第5章 錆色の湖(後編)
目の前に広がっていたのは――
無数の魚の死骸が浮かぶ湖だった。
博文と莉奈は、もう少し詳しく確認するため、ゆっくりと桟橋の端まで進んだ。
莉奈の顔には、露骨な嫌悪感が浮かんでいる。
一方、博文は正反対だった。
新しい謎。
新しい手がかり。
彼にとっての調査は――
ここからが本番だった。
「一匹、取ってもらえますか?」
博文が言った。
莉奈は即座に「やっぱり」とでも言いたげな顔をした。
「……絶対そう言うと思いました。」
嫌そうに湖の縁へしゃがみ込む。
そして手を伸ばした。
だが――
触れない。
死んだ魚まで、あと数センチ。
そこで手が止まってしまう。
湖面へ近づけば近づくほど、腐敗した魚から漂う悪臭は強烈になった。
「うっ……。」
看護師として様々なものを見慣れている莉奈でさえ、この臭いには耐えられない。
「ちょっと……これ、本当に触るんですか……?」
「できれば。」
「できればって……。」
莉奈は二度ほど吐きそうになりながらも、意を決した。
「もうっ!」
死んだ魚を掴む。
そして――
「はいっ!」
ベチャッ!
魚が博文の電動車椅子に取り付けられた小さなテーブルの上へ投げ出された。
湖水が周囲へ飛び散る。
数滴は博文の顔にまでかかった。
だが、彼はまったく気にしなかった。
今の博文の目に映っているのは――
証拠だけだった。
顔についた水滴にも構わず、魚を注意深く観察する。
博文は魚類に詳しいわけではない。
だが、それは調査を諦める理由にはならない。
まず外傷。
目立った傷はない。
裂けた部分もない。
何かに強くぶつかったような痕跡も見当たらない。
外見だけなら――
何の前触れもなく、突然死んだように見える。
だが、博文はそこで終わらなかった。
さらに細かく確認する。
鱗。
鰓。
口。
そして――
「……。」
博文の視線が止まった。
魚の口元。
そこから、何かがゆっくりと流れ出している。
黒い。
粘り気がある。
まるで――
タールのような物質。
博文の目がわずかに輝いた。
――面白い。
そのときだった。
「俺だったら、そいつは食わんね。」
背後から突然、しゃがれた弱々しい声が聞こえた。
「っ!?」
莉奈が飛び上がるように振り返った。
博文もすぐに電動車椅子の向きを変える。
少し離れた場所に、一人の老人が立っていた。
古びた赤いチェック柄のシャツ。
布地には、何の汚れなのか分からない染みがいくつも付いている。
色褪せたデニムのオーバーオールには、何枚もの当て布。
髪は錆びた鉄のような暗い赤色で、そこに大量の白髪が混じっている。
顔には、長年の風雨と日差しによって刻まれた深い皺。
莉奈が真っ先に口を開いた。
「いきなり人の後ろに立ったら、びっくりするじゃないですか!」
老人は髭を撫でながら笑った。
「昔、女房にもよく言われたよ。」
「何度も聞かされて、そのうち聞き飽きた。」
老人は周囲を見回す。
「まあ今じゃ、驚かせるほど客も来ないがな。」
そして手を差し出した。
「黒川健三だ。」
「ここの持ち主だよ。」
「そっちは?」
「佐伯博文です。」
博文は答えた。
「こちらは今日、俺の介助を担当している看護師の藤原莉奈さん。」
「ヒポクラテス療養ホームから来ました。」
「今日は施設の外出行事で。」
黒川の眉が寄る。
「だったら、なんで他の連中と一緒にいない?」
「わざわざこんなところまで来て、何してる?」
「たまたま小屋を見つけまして。」
博文は湖へ目を向ける。
「それと、この湖も。」
水面に浮かぶ無数の死骸。
「この状態……放っておけば、公衆衛生上の問題になるかもしれません。」
黒川は長いため息を吐いた。
「……やっぱりな。」
「いつか誰かに言われると思ってたよ。」
「通報したけりゃ、好きにしてくれ。」
「どうせ……。」
湖を見つめる。
「もう手遅れだ。」
莉奈が眉をひそめた。
「ということは……。」
疑うような目を黒川へ向ける。
