第3章 死の階段
ヒポクラテス療養ホームには、ほとんど誰も近づかない場所があった。
螺旋階段。
このホームで暮らす入居者の多くは、移動に車椅子を必要としている。
そのため、長い階段を上り下りする者などほとんどおらず、普段は不気味なほど静まり返っていた。
ただ一人を除いて。
小川志保。
彼女は毎朝、決まった時間にこの階段を訪れていた。
他の入居者と比べれば身体機能が比較的保たれていることから、施設長の本田徳明に、毎日の運動として階段を上り下りするよう勧められていたのだ。
それ以来、六年間。
志保は一日も欠かさず、この習慣を続けてきた。
毎回、最後には息を切らしてしまう。
脚も重くなる。
それでも彼女は、この時間が好きだった。
居室から聞こえてくる話し声もない。
ナースコールの音もない。
職員たちが慌ただしく行き交う足音もない。
あるのは――
自分だけの静かな時間。
しかし。
今日だけは、何かが違った。
螺旋階段でもっとも危険なのは、最上階へ続く最後の一段だった。
その辺りは特に老朽化が進んでおり、木製の踏み板は長年の湿気によって傷んでいる。
少し強く踏み込むだけでも、
ギシッ。
ギシッ。
と、不安を煽るような音を立てた。
だが今日は、その音がいつもより多い。
ギシ……。
ギシッ。
志保は足を止めた。
「……?」
ゆっくりと足元を見る。
特に変わったところはない。
気のせいだろうか。
そう思いながら、彼女は再び一歩を踏み出した。
念のため、隣の手すりへ手を伸ばす。
そして――
手のひらが手すりを握った、その瞬間。
バキッ。
「え――?」
手すりが折れた。
志保の顔から血の気が引く。
身体が大きく傾いた。
反射的に何かを掴もうとする。
だが、そこにはもう何もない。
「きゃっ――!」
足が滑った。
身体が宙へ投げ出される。
最初に腕が木製の階段へ叩きつけられた。
「っ……!」
続いて背中。
肩。
腰。
何度も。
何度も。
身体が階段へ激しく打ちつけられる。
激痛が全身を駆け抜けた。
どこか遠くで、自分の叫び声が聞こえたような気がした。
そして――
視界が急速に暗くなっていく。
最後に聞こえたのは、折れた手すりが階段を転がり落ちる乾いた音だった。
志保の意識は、完全な闇へと沈んだ。
❖
一日がかりの騒動を終え、博文はようやく自分の部屋へ戻っていた。
施設が用意したエアマットレス付きの介護ベッドに横になり、ぼんやりと天井を見つめている。
こうしたベッドで眠るのは初めてだった。
マットレスの内部には無数のエアセルが並び、それぞれが一定の周期で膨らんだり縮んだりすることで身体にかかる圧力を分散し、長時間同じ姿勢でいることによる褥瘡を防ぐ仕組みになっている。
理屈の上では、博文のような人間には最適なベッドのはずだった。
ところが、実際に横になってみると――
どうにも好きになれない。
エアセルが膨らむたびに、背中へいくつもの硬い石を押し当てられているような感覚がある。
むしろ空気の抜けている部分のほうが心地いいくらいだった。
一度、別のマットレスに交換できないか頼んでみた。
しかし、在庫がないという理由で断られてしまった。
莉奈によれば、この手のことは施設ではそれほど珍しくないらしい。
莉奈といえば――
今も部屋の反対側で、博文の荷物を整理してくれていた。
数着しかない服は、北側の小さなクローゼットへきれいに掛けられている。
収納は決して広くない。
シャツとズボンを数着入れれば、それだけでかなり埋まってしまうだろう。
だが、博文には十分だった。
もともと服装にこだわる性格ではない。
それよりも莉奈の興味を引いているのは、別のものだった。
本だ。
積み重ねられた本を一冊ずつ手に取り、莉奈は興味深そうに表紙の題名を読み上げていく。
