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第2章 車椅子泥棒

ヒポクラテス療養ホームの廊下は、一般的な医療施設とそう変わらなかった。

 真っ白な壁には汚れひとつない。白いタイル張りの床は鏡のように磨き上げられ、空気には消毒液の匂いがほのかに漂っている

 ただ一つ、この無機質な空間に似つかわしくないものがあるとすれば、壁に点々と飾られた奇妙な絵画だった。

 どれも一目見ただけでは何を描いているのか分からない

 殺風景な施設に、少しでも彩りを加えるために飾られているのだろう。

 そのうちの一枚の前を通りかかったとき、博文は思わず電動車椅子を止めた。

 そして、じっと絵を見つめる。

 隣を歩いていた莉奈はすぐに彼の興味に気づき、口元に笑みを浮かべた。

 キャンバスを埋め尽くしているのは、さまざまな幾何学模様だった。

 円。

 四角形。

 何本もの線。

 それらが複雑に絡み合っているものの、結局何を表現しているのかは分からない。

 背景の大部分はほとんど何も描かれておらず、ところどころに無造作な絵の具の跡が残されているだけだった。

「その絵、気になります?」

 莉奈が笑顔で尋ねた。

美術展へ足を運ぶくらいなら、法医学や犯罪捜査の専門書を読んでいるほうがずっと楽しい。

 だからこそなのか。

 博文の目に映ったものは、他の人間とはまるで違っていた。

 彼が考えている間に、莉奈が先に口を開く。

「入居者さんの中には、料理が盛られたお皿に見えるっていう人が多いんです。」

「ちょうどお皿の上に、陽の光が差し込んでいるみたいだって。」

 博文は莉奈の説明を頭の中で組み立て、目の前の絵と照らし合わせてみた。

 円形の図形。

 そこから伸びる線。

 周囲へ不規則に飛び散った細かな模様。

 なるほど。

 そう言われれば、見えなくもない。

 だが――

 最終的に博文は、自分が本当に見えたものを口にするのをやめた。

 彼には、それが料理の載った皿には到底見えなかった。

 車椅子だった。

 そして、その周囲に無秩序に飛び散る模様。

 それは彼が何度も法医学の本で目にしてきた――

 血痕の飛散パターン。

 しかし……。


 ……言えるわけがなかった。

 これまでの人生で、博文は一つのことを学んでいた。

 本当の考えをそのまま口にしたところで、理解してもらえるとは限らない。

 むしろ返ってくるのは、たいてい奇妙なものを見るような視線だった。

 だから、いつしか隠すことを覚えた。

 犯罪への興味。

 事件現場の分析。

 そして、死というものへの尽きない好奇心。 そうしたものをすべて心の奥へしまい込み、その上から「普通の人間」という外套をかぶる。

 ――みんな、勘違いしている。

 ――俺は別に、変人じゃない。

 しばらく黙ったあと、博文はただ薄く笑った。

「……そう言われると、確かにそんなふうにも見えますね。」

 莉奈は満足そうに頷いた。

 どうやら自分の解釈を、なかなか独創的なものだと思っているらしい。

 二人が再び廊下を進もうとした、そのときだった。

 杖をついた一人の女性が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 六十代ほどだろうか。

髪はすっかり銀色に染まり、手にした杖は長年使い込まれたのか、握りの部分も先端もかなり擦り減っている。

 歩くたび、彼女は空いているほうの手で脇腹を強く押さえていた。

 まるで激しい痛みを少しでも和らげようとしているかのように。

 彼女の名は、高橋慧子(たかはし けいこ)。

「藤原さん。」

 慧子は不安そうな表情で莉奈に声をかけた。