「この魚、黒川さんが死なせたんですか?」
「はぁ!?」
黒川の目が大きく見開かれた。
「冗談じゃない!」
声を荒らげる。
「ここは先祖代々守ってきた土地だぞ!」
「俺が自分で壊すわけないだろう!」
博文はすぐに反応した。
「つまり――」
「誰かが意図的にやったと思っている?」
黒川は黙った。
数秒間。
湖面を見つめる。
やがて――
ゆっくりと頷いた。
「……たぶんな。」
それだけ言うと、黒川は小屋へ向かって歩き始めた。
「まあ、立ち話もなんだ。」
「コーヒーでも飲んでいけ。」
玄関まで来ると、古い木製のドアを押し開ける。
そして振り返り、二人へ入るよう促した。
博文は電動車椅子のジョイスティックを倒そうとした。
だが――
その手が止まる。
「……。」
小屋の玄関前には、数段の階段があった。
スロープはない。
電動車椅子では入れない。
突然、空気が静かになった。
莉奈は博文を見る。
何を言えばいいのか分からなかった。
黒川も一瞬、きょとんとしていた。
そして――
ようやく気づく。
「あ……。」
自分の小屋。
その入口。
そして博文の電動車椅子。
黒川は階段へ視線を落とした。
説明はしなかった。
言い訳もしない。
ただ博文を見る。
その目に浮かんだのは――
申し訳なさ。
博文は、その目を何度も見てきた。
店の入口で。
古い建物で。
友人の家で。
誰かが初めて段差の存在に気づいた瞬間。
そして決まって浮かべる、あの表情。
見慣れている。
だからといって――
少しも楽になるわけではなかった。
黒川は小さくため息を吐いた。
「……悪かった。」
「コーヒーは俺が持ってくる。」
「外で話そう。」
博文は軽く頷いた。
「ありがとうございます。」
「大丈夫です。」
❖
しばらくして。
三人は桟橋の中央に座っていた。
それぞれの手には、淹れたての熱いコーヒー。
白い湯気がゆっくりと立ち上っている。
その目の前には――
無数の魚の死骸が浮かぶ湖。
博文はすでに、黒川へいくつもの質問を投げかけていた。
だが黒川は、どこか肝心な部分をぼかすような話し方をしていた。
ところが。
話題がヒポクラテス療養ホームへ移った瞬間、その態度がわずかに変わった。
「知ってるか?」
黒川は湖を眺めたまま、ゆっくりと口を開く。
「ヒポクラテス療養ホームが、ここへ建つことになった頃の話だ。」
「親父は、それはもう喜んでた。」
「ようやく、この辺りにも困ってる人たちを助ける場所ができるってな。」
「だから、入居者たちをこの湖へ遊びに来させる話にも、自分から賛成した。」
黒川は懐かしむように目を細めた。
「そういう人だったんだよ。」
「お人好しって言っていいくらいにな。」
「もう三十年近くになる。」
「でも俺は今でも分からない。」
コーヒーカップを見つめる。
「親父の選択が、本当に正しかったのかどうか。」
博文はわずかに顔を上げた。
「その言い方だと。」
「今は施設とうまくいっていないみたいですね。」
黒川は鼻で笑った。
「まあな。」
「理由がないわけじゃない。」
そして少し間を置く。
「話は、本田徳明から始まる。」
博文の目がわずかに細くなった。
「ある日、あいつがここへ来た。」
「きっちりスーツを着込んでな。」
「施設を拡張する計画があるから、この土地を買いたいって。」
「それで断った。」
博文が淡々と言う。
黒川は豪快に笑った。
「当たり前だろ。」
「五秒で追い返した。」
「それから言ってやったよ。」
「もう一度来たら、今度はもっと分かりやすい方法で帰ってもらうってな。」
莉奈が眉をひそめる。
「それ、かなり強い言い方だったんじゃ……。」
黒川は肩をすくめた。
「最初はちゃんと断ったさ。」
「でも、あいつが何度言っても諦めなかった。」
「だったら、こっちも言い方を変えるしかない。」
「自分の家を守って何が悪い。」
博文はコーヒーを一口飲んだ。
「それで。」
「施設があなたに報復したと疑っている?」