「『血痕飛散分析入門』……」
次の一冊。
「『犯罪現場捜査の技法』……」
さらにもう一冊。
「『凶悪犯罪ケーススタディ』……」
本を手に取るたび、莉奈の表情が少しずつ複雑になっていく。
最初は看護師らしく平静を装っていた。
しかし、とうとう我慢できなくなったらしい。
「佐伯さんの本棚って……すごく個性的ですね。」
博文が彼女を見る。
「そうですか?」
「だって、普通の人はこんな本ばっかり読みませんよ。」
莉奈は笑いながら尋ねた。
「もしかして、実際に起きた犯罪事件がものすごく好きなんですか?」
博文は隠すことなく頷いた。
「まあ、そうですね。」
「人によっては……執着って呼ぶかもしれません。」
「じゃあ今日、ウォレスさんの車椅子をあんなに一生懸命探したのも?」
「理由の一つではあります。」
博文は淡々と答えた。
「でも今は、それより気になることがあります。」
「何ですか?」
「ウォレスさんが、どこへ行ったのか。」
莉奈の笑顔が消えた。
「ベッドに残っていた血。」
博文は天井を見つめる。
「あれは、いい兆候じゃありません。」
「……そうですね。」
莉奈は小さく頷いた。
しばらく沈黙したあと、彼女は以前から気になっていたらしいことを尋ねた。
「実は、ずっと聞きたかったことがあるんです。」
「今日、廊下であの絵を見ていたとき、高橋さんがウォレスさんのことを聞きに来たじゃないですか。」
「そのとき佐伯さん、ずっと高橋さんの身体の片側を見てましたよね。」
「どうしてですか?」
博文は迷うことなく答えた。
「ずっと脇腹を押さえていたからです。」
「それに、呼吸も普通より浅かった。」
「動きも硬かったです。」
莉奈は真剣な表情で聞いている。
「あの様子なら、痛みが出たのは比較的最近だと思います。」
「昔から抱えている慢性的な痛みとは少し違う。」
「最近……。」
莉奈は考え込むように呟いた。
「ちょっと調べてみます。」
「何か分かるかもしれません。」
そのときだった。
廊下の向こうから突然、騒がしい音が聞こえてきた。
何人もの人間が急いで走っている。
そんな音だった。
博文と莉奈は、ほぼ同時に顔を上げた。
「何……?」
莉奈がドアへ近づき、わずかに開ける。
次の瞬間、その表情が変わった。
廊下は騒然としていた。
医師。
看護師。
介護職員。
何人ものスタッフが、同じ方向へ走っている。
明らかに、ただ事ではない。
莉奈の顔から笑みが完全に消えた。
彼女は振り返り、博文を見る。
「何かあったみたいです。」
「すぐ行かないと。」
「あとでまた来ますから。」
言い終えるより早く、莉奈は部屋を飛び出していった。
足音が遠ざかっていく。
そして――
博文だけが残された。
部屋は再び静寂に包まれる。
エアマットレスが、低い機械音を立てながらゆっくりと膨らんでいく。
博文はベッドに横たわったまま、何をするでもなく天井を見つめた。
今の彼にできることは、それくらいしかない。
こうした静けさには、もう慣れていた。
長い年月の中で、孤独との付き合い方まで覚えてしまった。
静寂は、もはや博文にとって苦痛ではない。
それはいつしか――
生活の一部になっていた。
❖
数時間が過ぎた。
部屋には、相変わらず何の動きもない。
夜はさらに深まっていた。
博文にはすることもなく、ただ少しずつ押し寄せてくる眠気に身を任せるしかなかった。
瞼が重くなる。
意識がゆっくりと遠のいていく。
そして、あと少しで眠りに落ちそうになった――そのとき。
「佐伯さん!」
誰かが肩を軽く揺らした。
博文ははっと目を開ける。
「……どうしました?」
ベッドの横には莉奈が立っていた。
額には細かな汗が浮かんでいる。
「ごめんなさい、起こしちゃって。」
莉奈は息を整えながら言った。