「ウォレスさん、見かけなかった?」

「今日の読書会、みんなで待ってるんだけど……全然来ないのよ。」

「肺炎だって、ようやく良くなってきたところでしょう?」

「みんな心配してるの。」

「どこへ行ったか、知らない?」

 莉奈は一瞬、きょとんとした。


「今日の読書会、みんなで待ってるんだけど……全然来ないのよ。」

「肺炎だって、ようやく良くなってきたところでしょう?」

「みんな心配してるの。」

「どこへ行ったか、知らない?」

 莉奈は一瞬、きょとんとした。

「今日の読書会、みんなで待ってるんだけど……全然来ないのよ。」

「肺炎だって、ようやく良くなってきたところでしょう?」

「みんな心配してるの。」

「どこへ行ったか、知らない?」

 莉奈は一瞬、きょとんとした。

「おかしいですね……。」

「ウォレスさん、読書会を休んだことなんてほとんどないのに。」

 少し考えてから、莉奈は安心させるように微笑んだ。

「私、部屋を見てきます。」

「心配しないでください。何か用事が長引いてるだけかもしれませんから。」

 その言葉を聞いて、慧子はようやくほっとした表情を浮かべた。

「そう……。お願いね。」

「もちろんです。」

「ありがとう。」

 慧子は小さく頭を下げると、杖をつきながらゆっくりと廊下の向こうへ歩いていった。

 最初から最後まで、彼女は博文の存在に気づいてすらいなかった。

 博文は別に気にしなかった。

 挨拶だとか礼儀だとか、そんなことよりも気になることがある。

 ――ウォレスがいない。

 まだ「失踪」と決めつけるには早すぎる。

 単に部屋で眠っているだけかもしれない。

 別の場所へ出かけている可能性だってある。

 だが、博文の中で何かが動き始めていた。

 事件の匂いを感じ取ったときにだけ目を覚ます、あの感覚。

「佐伯さん。」

 突然呼ばれ、博文は顔を上げた。

「すみません。」

 莉奈は申し訳なさそうに両手を合わせる。

「先にウォレスさんの様子を見に行ってもいいですか?」

「ちょっと遠回りになっちゃいますけど、一緒に来てもらっても?」

 博文は黙って頷いた。

 表情には、ほとんど何の興味も浮かべない。

 まるで自分には何の関係もない出来事であるかのように。

 当然、莉奈は彼の内心には気づかなかった。

 二人が廊下を進み始めると、莉奈は明るい声で話し始めた。

「佐伯さん、きっとウォレスさんのこと気に入ると思いますよ。」

「新しい人と知り合うのが大好きなんです。」

「誰とでもすぐ仲良くなっちゃう人で。」

 博文はほとんど聞いていなかった。

 頭の中に残っていたのは、先ほどの慧子の姿だった。

 彼女が現れてから立ち去るまで――

 左手は一度も脇腹から離れなかった。

 呼吸は浅い。

 歩き方も妙に硬い。

 そして時折、ほんの一瞬だけ顔を歪めていた。

 痛み。

 しかも、おそらく慢性的なものではない。

 最近になって生じた痛みだ。

 打撲。

 肋骨の損傷。

 あるいは筋肉を傷めた可能性もある。

 だが――

 まだ情報が足りない。

 今の段階で結論を出すのは早すぎる。

 博文はその観察を頭の片隅へしまい込んだ。

 そして、何事もなかったかのように莉奈へ答えた。

「……そうでしょうね。」

「会うのが楽しみです。」

❖

 数分後。

 博文と莉奈は、一室の前までやって来た。

 ドアを開けると、ベッドの上に白髪の老人が腰掛けている。

 姿を消したと思われていた、ウォレス本人だった。

「心配かけたね。」

 老人は苦笑しながら、両手を軽く広げた。

「実を言うと、私にも何が起きたのかさっぱり分からないんだ。」

 ウォレスは、ヒポクラテス療養ホームで三十年も暮らしている。

 入居歴で彼を上回る者は、ほとんどいない。