黒川は迷わず頷いた。
「ああ。」
「この湖は、俺にとって一番大きな収入源なんだ。」
「魚が全部死んじまったら、これから何で食っていけっていうんだ。」
湖面を見つめる目が険しくなる。
「どう考えても、誰かが狙ってやったようにしか見えない。」
「方法について、心当たりは?」
博文が尋ねる。
「さあな。」
「湖に毒でも入れたのか。」
「魚に何か食わせたのか。」
「俺には分からん。」
黒川は深くため息をついた。
「どっちにしろ、水を全部調べて、必要なら浄化して。」
「魚もまた入れ直さなきゃならない。」
「相当な金がかかる。」
莉奈が小さく頷いた。
「それは……かなり大変そうですね。」
「まあな。」
黒川は苦笑する。
「でも仕方ない。」
「この土地は、いつか子供たちに残すつもりなんだ。」
「どれだけ大変でも、守るしかない。」
博文はしばらく黙っていた。
そして――
「少し、この辺りを調べてもいいですか?」
黒川が彼を見る。
「真相までたどり着ける保証はありません。」
「でも、やってみたい。」
「こういうことを調べるのは……。」
博文は少しだけ言葉を選んだ。
「趣味みたいなものなので。」
黒川は面倒そうに手を振った。
「好きにしろ。」
「どうせ、これ以上悪くなりようもない。」
「ありがとうございます。」
博文は莉奈を見る。
「行きましょう。」
「帰る時間まで、あまりありません。」
「調べられるだけ調べます。」
二人はコーヒーを置き、桟橋脇の道から湖岸へ向かった。
電動車椅子が砂利道へ入った瞬間。
カン。
カンッ。
車椅子の底から、小さな金属音が連続して響いた。
跳ね上がった小石が、底面へ次々と当たっている。
莉奈はその音を聞きながら顔をしかめた。
「佐伯さん。」
「この道、やめたほうがいいです。」
「芝生のほうを通りましょう。」
博文は最初、気にせず進もうとした。
だが。
もう一度、底から鋭い音が響く。
カンッ。
「……分かりました。」
諦めたようにジョイスティックを操作し、ゆっくりと芝生のほうへ進路を変える。
その瞬間。
博文は、ふと一つのことに気づいた。
これまでずっと――
自分は莉奈のことを、事件を調べる相棒だと思っていた。
年齢もそれほど離れていない。
一緒に考え。
一緒に推理し。
一緒に手がかりを探してきた。
だから時々、忘れてしまう。
藤原莉奈は――
看護師なのだ。
そして自分は。
彼女が担当している入居者。
調査中の二人は、確かに仲間だった。
だが、それだけではない。
莉奈は博文の人工呼吸器を確認する。
移乗を手伝う。
体調の変化にも気づく。
そして今も、車椅子に余計な負担がかからないよう、先に道の状態を心配している。
博文にとっては当たり前になりすぎていて、意識することすらなくなっていた。
事件を追うとき。
謎を解くとき。
真実を探すとき。
二人の会話はあまりにも自然だった。
まるで最初から、そういう関係だったかのように。
けれど、本当は違う。
莉奈は彼の相棒であると同時に――
彼の日常を支える看護師でもある。
そして博文は、彼女にとってただの「探偵役」ではない。
日々の生活を支えるべき、一人の入居者なのだ。
その二つの関係は、決して矛盾しているわけではない。
むしろ――
いつの間にか、互いに切り離せない。
だからこそ――
こういう瞬間が、博文に残酷な現実を思い出させる。
二人は気が合う。
一緒にいて楽しい。
同じ謎を追い、同じ答えを探している。
けれど。
**友人ではない。**
少なくとも、博文はそう考えていた。
莉奈は看護師として、自分の仕事をしている。
そして自分は――
彼女が担当する入居者。
それだけだ。
❖
二人は青葉湖の西岸へやって来た。
湖面は相変わらず、不自然なほど静かだった。
波紋一つない。
博文は水際をじっと見つめる。
できることなら、もう少し近づいて確認したかった。
だが莉奈は断固として許さなかった。
「ダメです。」