「佐伯さんの力を借りたいんです。」
そう言うと、莉奈は慣れた手つきで博文の人工呼吸器や必要な医療機器を整え、電動車椅子をベッドのすぐ横まで移動させた。
何が起きたのか、博文にはまだ分からない。
それでも莉奈の焦った表情を見る限り、ただ事ではなさそうだった。
必要な介助を受けながら、博文は電動車椅子へ戻った。
二人が向かったのは、重症患者を管理する医療フロアだった。
時刻は午前一時。
深夜勤務の職員は少ない。
このフロアで夜勤に入っている看護師も、今は一人しかいなかった。
莉奈は周囲を確認する。
誰もこちらを見ていない。
「こっちです。」
声を潜め、博文を一室へ案内する。
その部屋だけは、まだ照明がついていた。
ベッドに横たわっていたのは――
**小川志保**だった。
頭部には包帯が巻かれ、背中や肩にも処置を受けた跡がある。
博文は彼女の顔を見た瞬間、目の状態に気づいた。
焦点がわずかに定まっていない。
瞳孔も少し開いているように見える。
頭部を強く打った影響が残っているのだろう。
これでは、深夜になってもまともに眠れないのも無理はない。
今が事情を聞くのに最適な時間ではないことくらい、博文にも分かっていた。
だが――
好奇心を抑えることはできなかった。
電動車椅子をゆっくりとベッドの横へ進める。
「こんばんは。」
志保がゆっくりと目を動かした。
「今日からここで暮らすことになった、佐伯博文です。」
「事故に遭ったばかりなのに申し訳ありません。」
「ただ……今日の転落は、単なる事故ではないかもしれないと聞きました。」
「無理のない範囲で、少し話を聞かせてもらえませんか?」
志保はぼんやりと博文を見つめた。
「……別に、おかしなことなんてありませんよ。」
声は少し不明瞭だった。
「階段が古かった。」
「それで転んだ。」
「ただ、それだけです。」
博文はすぐには反論しなかった。
「普段から、あの階段を使っているんですか?」
「ええ。」
志保は額を軽く押さえた。
「本田先生に、毎日階段を上り下りして運動するよう勧められてるんです。」
「少しでも長く歩ける状態を保つためにって。」
そこで苦笑する。
「脳震盪になるところまでは、先生の運動計画に入ってなかったと思いますけど。」
「以前から、階段が不安定だと感じたことは?」
「たまに軋んだり、少し揺れたりすることはありました。」
「でも、ずっと前からです。」
「今日だけ特別おかしかったとは思いません。」
博文がさらに質問しようとした、そのときだった。
ガチャッ。
病室のドアが勢いよく開いた。
一人の若い女性が、歩行器を使いながら慌ただしく入ってくる。
額には汗が滲み、顔には明らかな焦りが浮かんでいた。
彼女の名は――
**鈴木美咲。**
筋力が徐々に低下する病気を抱えており、普段から歩行器を使って生活している。
そして、志保とはこの施設でもっとも親しい友人だった。
「志保!」
美咲は息を切らしながらベッドへ近づいた。
「ごめん、遅くなって!」
「事故に遭ったって聞いて、すぐ来たんだから!」
安堵したのも束の間、その表情はすぐ怒りへ変わる。
「だから言ったじゃない!」
「あの階段はもう使わないほうがいいって!」
「あんな古い木の階段、いつ壊れたっておかしくないんだから。」
「ほら、結局こんなことになったじゃない!」
そこまで一気に言ってから――
美咲はようやく気づいた。
病室の中に、見覚えのない男がいることに。
彼女の視線が、ゆっくりと博文へ向けられた。
「ちょっと待って……。」
美咲は警戒するように博文を見つめた。
「あなた、誰?」
「佐伯博文です。」
博文は落ち着いた声で答えた。
「今日からここで暮らすことになった新しい入居者です。」
「小川さんの事故が、少し気になっていまして。」
