆっくりと。

 互いの顔を見る。

 言葉はいらなかった。

 二人とも――

 同じことを考えていた。

 また一つ。

 新しい事件が始まった。

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