 身体こそすっかり衰えているものの、受け答えは明瞭で、意識もしっかりしていた。

 博文にとって、施設の内情を知るこうした人物は、貴重な情報源になり得る。

「昨夜も、いつもと同じだった。」

「施設中を歩き回って、少しばかり皆を困らせてから、自分の部屋に戻って寝た。」

「ところが今朝、目を覚ましてみたら――」

 ウォレスは困り果てたように、もう一度両手を広げた。

「車椅子がなくなっていたんだ。」

 博文の目が、わずかに細くなる。

「跡形もなく?」

「ああ。」

「思いつく限り、全員に聞いてみた。」

「だが、誰も見ていないと言う。」

「まったく、気味の悪い話だよ。」

 博文はしばらく考え込んだ。

「この施設は確かに広い。」

「ですが、車椅子一台を簡単に隠せるほどではありません。」

「ましてや、目立つ物です。」

 ウォレスは乾いた笑いをこぼした。

「それとも、全員が見て見ぬふりをしているのかもしれないな。」

「正直なところ、ここの連中は揃って都合のいいときだけ目が見えなくなるんじゃないかと疑いたくなる。」

「私自身も似たようなものだがね。」

「物忘れがひどくなってから、ますますそんな気がするよ。」

 博文は淡々と尋ねた。

「誰が持っていったと思いますか?」

 ウォレスは首を横に振る。

「見当もつかない。」

「ただ、盗んだ人間には、それがどうしても必要だったんじゃないかとは思う。」

「とはいえ、ここには車椅子を必要としている人間が大勢いる。」

「それだけでは、誰にでも当てはまってしまうな。」

 黙って話を聞いていた莉奈が、ついに堪えきれず口を挟んだ。

「人の車椅子を盗むなんて、ひどすぎます!」

 だが博文は、静かに首を横へ振った。

「そうとは限りません。」

「車椅子は、普通の窃盗犯がわざわざ盗むような物ではない。」

「それでも誰かが危険を冒して持ち去ったのなら、明確な目的があった可能性が高い。」

 そこで一度言葉を切る。

「もちろん、単なる偶然という可能性もあります。」

 莉奈は眉をひそめた。

「結局、どちらなんですか?」

 博文の表情は変わらない。

「今の段階で決めつけるのは早すぎます。」

「判断するには、もっと情報が必要です。」

 そう言うと、博文は改めてウォレスへ視線を向けた。

「その車椅子について、特徴を教えてもらえますか?」

「もちろんだ。」

 ウォレスは記憶をたどるように、ゆっくりと目を細めた。

「ごく普通の電動車椅子だよ。」

「介助用のハンドルは付いていない。」

「ほかには……そうだな……。」

 ウォレスはしばらく考え込んでいたが、不意に目を輝かせた。

「ああ、そうだ!」

「背もたれの後ろに、小さな犬の絵が描いてある。」

「孫が二人いるんだが、ここへ遊びに来たときに描いてくれたんだ。」

 懐かしそうに笑ったあと、その表情にわずかな寂しさが混じる。

「かわいそうにな。ここへ来ても、あの子たちは退屈で仕方ないんだ。」

「まあ、責める気にはなれないよ。」

「ここじゃ、死ぬのを待つ以外に大してやることもないからな。」

 博文はぽつりと言った。

「……ずいぶん悲観的ですね。」

 ウォレスは苦笑しただけだった。

「長く住めば分かるさ。」

「君もいつか、同じように感じるようになる。」

 その言葉が、妙に博文の耳に残った。

 しかし、今のところウォレスから聞き出せることはもうなさそうだった。

 博文は莉奈と視線を交わす。

 彼女も同じことを考えているらしい。

 二人はウォレスに礼を言い、病室を後にした。

 得られた情報は多くない。

 それでも、一つだけ確かなことがある。

 どこかに、一台の電動車椅子が消えている。

 そして誰かが、それを持ち去った。