「事故?」
美咲は眉をひそめる。
「どういう意味?」
彼女の警戒心を和らげるため、博文は少し声の調子を柔らかくした。
「ただ、少し妙だと思っただけです。」
「小川さんは毎日、あの階段を使っている。」
「それなのに、今日に限って手すりが壊れた。」
博文は一度言葉を切った。
「しかも――」
「小川さんが手をかけた、まさにその瞬間に。」
美咲の表情が固まった。
数秒の沈黙。
やがて彼女は、信じられないとでも言いたげに乾いた笑いを漏らした。
「待って……。」
「それってつまり――」
声が低くなる。
「誰かがわざとやったって言いたいの?」
「誰かが志保を……殺そうとしたってこと?」
博文はわずかに頷いた。
「まだ、そうと決まったわけではありません。」
「事故だった可能性も十分にあります。」
「でも、もしそうでないのなら――」
美咲の目をまっすぐ見つめる。
「調べれば分かります。」
「少し時間をください。」
美咲は何も答えなかった。
その視線が落ち着きなく動く。
博文から志保へ。
志保から床へ。
そして一瞬だけ、病室の出口へ。
何かを考えている。
あるいは――
何かを思い出している。
博文は、その反応を見逃さなかった。
だが今は追及しない。
それよりも、確かめなければならないことがある。
事故現場。
博文は莉奈へ顔を向けた。
「行きましょう。」
「え?」
「あの階段を見ておきたい。」
莉奈は一瞬戸惑ったものの、すぐに頷いた。
「……分かりました。」
博文は電動車椅子の向きを変える。
「現場を見れば、事故だったのかどうか――」
静かなモーター音とともに、病室の出口へ進む。
「少なくとも、今よりは分かるはずです。」
❖
数分後。
二人は、あの螺旋階段の前にいた。
博文は事故が起きた場所へ全神経を集中させる。
当然ながら、電動車椅子では階段を上ることができない。
そのため博文は階段の下に残り、代わりに莉奈が彼の「目」となって現場を調べることになった。
莉奈は慎重に階段を上り、壊れた手すりのそばでしゃがみ込む。
そこが、志保の転落した場所だった。
「何か変わったところはありますか?」
階下から博文が尋ねる。
莉奈は振り返り、困ったように目を回した。
「そういうこと、看護師に聞きます?」
「専門外なのは分かってます。」
「分かってるなら……。」
莉奈は深く息を吸った。
どうにか気持ちを切り替える。
「分かりました。」
「じゃあ教えてください。」
「私、何を見ればいいんですか?」
博文も分かっていた。
こうした現場観察は莉奈の専門ではない。
彼が普段読んでいる犯罪捜査や法医学の知識をいきなり並べたところで、彼女には外国語を聞かされているのと大して変わらないだろう。
役に立つ情報を得るには、一つずつ指示するしかない。
少々もどかしかったが、博文は辛抱強く説明した。
「簡単なところから始めましょう。」
「まずは手すりです。」
「俺が質問するので、見たまま答えてください。」
「変な質問だと思っても、そのまま答える。」
「一つ一つに意味がありますから。」
「了解です。」
莉奈は頷いた。
「手すりが折れた部分を見てください。」
「断面はきれいですか?」
「それとも、ささくれ立っていますか?」
莉奈は身を屈め、折れた木材をじっと観察した。
よりによって今日は眼鏡を部屋に置いてきてしまったらしい。
目を細め、顔をできるだけ近づける。
さらに指先で断面をなぞってみた。
「うーん……。」
しばらくして答える。
「かなりきれいです。」
「よし。」
博文の表情がわずかに変わった。
「次は階段そのもの。」
「実際に踏んでみてください。」
「感触は?」
莉奈は足元へ視線を落とした。
慎重に何度か踏み込んでみる。
ギシッ。
ギィ……。
傷んだ木材が耳障りな音を立てた。