「でも、あと少しだけ。」
「ダメです。」
「車椅子が滑ったら、そのまま湖ですよ。」
「そこまで――」
「行きません。」
「……はい。」
結局、博文が折れた。
少し離れた場所から観察を続ける。
そして、そのときだった。
「……。」
博文の眉がわずかに動く。
水の色。
ただ濁っているだけではない。
湖全体が――
**赤褐色。**
まるで古い銅や錆びた鉄を溶かしたような色をしている。
泥や土だけで、ここまで不自然な色になるだろうか。
博文はさらに目を細めた。
隣にいた莉奈は、その表情を見るなり深いため息を吐いた。
「……出た。」
博文が彼女を見る。
「何がです?」
「その顔です。」
「また何か見つけた顔。」
博文は答えず、湖へ視線を戻した。
その目はまるでレーダーのように、細かな変化を一つずつ拾っていく。
「水のサンプルが欲しい。」
「何か容器ありますか?」
「容器……。」
莉奈は肩に掛けていたバッグを開けた。
中をしばらく探る。
「ええっと……。」
ガーゼ。
薬。
アルコール綿。
小さな医療用品。
そしてようやく――
「あ。」
未開封の三十五ミリリットル用シリンジを取り出した。
莉奈は苦笑する。
「午後のお薬を一緒に持ってきてて助かりました。」
包装を開ける。
シリンジを準備し、湖の縁まで慎重に近づいた。
そして水中へ先端を入れる。
ゆっくりとプランジャーを引く。
赤褐色の水が、シリンジの中へ吸い込まれていった。
「これくらいでいいですか?」
「十分です。」
莉奈は水際から戻り、博文の横へ立った。
「はい。」
博文は小さく頷く。
「持ち上げて。」
「こう?」
莉奈がシリンジを目の高さまで上げる。
「少し動かしてください。」
言われた通り、左右へゆっくり傾ける。
内部の赤褐色の水が、細い筒の中を行ったり来たりする。
博文は何も言わない。
ただ目を細め、液体の動きをじっと追っていた。
数十秒ほど経った頃。
「……面白い。」
小さく呟く。
莉奈がすぐ食いついた。
「何がです?」
博文は答えない。
「今度は匂いを確認したい。」
莉奈は呆れたように目を回した。
「今日は本当に説明してくれませんね。」
プランジャーを外す。
シリンジ本体を小さな容器のようにして、博文の鼻元へ近づけた。
「飲まないでくださいよ。」
「飲みません。」
博文は浅く息を吸った。
数秒間止まる。
もう一度。
今度は少しだけ深く。
「……。」
そして、ゆっくり目を閉じた。
その臭いが――
ずっと昔の記憶を引きずり出していく。
多くの人間は、映像で過去を思い出す。
顔。
場所。
景色。
博文の場合は違った。
彼の記憶はしばしば、**匂い**と結びついている。
雨の後の道路。
病院の消毒液。
古い本。
金属。
薬品。
ある匂いを嗅いだだけで、何年も前の記憶が突然鮮明によみがえることがある。
そして今回も――
そうだった。
数秒後。
博文の口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「……なるほど。」
莉奈の表情が一気に警戒へ変わる。
「先に言っておきますけど。」
「絶対に飲まないでくださいね。」
博文は首を横へ振った。
「必要ありません。」
「もう分かりました。」
「何が?」
博文は赤褐色の水が入ったシリンジを見つめた。
「黒川さんの言っていたことは、たぶん正しい。」
そして静かに続ける。
「この湖の水には――」
「人為的に何かが加えられています。」
莉奈は反射的に叫んだ。
「やった――!」
そこで言葉が止まる。
湖一面に浮かぶ死魚を見た。
「……いや。」
「全然よくないですね。」
言葉が口から出た瞬間。
莉奈は、しまったという顔をした。
「……じゃなくて。」
慌てて言い直す。
「最悪ですね。」
「でも、どうやってこんなことを?」
博文はシリンジの中の液体を見つめた。
「さっき中身を動かしてもらったとき。」
「細かい粒子みたいなものが、少しずつ溶けているのが見えました。」
