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第4章 錆色の湖(前編)

この一週間、ヒポクラテス療養ホームは驚くほど平穏だった。

 平穏すぎるほどに。

 その静けさは、この施設で暮らす誰にとっても奇妙なものだった。

 安心をもたらすどころか――

 嵐の前に訪れる、不気味な静寂のようだった。

 志保の転落事故以来、ホーム全体が言葉では説明しづらい重苦しさに包まれている。

 職員はいつも通り働いている。

 入居者もいつも通り生活している。

 看護師はいつも通り巡回し。

 医師はいつも通り診察する。

 表面上は、何も変わっていない。

 それでも誰もが感じていた。

 ――何かが変わった。

 目に見えない濃霧が、施設全体を覆っているようだった。

 それが何なのか、誰にも説明できない。

 だが、存在しないふりをすることもできなかった。

 疑念。

 恐怖。

 不安。

 それらすべてが混ざり合った、息苦しい空気。

 ヒポクラテス療養ホームの開設以来、これほど深刻な事件が起きたことはなかった。

 これまで、この施設は県内でも高い評価を受ける長期療養施設の一つとして知られてきた。

 公表されている統計によれば、利用者満足度は七十パーセントに達している。

 そして評判が広がるにつれ、入居の門は少しずつ狭くなっていった。

 毎月、数千件もの入居希望が届く。

 だが、実際に受け入れられるのは――

 わずか三人。

 では、何を基準にその三人が選ばれているのか。

 誰も知らなかった。

 一般の医師や看護師でさえ、詳しい選考方法を聞かされたことがない。

 すべてを把握しているのは、施設の最上層部だけ。

 ほとんど人前に姿を現さない経営陣。

 彼らは、まるで幽霊のように舞台裏に存在していた。

 名前も知られていない。

 顔を見ることもない。

 本当にそんな人間たちが存在するのかと、疑いたくなるほどだった。

 だが、ヒポクラテス療養ホームで本当の力を持つのは、必ずしも影に隠れている者たちではない。

 皆の前に立ち、日々の生活に直接影響を与える権限を持つ者。

 その代表が――

 本田徳明だった。

 本田は、ずっと信じていた。

 人間が生きていくためには、他人から尊敬される存在でなければならない、と。

 なぜなら幼い頃の彼には、それがなかったからだ。

 子供の頃の本田徳明は、今とはまるで別人だった。

 当時の彼は、都会の片隅にいる目立たない少年にすぎなかった。

 長い間気づかれなかった読み書きの困難を抱えていたこともあり、学校の成績は散々だった。

 家族は彼を怠け者だと思った。

 将来性がないと言った。

 教師は努力が足りないと決めつけた。

 そして同級生たちは――

 彼が周囲と違うことを、いじめる理由にした。

 殴られること。

 罵られること。

 笑われること。

 それが、彼の子供時代のほとんどを占めていた。

 やがて本田は、一つのことを理解するようになった。

 どんな時代にも。

 どんな集団にも。

 必ず「異端者」が必要なのだ。

 仲間外れにされる誰か。

 笑いものにされる誰か。

 そういう人間が一人いることで、残りの者たちは自分が「普通」であることを確認できる。

 だから本田は決めた。

 別の人間になろう、と。

 秩序を守る側の人間。

 誰からも必要とされる人間。

 誰もが頼ることのできる人間。

 少なくとも――

 彼はずっと、自分自身にそう言い聞かせてきた。

 そして長い間、それはうまくいっていた。

 佐伯博文が、この施設へやって来るまでは。

 博文が入居してから立て続けに起きた出来事によって、施設を支えていた秩序には少しずつ亀裂が入り始めていた。

 同時に、本田が心の奥深くへ押し込めていた過去も、再び動き始める。

 かつて皆から異端者として扱われた、あの少年。

 忘れたはずの少年が――

 記憶の底から、ゆっくりと這い上がってくる。

 本田は、それを許すつもりはなかった。

 だからこそ、問題の原因を突き止めなければならない。

 そして彼の目には――

 すべての混乱が、佐伯博文がこの施設へ足を踏み入れた日から始まったように見えていた。

 あの男は……。

 いったい何者なのか。

 なぜ、彼の周りでは次々と問題が起きる?