莉奈は首を傾げる。
そして――
ドン。
今度は少し強く踏んだ。
ドン、ドン。
さらに二度。
「ちょ、ちょっと――!」
博文の顔から血の気が引いた。
心臓が一瞬止まりそうになる。
「何してるんですか!」
「ちゃんと確かめてるんです!」
「飛び跳ねろとは言ってません!」
「大丈夫ですよ!」
莉奈はさらに一度、軽く跳ねてみせる。
博文は思わず止めようとした。
だが次の瞬間――
口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
この看護師……。
思っていたより、ずっと度胸がある。
――どうやら、いい相棒を見つけたらしい。
莉奈は階段を一段下り、ズボンについた埃を軽く払った。
「大丈夫です。」
「確かに少しぐらつきます。」
「それに、ちょっと傾いている感じもしますけど……。」
もう一度足元を踏んで確かめる。
「突然崩れ落ちるほどではないと思います。」
博文は眉間に皺を寄せた。
「おかしい……。」
「何か見落としてる。」
彼は階上の莉奈を見上げた。
「本当に、それ以外は何もありませんか?」
「傷とか、汚れとか。」
「普段の階段と違うものは?」
「うーん……。」
莉奈は辺りを見回す。
「特には――」
そこで言葉が止まった。
「……待って。」
視線が足元へ落ちる。
莉奈の眉がゆっくりと寄っていった。
今まで気づかなかった。
階段の表面で、光の反射が微妙に違っている。
ほとんど光を反射していない踏み板もある。
その一方で、不自然なほど艶を帯びている場所があった。
まるで表面を何か薄い膜で覆われているような――。
莉奈はしゃがみ込んだ。
そして、問題の踏み板へそっと指を滑らせる。
「……何これ。」
指先に、ぬるりとした感触が残った。
透明。
無色。
水のようにさらさらしてはいない。
かといって、固形物でもない。
薄いジェルのようなものが、木の表面に塗り広げられている。
莉奈は親指と人差し指で少量を挟んだ。
滑る。
そして、妙に粘り気がある。
階下の博文は、その反応を見逃さなかった。
「どうしました?」
「何か見つけました?」
莉奈は首を横に振った。
「分かりません。」
「何か付いてます。」
「持ってきてください。」
「え?」
「見せて。」
莉奈は慎重に階段を下り、博文の前まで戻ってきた。
透明なジェル状の物質が付着した指先を差し出す。
博文はじっと見つめた。
だが、見ただけでは何なのか分からない。
「一つお願いがあります。」
「何です?」
「鼻の近くまで持ってきてもらえますか?」
莉奈は怪訝そうな顔をした。
「嗅ぐんですか?」
「少しだけ。」
「変なものだったらどうするんです?」
「だから舐めるとは言ってません。」
「……それならいいですけど。」
莉奈は恐る恐る指先を博文の鼻へ近づけた。
博文が軽く息を吸う。
次の瞬間。
「っ……。」
強烈な化学臭が鼻腔を突き刺した。
鼻をつくアンモニアのような臭い。
そこに、人工的なレモンの香りが混ざっている。
ほとんど嗅いだ瞬間から鼻の奥がむず痒くなり、目にもわずかに涙が滲んだ。
博文は昔から香料に敏感だった。
特に、刺激の強い清掃用品の臭いは苦手だ。
「これは……。」
もう一度、ごく浅く匂いを確認する。
「消毒用の洗浄剤……みたいですね。」
博文は莉奈を見る。
「藤原さんのほうが、この施設のことには詳しい。」
「清掃員は、志保さんが朝の運動をする時間に、この階段を掃除することがありますか?」
「ありません。」
莉奈は即答した。
「清掃は基本的に深夜です。」
「入居者さんたちが寝静まってからやります。」
「それに床を洗浄した直後なら、必ず注意表示を置きます。」
「誰かが滑ったら危ないですから。」
博文はゆっくりと頷いた。