「色は茶色っぽかった。」
莉奈もシリンジを覗き込む。
「最初は、ただの推測でした。」
「でも匂いを嗅いで――」
「確信しました。」
「何の匂いです?」
莉奈がすぐに尋ねる。
博文は少し黙った。
その匂いと一緒に、昔の記憶が鮮明によみがえっていた。
「子供の頃。」
「長い間、中心静脈カテーテルを入れていた時期があったんです。」
「週に一度くらい、固定しているドレッシングを交換していました。」
わずかに顔をしかめる。
「テープを剥がされるのが、とにかく痛くて。」
「でも、その処置の中で今でも覚えているものがあります。」
「交換するとき、最初に皮膚を消毒する。」
「そのとき使っていた薬剤です。」
莉奈の表情が変わる。
「……ポビドンヨード?」
博文は頷いた。
「この水から、それに似た匂いがします。」
「ちょっと待ってください。」
莉奈は湖を見渡した。
「つまり……誰かがこの湖に大量のポビドンヨードを入れたってことですか?」
「そんなの、さすがに無茶じゃないですか?」
「この湖全部を汚染するほどの量ですよ?」
「どこからそんな大量の消毒薬を手に入れるんです?」
さらに眉をひそめる。
「それに――」
「何のために?」
博文はすぐには答えなかった。
そこまでは、まだ完全に組み立てられていない。
だが、一つの可能性は浮かんでいた。
しばらくして、ゆっくりと尋ねる。
「施設の医療物資は、どこに保管されています?」
「医薬品や消耗品なら、中央の物品倉庫です。」
莉奈は答える。
「でも、入居者は入れません。」
「職員でも管理されてますし。」
「それに――」
もう一度湖を見る。
「これだけの量を使うなら、かなりの在庫がなくなるはずです。」
「誰にも気づかれないなんて、あり得ません。」
「そうですね。」
博文は平静に言った。
「普通なら。」
莉奈が彼を見る。
「……普通なら?」
「誰かが気づいていても――」
博文の声が少し低くなる。
「黙っている理由があるなら、話は別です。」
「…………。」
莉奈は言葉を失った。
博文は続ける。
「本田先生は言っていました。」
「施設を拡張したい、と。」
黒川の話。
本田の土地購入の申し出。
湖の汚染。
魚の大量死。
それらを一つずつ頭の中で並べる。
「もし青葉湖が汚染されて、この土地の価値が大きく下がったら?」
莉奈の表情が強張った。
「黒川さんが維持できなくなって、土地を手放さざるを得なくなれば?」
「施設側は、以前よりずっと安い値段で買えるかもしれない。」
博文は湖面へ目を向けた。
「誰かが意図的に青葉湖を破壊して。」
「土地の価値を落とす。」
「その後で、安く買い取る。」
「今のところ、それが一番筋の通る説明です。」
莉奈はゆっくりと首を横に振った。
「でも……。」
「私、本田先生とは長い付き合いです。」
「そんなことをする人だとは思えません。」
少し考えてから、小さく付け加える。
「まあ……。」
「たまに、ものすごく感じ悪いですけど。」
博文は反論しなかった。
ただ、空を見上げる。
青かった空は、いつの間にか淡い桃色と橙色に染まり始めていた。
太陽はすでに山の向こうへ沈みかけている。
「まずは。」
博文が言った。
「分かったことを黒川さんに伝えましょう。」
「それから――」
遠くに停まっている送迎バスの方向を見る。
「そろそろ戻らないと。」
莉奈は頷いた。
「ですね。」
二人は新しく見つけた証拠と――
それ以上に増えてしまった疑問を抱えたまま。
背の高い草をかき分けるように進み、湖畔の小屋へ戻っていった。
❖
一日がかりの調査を終え――
博文と莉奈は、帰りの送迎バスへ乗り込んだ。
他の入居者たちは誰一人として、二人が途中で集団を離れていたことに気づいていなかった。
帰り道。
二人はほとんど言葉を交わさなかった。
黒川が別れ際に残した言葉が、ずっと頭から離れなかったからだ。
「これからは気をつけろ。」