❖

 ウォレスの部屋を出た二人は廊下で足を止め、これからどうするべきか相談することにした。

 博文は廊下の先を見つめながら、すでに頭の中でいくつかの可能性を組み立て始めていた。

 一方、莉奈はというと――

「ひどすぎます!」

 怒りでそれどころではないらしい。

「犯人を見つけたら、絶対に警察に突き出してやりますから!」

「気持ちは分かります。」

 博文はいたって冷静だった。

「でも、まずは落ち着きましょう。」

「犯人は、まだこの施設内にいる可能性が高い。」

 莉奈の表情が少し変わる。

「どうしてですか?」

「考えてみてください。」

「誰かが自分の物ではない電動車椅子に乗ったり、押したりして施設の外へ出ていけば、かなり目立ちます。」

「職員や入居者の誰かに見られる可能性が高い。」

「それなのに、今のところ目撃者はいない。」

 博文は静かに結論を口にした。

「つまり、車椅子はまだこの近くにある可能性が高い。」

「なるほど……。」

 莉奈は大きく息を吐いた。

 怒りを抑え、ようやく考えることに集中し始める。

 やがて視線が宙をさまよい始めた。

 頭の中で、この施設のあらゆる場所を一つずつ思い浮かべているのだろう。

「いくつか、心当たりがあります……。」

 両手を腰に当て、莉奈は廊下を行ったり来たりし始めた。

「ええっと……。」

 博文は黙って待つ。

 最初のうちは。

 十秒。

 二十秒。

 三十秒。

 まだ歩いている。

 博文の眉が少しずつ寄っていく。

 さらに数秒が過ぎたところで、ついに我慢できなくなった。

「それでぇ……?」

「今、考えてるんです!」

 莉奈が勢いよく振り返った。

「急かさないでください!」

「はいはい。」

 莉奈は小さく頬を膨らませたあと、ようやく足を止める。

「……そうだ。」

「このホームで車椅子を使っている人たちがよく行く場所なら、まず中庭ですね。」

「建物の周りをぐるっと一周できる遊歩道があるんです。」

「天気のいい日は、散歩する人が多くて。」

 博文の目がわずかに輝いた。

「なるほど。」

「調べてみる価値はありそうですね。」

 電動車椅子のモーターが静かに動き始める。

「行きましょう。」


❖

 中庭は、ヒポクラテス療養ホームの中でもっとも開放的な場所だった。

 ここに立てば、遠くの山へゆっくりと沈んでいく夕日を見ることができる。

 髪を撫でる風の心地よさも感じられる。

 外の世界で暮らしている人間なら、わざわざ気にも留めないような小さな幸せ。

 だが、このホームで暮らす入居者たちは、やがてそうしたものを大切にするようになる。

 なぜなら時として――

 彼らに残されているものは、そんな小さな幸せだけだからだ。

 中庭の中央には、青々とした芝生が広がっていた。

 その周囲を曲がりくねった遊歩道が囲み、道沿いにはいくつものバラの花壇が並んでいる。

 ところどころには季節の花も咲き、夕暮れの柔らかな光を浴びていた。

 今の時間、中庭は静かだった。

 遊歩道を散歩している入居者も数えるほどしかいない。

 博文と莉奈は建物から外へ出ると、すぐに辺りを見回した。

「何か見えます?」

 莉奈が尋ねる。

 博文は答えなかった。

 視線をゆっくりと中庭の隅々まで巡らせていく。

 何か不自然なものはないか。

 何か、周囲から浮いているものはないか。

 最初のうちは、何も見つからなかった。

 少し離れたベンチには、二人の入居者が並んで座っている。

 仲睦まじく手を握りながら話しており、ときおり楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 左手では、庭師が植え込みを剪定している。