「ということは――」
再び階段へ視線を向ける。
「これは通常の清掃で残ったものじゃない。」
莉奈の表情から、少しずつ血の気が引いていく。
「志保さんが毎朝通る場所に、偶然こんな滑りやすいものが残っていた。」
「それだけなら、まだ偶然で説明できるかもしれない。」
博文は壊れた手すりを見上げた。
「でも、もう一つある。」
「手すりの断面が、きれいすぎる。」
莉奈もゆっくりとそちらを見る。
「古くなった木材が自然に折れたのなら、もっと不規則に裂けたり、ささくれたりしていてもおかしくない。」
「ところが、これは違う。」
博文の目が鋭くなる。
「今のところ、俺が一番疑っているのは――」
一瞬の沈黙。
「誰かが、あらかじめ手すりに切れ目を入れていた可能性です。」
莉奈が目を見開いた。
「それって……。」
「誰かが、わざと事故を起こしたってことですか?」
博文は答えない。
「でも、どうして?」
「誰が志保さんを?」
博文は数秒間、黙り込んだ。
「……疑っている人はいます。」
博文は静かに答えた。
「ただ、今の段階では証拠が足りません。」
彼には、昔から変わらない考えがあった。
**疑いは、証拠ではない。**
どれだけ怪しく見えようと。
どれだけ自分の推理に自信があろうと。
真実が確定するまでは、決して結論を急がない。
「もう一つ確認したいことがあります。」
博文は莉奈の指先へ目を向けた。
「この施設で使っている消毒用の洗浄剤って、普段からこの匂いですか?」
莉奈は自分の指先を鼻へ近づけ、慎重に匂いを確かめた。
そして、すぐに頷く。
「はい。」
「まったく同じです。」
博文は廊下の先へ視線を向けた。
そこには、清掃用品を保管する小さな倉庫がある。
「だったら――」
目を細める。
「あの清掃用品倉庫を見張りましょう。」
「見張る?」
「志保さんが回復したら、また階段の運動を始めるはずです。」
博文の声が低くなる。
「もし犯人が、本当に志保さんを狙っているなら……。」
「一度失敗しただけで諦めるとは限らない。」
莉奈の表情が強張った。
「もう一度、何かするってことですか?」
「その可能性があります。」
博文は倉庫の扉を見つめた。
「そして同じ方法を使うつもりなら――」
「あそこへ来るはずです。」
❖
それから数日。
何も起こらなかった。
博文と莉奈は毎晩、清掃用品倉庫の近くで待ち続けた。
犯人が再び姿を現すことを期待して。
だが――
一日目。
誰も来ない。
二日目。
何も起こらない。
三日目。
聞こえてくるのは、夜勤職員の足音と空調設備の低い音だけ。
「……本当に来るんでしょうね?」
莉奈が小声で尋ねる。
「分かりません。」
「分からないんですか?」
「犯人じゃないので。」
「もう……。」
莉奈は小さくため息をついた。
待っても。
待っても。
得られるのは失望だけだった。
その間にも時間は過ぎていく。
そして、志保の怪我も少しずつ回復していった。
やがて医師から、無理のない範囲で階段を使った運動を再開してもよいという許可が出た。
その話を聞いた瞬間、博文は確信した。
――来るなら、今だ。
もし犯人がまだ目的を果たそうとしているのなら。
残された機会は、ほとんどない。
そして――
その予想は的中した。
早朝。
窓の外がようやく白み始めた頃だった。
清掃用品倉庫の近くで待っていた博文の視界に、人影が入る。
「……来た。」
隣にいた莉奈が息を呑んだ。
人影はゆっくりと廊下を進んでいた。
窓から差し込む弱い朝の光の中を、一歩ずつ。
一歩ずつ。
倉庫へ近づいてくる。
カツ。
……カツ。
歩行器が床に触れる音が響いた。
距離が縮まる。
そして、博文はようやく相手の顔をはっきりと確認した。
歩行器を使う、一人の女性。
**鈴木美咲。**
博文と莉奈は視線を交わした。