「あそこは……いい場所じゃない。」
「実を言うとな。」
「俺は昔から、ヒポクラテス療養ホームが好きじゃなかった。」
「親父はいつも言ってたよ。」
「あそこは、この世の楽園みたいな場所だって。」
「でも俺は信じてない。」
「長い間ここに住んでると、施設の人間とも知り合う。」
「俺もこれまで、あそこで暮らしてる連中を何人も知ってきた。」
「でもな……。」
「一人。」
「また一人。」
「消えていった。」
「どこへ行ったのか、誰も知らない。」
「そして――」
「誰も、その話をしようとしない。」
「だから、俺の代わりにあそこを見張っててくれ。」
「俺はもう、とっくに調べるのを諦めた。」
「一人じゃ、この謎は解けなかった。」
「でも……。」
「お前たちなら。」
「もしかしたら、できるかもしれない。」
その言葉が――
壊れたラジオのように。
何度も。
何度も。
博文と莉奈の頭の中で繰り返されていた。
それ以外の音は、すべて遠くなっていく。
エンジン音。
タイヤが道路を走る音。
他の入居者たちの話し声。
すべてが、ぼやけて聞こえた。
博文は窓の外を眺めていた。
次々と後方へ流れていく木々。
その景色を見つめながら――
生まれて初めてと言っていいほどの、奇妙な空虚さを感じていた。
胸の中にある何かが。
少しずつ。
少しずつ。
くり抜かれていくような感覚。
あとに残るのは――
消えることのない不安だけ。
博文はゆっくりと視線を落とした。
そして心の中に、一つの疑問が浮かぶ。
自分自身でさえ、答えを知りたくないと思ってしまうほどの疑問。
**俺は……。**
**いったい何に巻き込まれたんだ?**
❖
ヒポクラテス療養ホームへ戻ると。
博文も莉奈も、思わず安堵の息を吐いた。
長い一日が――
ようやく終わった。
もしかしたら。
これで、すべてが元の平穏な日常へ戻るのかもしれない。
職員たちは入居者を一人ずつ、それぞれの部屋へ送り届けていった。
やがて夜が訪れる。
空には無数の星。
施設では、ちょうど夕食の時間が始まろうとしていた。
「ん~~っ!」
莉奈は大きく背伸びをした。
疲労の色を浮かべながらも、その顔にはようやく解放されるという安堵の笑みがある。
「本当に……。」
「今日ほど仕事が終わるのを楽しみにした日はないかもしれません。」
博文から返事はなかった。
「……佐伯さん?」
莉奈が振り返る。
博文の電動車椅子が――
廊下の真ん中で止まっていた。
動かない。
博文自身も、完全に固まっている。
「……?」
莉奈の笑顔が消えた。
博文の顔から血の気が引いていた。
さっきまでとは、明らかに違う。
「どうしたんですか?」
返事はない。
博文はただ――
ゆっくりと視線を下へ向けた。
床を見ている。
「何が……。」
莉奈も、その視線を追った。
そして。
次の瞬間――
息が止まった。
「…………。」
真っ白なタイル張りの床。
そこに――
**一本の細長い血痕があった。**
いつからそこにあったのか分からない。
鮮やかな赤色の跡が、廊下の奥へ向かって長く伸びている。
まるで――
雪のように白い床へ、真っ赤なジャムをスプーンで薄く塗りつけたかのようだった。
白。
赤。
あまりにも鮮明な対比。
天井の照明を反射したその血痕は、不気味なほど鮮やかに輝いていた。
博文はゆっくりと息を吸った。
そして、ほとんど聞こえないほど低い声で言った。
「あなたの勤務は……。」
莉奈が博文を見る。
「たぶん、もう終わりです。」
「……え?」
博文は血痕から目を離さなかった。
その赤い線は――
まるで二人を誘うように。
暗い廊下の奥へ。
奥へ。
どこまでも続いている。
博文の目から、それまでの疲労が消えた。
代わりに現れたのは――
これまでにないほど鋭く、険しい眼差し。
「でも――」
電動車椅子のジョイスティックへ手を置く。
「俺の調査は。」
一瞬の沈黙。
「**どうやら、まだ始まったばかりみたいです。**」