 それ以外に、目につくものはない。

 どこにでもある、穏やかな夕方の中庭。

 ――そう思ったときだった。

 博文の視線が、遠くで止まる。

 木々に半ば隠された遊歩道の先。

 杖をついた一人の男が、車椅子に乗った女性に付き添って歩いていた。

 男は女性の肩に片手を置いている。

 その親密な様子からして、二人が単なる知人ではないことは明らかだった。

 だが、博文が気になったのは二人の関係ではない。

 車椅子だった。

 二人がカーブを曲がった瞬間、その背もたれが博文のほうを向く。

 何かが描かれている。

 距離がありすぎて細部までは見えない。

 だが、楕円形のような輪郭だけは確認できた。

「……あそこ!」

 博文は片手を上げ、遠くの二人を指差した。

 莉奈もその方向へ目を凝らす。

 そして、すぐに意味を理解した。

 二人は何も言わず、遊歩道を急いだ。

 距離が縮まる。

 それにつれて、背もたれに描かれた模様も少しずつ鮮明になっていく。

 四本の脚。

 歪んだ胴体。

 不格好な頭。

 子供が描いたらしく、線はあちこち曲がっている。

 それでも、何を描いたものなのかは十分に分かった。

 犬だ。

 間違いない。

 ウォレスが話していた車椅子だった。

「藤原さん!」

「はい!」

 二人は同時に速度を上げた。

 前を進んでいた男女も、背後から近づいてくる二人に気づいたらしい。

 男が振り返る。

 その表情が明らかに強張った。

 歩く速度が上がる。

「待ってください!」

 博文が鋭く声を上げた。

 止まらない。

 むしろ逃げるように先を急ぐ。

 だが、杖を使う男と車椅子の女性では限界があった。

 博文と莉奈は左右から回り込み、二人の前へ出る。

 車椅子が急停止した。

 逃げ道はない。

 二人もそれを悟ったらしい。

 ようやく抵抗するのをやめた。

 そして――

 車椅子に座る女性の顔を見た瞬間、博文と莉奈は揃って目を見開いた。

「……高橋さん?」

 莉奈が信じられないように呟く。

 そこに座っていたのは、つい先ほどウォレスを心配していた――

 高橋慧子だった。

 その隣には、博文が見たことのない男性が立っている。

「慧子さん……?」

 莉奈の声には驚きと困惑が入り混じっていた。

 慧子は俯いた。

 何も答えない。

 二人と目を合わせることさえできず、ただ落ち着きなく指先で車椅子の肘掛けを叩いている。

 完全に見つかってしまったというのに、まだ何とかこの状況から逃れる方法を探しているようだった。

 そのとき。

 隣にいた男が一歩前へ出た。

 身体は痩せ、杖を握る腕にもほとんど力がない。

 それにもかかわらず、その表情には今にも爆発しそうなほど強い感情が浮かんでいた。

「彼女は悪くない!」

 ついに男が叫んだ。

 博文は眉をひそめる。

 この弱々しい男が、なぜそこまで必死になるのか。

「ちょっと待ってください。」

 博文は男を見つめた。

「あなたは?」

「中村啓介(なかむら けいすけ)。」

 男は一歩も退かなかった。

「慧子の恋人です。」

 そして、慧子が座っている車椅子へ目を向ける。

「あなたたちが追いかけてきた理由も分かっています。」

「この車椅子でしょう?」

「そうです。」

 博文は改めて車椅子を確認した。

 背もたれには、子供の手で描かれた小さな犬。

 間違いようがない。

「ウォレスさんは、自分の車椅子を誰かに盗まれたと言っていました。」

「どうやら、その通りだったようですね。」

 啓介は唇を噛んだ。

 しばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めたように口を開く。

「……そうです。」

「俺が持ち出しました。」

 莉奈の表情が険しくなる。

「でも、悪いことをしたくて盗んだわけじゃない!」

 啓介は慌てて続けた。

「慧子には、この車椅子が必要だったんです。」

「信じてください。」

「ウォレスとは仲がいい。あいつを困らせたいなんて、一度も思ったことはありません。」

「だけど……。」

 杖を握る手に力がこもる。

「他にどうすればいいのか、分からなかったんです。」

 その声には、怒りよりも必死な懇願が滲んでいた。

 しばらく俯いていた慧子も、ようやく顔を上げる。

「さっき廊下でウォレスさんのことを聞いたのは、本当に心配だったからなの。」

「あのときは、啓介が車椅子を持ち出したなんて知らなかった。」

「あなたたちと別れたあと、啓介がこれを持ってきて、それで――」

「だったら、どうしてそのとき正直に言わなかったんですか?」

 莉奈が言葉を遮った。