 博文が問題を見つけているのか。

 それとも――

 問題のほうが、博文を見つけているのか。

 本田は、自分自身で答えを確かめることにした。

❖

 よく晴れた午前。

 本田は博文を、再び自分の執務室へ呼び出した。

 理由は告げなかった。

 事前の説明もない。

 博文も、ただの世間話ではないことくらい察していた。

 それでも指定された時間ぴったりに執務室を訪れた。

 電動車椅子のモーター音とともに室内へ入り、見覚えのある机の前で停止する。

 本田は机の向こう側に座っていた。

 博文も何も言わない。

 本田も口を開かない。

 時計の針の音さえ聞こえそうなほど、部屋は静まり返っていた。

 本田は沈黙が嫌いではなかった。

 むしろ――

 会話というものを、彼はいつもチェスの一局のように考えている。

 通常なら、相手が最初の駒を動かすまで待つ。

 何を言うのか。

 どこを攻めるのか。

 何を守ろうとするのか。

 それを見てから、自分の手を決める。

 だが今日は違った。

 本田は、自分から最初の駒を動かすことにした。

「聞きましたよ。」

 彼が沈黙を破る。

「最近、ずいぶん充実した毎日を送っているそうですね。」

「いくつかの騒ぎを解決して。」

「入居者たちの生活まで少し良くしてくれたとか。」

 博文の表情は変わらない。

「そう言えなくもありません。」

「ただ、別に喜ばしいことだとは思っていません。」

 本田の眉がわずかに上がる。

「なぜです?」

「問題を起こした人間は見つかった。」

「他の入居者も、その結果として助かった。」

「いいことではありませんか?」

 博文は静かに首を横へ振った。

「人が怪我をしています。」

「それに――」

「一人、いなくなったままです。」

 本田の表情から笑みが消える。

「それは、この施設のどこかに問題があるということです。」

 本田は答えなかった。

 博文は続ける。

「ここには医師も看護師も介護職員も大勢いる。」

「それなのに、入居者が理由も分からないまま姿を消す。」

「普通なら、起きないことですよね?」

 本田は小さく息を吐いた。

「その点については、私も残念に思っています。」

 椅子の背もたれへ身体を預ける。

「ヒポクラテス療養ホームは、ここ数年で急速に知名度が上がりました。」

「入居を希望する方も増え続けています。」

「ですが、現実には――」

 机の上で指を組む。

「人手が、まったく足りていない。」

「介護業界では、慢性的な人材不足が続いています。」

 博文はすぐに尋ねた。

「だったら、もっと雇えばいいんじゃないですか?」

 本田は苦笑した。

「予算ですよ。」

 本田は苦笑したまま答えた。

「この施設には、これ以上人員を増やすだけの余裕がありません。」

「今いる職員で、できる限りのことをするしかない。」

「そして、それでも手が回らない部分については……。」

 ほんの一瞬、間を置く。

「運に任せるしかありません。」

 その答えに――

 博文は納得できなかった。

 むしろ、警戒心はさらに強くなった。

 今日、この男から本当に価値のある情報を聞き出すことはできない。

 博文には、それが分かった。

 本田にもまた、自分を守るための壁がある。

 博文が心の周囲に築いた壁は、自分の感情を守るためのものだった。

 他人に踏み込まれないため。

 傷つけられないため。

 自分という人間を、必要以上に知られないため。

 だが――

 本田徳明が築いている壁は違う。

 **真実を隠すための壁だ。**

 そして本田のほうも、理解していた。

 佐伯博文という男は、一度疑問を抱いたら簡単には諦めない。

 ウォレスの失踪。

 血痕。

 隔離棟。

 すべてに納得できる答えが出るまで、調べ続けるだろう。

 ならば、これ以上議論しても意味はない。

 本田は戦い方を変えることにした。

「佐伯さん。」

 先ほどまでとは少し違う、穏やかな口調だった。

「何でも自分一人で背負い込む必要はありません。」

「施設内で起きる問題は、我々が対処します。」

「あなたが今、一番大切にすべきなのは――」

 本田は博文をまっすぐ見つめる。

「ご自分の身体です。」

「それから……。」

 口元に、意味ありげな笑みが浮かんだ。

「今日の外出を楽しんでください。」

 博文がわずかに眉を上げる。

「外出?」

「聞いていませんか?」

「いいえ。」

 本田は少し意外そうな顔をしたあと、説明を始めた。

「月に一度、希望する入居者を連れて**青葉湖**へ出かけているんです。」

「湖では釣りをしたり、遊歩道を散歩したり。」

「湖畔には休憩用の小さなロッジもあります。」

「そこでのんびり過ごす方もいますよ。」

 博文は黙って聞いていた。

「たまには、この施設を離れることも大切です。」

「身体だけでなく、気分転換にもなりますから。」

「ずっと同じ建物の中にいると、人間は思っている以上に疲れるものです。」

 そこまで話したところで――

 本田の声が、わずかに低くなった。

「何しろ……。」

 博文を見る。

「大切なものというのは。」

 一拍。

「失って初めて、その価値に気づくことも多いですからね。」

「…………。」

 博文は何も言わなかった。

 ただ静かに、本田の顔を見つめる。

 今の言葉。

 ただの人生訓にも聞こえる。

 忠告にも聞こえる。

 だが――

 警告にも聞こえた。

 どれなのかは、まだ分からない。

 そして残念ながら。

 今の博文には、それを証明するものが何一つなかった。

 だから追及しない。