言葉はいらなかった。
二人は同時に隠れていた場所から姿を現す。
「鈴木さん。」
美咲の足が止まった。
博文と莉奈が、倉庫へ続く道を塞ぐ。
「こんな朝早くに、どうしたんですか?」
美咲の身体が完全に固まった。
顔から、みるみる血の気が引いていく。
博文はその表情をじっと観察した。
罪悪感ではない。
後悔でもない。
それは――
**見つかった人間の顔だった。**
博文は、こういう人間こそ危険だと考えていた。
自分が間違ったことをしたとは、最初から思っていない人間。
目的さえ正しければ、手段は許される。
そう信じている人間。
だからこそ――
調べる側が、感情に飲み込まれてはいけない。
怒りでも。
同情でも。
恐怖でも。
真実を見失う理由にはならない。
**調査する者にとって、もっとも大切なのは冷静さだ。**
博文の脳裏に、再びあの光景が浮かんだ。
ウォレスのベッドに残されていた、鮮やかな血痕。
あの目に焼きつくような赤。
それが、かつて法医学の本で何度も見た写真と重なっていく。
そして、その瞬間――
博文はようやく、一つの違和感に気づいた。
「……肺の感染症じゃない。」
博文がゆっくりと口を開いた。
莉奈が振り返る。
「え?」
「ウォレスさんのベッドに残っていた血です。」
博文は前を見つめたまま言った。
まるで目の前に、あの血に染まったシーツがもう一度現れているかのように。
「色が鮮やかすぎた。」
莉奈の表情が変わる。
「もし肺の感染症による喀血だったとしても、血の見え方は原因や混ざり方で変わります。」
「だから、色だけで断定はできない。」
博文は一度言葉を切った。
「でも、あの血は気になる。」
「俺が見た限りでは、異様なほど鮮やかな赤だった。」
法医学書で見た写真。
血液の色。
飛び散り方。
シーツに残された跡。
記憶の中の情報が、一つずつ組み合わさっていく。
「……動脈性の出血だった可能性があります。」
莉奈の瞳が大きく見開かれた。
「動脈……?」
「少なくとも、『肺炎が悪化して血を吐いた』という説明だけで納得するには、不自然です。」
「もし俺の記憶が正しければ――」
博文の声が低くなる。
「あの部屋で、別の何かが起きた可能性がある。」
「…………。」
莉奈は何も言えなかった。
看護師である彼女にも、博文の疑問が軽視できるものではないと分かった。
ただ――
考えたくなかった。
莉奈はいつも、まず一番単純な説明を信じようとしてきた。
できることなら、悪意よりも偶然を。
陰謀よりも間違いを。
最悪の結末よりも、希望の残る答えを。
そう信じていたかった。
だが今、その安心できる説明に、博文が初めて亀裂を入れた。
背筋を冷たいものがゆっくりと這い上がる。
――まだ終わっていない。
莉奈はゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、施設の奥へと続く薄暗い廊下が伸びている。
何年も働いてきた場所。
毎日のように歩いてきた廊下。
見慣れているはずの景色。
なのに今は――
まるで知らない場所のように見えた。
静かすぎる。
暗すぎる。
そして、どこか不気味だった。
博文はそれ以上、何も言わなかった。
ただ静かに、廊下の奥を見つめている。
他の者たちにとっては、車椅子の盗難事件も、螺旋階段で起きた事故も、すでに解決した出来事なのかもしれない。
だが、博文にはそう思えなかった。
消えたウォレス。
血に染まったベッド。
誰も詳しく語ろうとしない隔離棟。
そして、そこへ連れていかれた美咲の悲鳴。
それぞれ無関係に見えていた出来事が、少しずつ一本の糸で繋がり始めている。
博文は目を細めた。
**本当の事件は――**
**まだ、始まったばかりだった。**