 声にはまだ明らかな怒りが残っている。

 慧子の指が、肘掛けを強く握り締めた。

「……怖くなったの。」

「啓介が問題を起こしたことになったらどうしようって。」

「だから隠れて……何も言えなかった。」

「結果的に、この人がしたことを受け入れてしまった。」

 慧子は苦しそうに目を伏せる。

「ひどいことをしたって分かってる。」

「ウォレスさんにも、本当に申し訳ないと思ってる。」

「でも、この車椅子……。」

 彼女は自分が座っている車椅子へ視線を落とした。

「本当に、私を助けてくれたの。」

 博文の表情がわずかに変わる。

「……どういう意味ですか?」


「私の身体、ずっと悪くなってるんです。」

 慧子は低い声で言った。

「少しずつ力が入らなくなって……。」

「前に、自分用の車椅子を申請したこともありました。」

「でも、施設に断られたんです。」

「それからさらに身体が弱って、今では杖を使うのも難しくなってきました。」

「車椅子がなければ、私は部屋から出ることさえできません。」

「啓介は、私がずっと閉じ込められたままでいるのを見ていられなかった。」

「だから……。」

 慧子は隣に立つ啓介へ目を向けた。

「これが、この人の考えた方法だったんだと思います。」

「俺は、恋人を助けたかっただけです。」

 啓介が言葉を引き継いだ。

「本当に誰かを愛しているなら、何とかして助けたいと思うでしょう。」

 そこで彼は、自嘲するような笑みを浮かべた。

「親父が昔、よく言ってました。」

「恋をすると、人は馬鹿になるって。」

 博文は黙り込んだ。

 先ほどまでの厳しい表情が、ほんの少しだけ和らいでいる。

「……その気持ちは、分かります。」

「お願いです。」

 慧子の声がかすかに震えた。

「このことを施設には言わないでください。」

「知られたら、私たちは隔離棟へ入れられます。」

「どれだけ長く閉じ込められるかも分かりません。」

「私は以前、一度だけ入れられたことがあるんです。」

 その顔から血の気が引いていく。

「もう二度と、あそこには戻りたくない。」

 慧子は啓介へ顔を向けた。

 目には明らかな恐怖が浮かんでいる。

「それに、啓介の身体じゃ耐えられません。」

 博文はすぐには答えなかった。

 長い沈黙が流れる。

 やがて、何かを決意したように目を伏せた。

 だが、口にすることにはまだ抵抗があるらしい。

 喉の奥から、押し殺したようなため息が漏れる。

 博文は歯を食いしばり、ゆっくりと言った。

「……今回のことは。」

 一度、言葉を切る。

「この車椅子がどうやって持ち出されたのか、ひとまず追及しないことにしてもいい。」

「ただし条件があります。」

 全員の視線が博文へ集まった。

「車椅子は、元の持ち主へ返してください。」

 その場にいた全員が言葉を失った。

 冷静に証拠を追い、犯人を突き止めたばかりの博文が、まさかそんな提案をするとは思っていなかったのだ。

 重く、気まずい沈黙が四人の間に広がる。

 まるで電動のこぎりでも切り裂けないほど、濃密な沈黙だった。

 慧子と啓介は何も言わなかった。

 ただ、静かに頷いた。

❖

 博文は、ヒポクラテス療養ホームの広い廊下をゆっくりと進んでいた。

 その隣では、莉奈がウォレスの空になった電動車椅子を押している。

 今回の一件の結末には、二人ともそれなりに納得していた。

 莉奈は何度も博文の横顔を見つめている。

 その表情には、隠しきれない感心の色が浮かんでいた。

 ただ、彼について聞きたいことはまだ山ほどある。

「正直、ちょっと格好よかったですよね。」

 莉奈は楽しそうに言った。

「事件を調べて、犯人を見つけて、真相を明らかにするなんて。」

「私、普段から実録犯罪のドキュメンタリーを見るのが好きなんです。」

「でも、まさか自分が本当に捜査みたいなことをするなんて、考えたこともありませんでした。」

 博文は薄く笑った。

「達成感があるのは認めます。」

「でも、一番大事なのは――」

 彼は莉奈が押している車椅子へ目を向けた。

「これで、ウォレスさんに自由を返せることです。」

 二人は廊下の角を曲がり、ウォレスの部屋へ入った。

 車椅子が戻ったことを知れば、老人はきっと喜ぶ。

 二人とも、そう思っていた。

 だが、そこで彼らを待っていたのは――

 背筋が凍りつくような光景だった。

 ウォレスの姿がない。

 空になった病室。

 乱れたシーツ。

 そしてベッドの上には――

 目を背けたくなるほど鮮やかな、血の跡だけが残されていた。

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