 その代わり――

 本田の言葉を、一字一句、記憶の中へ刻み込んだ。

 今は、それでいい。

 焦る必要はない。

 真実というものは、どれだけ深く隠しても、必ずどこかに痕跡を残す。

 博文に必要なのは――

 その痕跡が姿を現す瞬間を待つことだけだった。

 **次の手がかりが現れる、その時まで。**

「案内してください。」

 博文は短く言った。

 その頃、ほとんどの入居者たちは職員に付き添われ、反対側にある湖畔のレクリエーションエリアへ向かっていた。

 誰も異変には気づいていない。

 博文と莉奈だけが――

 彼らとは反対の方向へ進んでいた。

 曲がりくねった細い道を辿りながら、一歩ずつ森の奥へ入っていく。

❖

 道中、何も起こらなかった。

 森は古く、静かだった。

 巨大な木々が互いに枝を伸ばし、その葉と枝が空を覆い隠している。

 遠くから見れば、細い道そのものが自然に作られたトンネルのようだった。

 ただ――

 博文は一つの違和感に気づいた。

 枝についている葉。

 **異様に少ない。**

 まだ春だというのに。

 枝先には、まばらに葉が残っているだけだった。

 まるで森全体から、生命力が少しずつ抜け落ちているかのように。

 博文は何も言わなかった。

 調査中は、いつもそうだった。

 世間話はしない。

 冗談も言わない。

 彼の意識は、すべて手がかりへ向けられている。

 そもそも博文は、意味のない雑談というものがあまり好きではなかった。

 天気。

 流行。

 どうでもいい噂話。

 そういうものより、もっと別の会話を好む。

 **本音。**

 **告白。**

 **秘密。**

 **過去。**

 **夢。**

 その人間が本当は何者なのか。

 それを知ることのできる話。

 だからこそ――

 博文は昔から、友人を作るのが得意ではなかった。

 彼の目には、多くの人間が本当の自分と向き合うよりも、自分で作り上げた幻想の中で生きることを好んでいるように見えた。

 しばらく進んだ頃。

 森の中にようやく、人が暮らしている痕跡が現れた。

 一軒の小さな木造小屋。

 湖のすぐそばに、ひっそりと建っている。

 その隣には小さな桟橋があり、湖へ向かって長く伸びていた。

 普段なら、あそこで釣りをするのだろう。

 夏の夜には、湖へ飛び込んで泳ぐこともあるのかもしれない。

 博文は小屋全体へ素早く視線を走らせた。

 古い。

 外壁の木材はかなり傷んでいる。

 床板にも、明らかに交換が必要な箇所がいくつかあった。

 窓ガラスも一枚割れている。

 残ったガラスの縁は、不規則に欠けていた。

 ただ――

 人為的に壊されたようには見えない。

 長年、雨や風に晒され続けた結果だろう。

 二人は玄関の前まで来た。

 博文が莉奈へ目を向ける。

 そして軽く頷いた。

「……私がノックするんですね。」

 莉奈は諦めたようにため息をついた。

 そして心の中で、同じ言葉を何度も繰り返す。

 ――お願いだから、また事件とかやめて。

 ――お願いだから、また事件とかやめて。

 ――お願いだから、また事件とかやめて。

 コン、コン、コン。

 ノックの音が、静まり返った森に響いた。

 二人は待った。

 一分。

 返事はない。

 二分。

 それでも、誰も出てこない。

 博文の顔に、少しずつ失望の色が浮かび始めた。

 そのときだった。

 **ボチャン!**

 突然、湖のほうから鈍い音が聞こえた。

 二人は同時に振り返る。

 鏡のように静かだった湖面。

 その一部が、何かによって破られていた。

「……何?」

 莉奈が目を細める。

 黒っぽい何かが、水面へゆっくりと浮かび上がってくる。

 だが距離がある。

 何なのかまでは見えない。

 次の瞬間。

 **ボチャン。**

 また一つ。

 数メートル離れた場所で。

 さらに――

 もう一つ。

 そして、もう一つ。

「ちょっと……。」

 莉奈の声から余裕が消えた。

 湖のあちこちで、次々と何かが浮かび上がってくる。

 一つ。

 二つ。

 五つ。

 十。

 数える意味すらなくなっていく。

 莉奈はその場で完全に固まった。

 顔から血の気が引いている。

 喉が強張り、なかなか言葉が出てこない。

 ようやく――

 震える声を絞り出した。

「……あれって。」

 博文は湖を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。

 そして口元に――

 わずかな笑みが浮かぶ。

 普通の人間が見れば、不謹慎だと思うかもしれない。

 だが莉奈にはもう分かっていた。

 これは喜びではない。

 **謎を見つけたときの顔だ。**

「たぶん……。」

 博文の目が鋭くなる。

「俺たちが思っているものです。」

 二人の前に広がる青葉湖。

 その水面には――

 数十匹もの魚の死骸が浮かんでいた。

 腹を上に向け。

 動くこともなく。

 死んだように静まり返った湖面を、ゆっくりと漂っている。

 生き物の気配が消えた森。

 鼻を突く酸っぱい臭い。

 葉を失いつつある木々。

 そして――

 大量の魚の死骸。

 莉奈は力なく肩を落とした。

 顔には、もはや恐怖よりも諦めが浮かんでいる。

「……また事件なんですね。」

 深いため息。

「なんででしょう。」

 湖いっぱいに浮かぶ死骸を見つめる。

「もう全然、驚かなくなってきました。」

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