第1章 初めてのホーム
古びた大型バスが、長野県の山奥を走る細い県道をゆっくりと進んでいた。
アスファルトはところどころひび割れ、道路脇にはガードレールもない。
タイヤが路面を踏むたびに、車体全体が軋みを上げる。
まるで長年の疲労を訴えるような音だった。
車体の側面には色褪せた文字が残っている。
**『ヒポクラテス療養ホーム』**
かつては鮮やかな青色だったはずのロゴも、今ではほとんど判別できない。
沈みかけた夕日が、どこまでも続く赤松林を黄金色に照らしていた。
この山道を、この送迎バスは何年走り続けてきたのだろう。
そして明日も、来週も、来年も。
きっと変わらず、この同じ道を往復し続ける。
車内は静まり返っていた。
擦り切れた座席。
ところどころ破れたシート。
長年落ちることのなかった黒ずんだ染み。
古い暖房の匂いと消毒液が混ざり合い、独特の空気を作り出している。
後部には車椅子用リフトが取り付けられていた。
かなり年季が入っているらしく、段差を越えるたびに鈍い金属音を響かせる。
乗客は、一人だけだった。
電動車椅子に座る男。
**佐伯博文。**
四十二歳。
灰色が混じり始めた黒髪は寝癖のまま乱れ、無精ひげが顎を覆っている。
使い込まれた車椅子は傷だらけだった。
青い装飾ラインはほとんど剥がれ落ち、肘掛けには細かな擦り傷が幾重にも残っている。
だが、その背中に固定された人工呼吸器だけは新品同様だった。
白と黒を基調とした本体。
規則正しく点滅するランプ。
透明なチューブが静かに彼の首元へ伸び、一定のリズムで呼吸を支えている。
その電子音だけが、車内の静寂を小さく刻んでいた。
博文は窓の外を見つめていた。
杉林。
また杉林。
そして、また杉林。
どこまで行っても景色は変わらない。
まるで日本地図から切り離された世界に迷い込んでしまったようだった。
車椅子の横には中型のスーツケースが一つ。
その中には彼の人生がほとんど詰まっている。
数着の着替え。
洗いすぎて色褪せたシャツ。
そして十冊以上の本。
すべて同じ分野だった。
犯罪心理学。
法医学。
鑑識科学。
未解決事件。
どれも一般人が趣味で読むような本ではない。
景色を見ることにも飽きた博文は、ゆっくりと運転席へ目を向けた。
人を見る。
それが彼の長年の癖だった。
人は必ず痕跡を残す。
話し方。
歩き方。
服装。
爪。
靴。
それらを集めれば、その人がどんな人生を送ってきたのか、おおよそ見えてくる。
暇つぶしにはちょうどいい。
最初に目についたのは、運転手の制服だった。
左胸のあたりに淡いピンク色の染みがある。
ジャムパンの砂糖。
いや、おそらくイチゴジャムだ。
色の沈み具合から見て二日ほど前についたもの。
袖口には細かな白い粉。
小麦粉ではない。
ドーナツにまぶす粉糖に近い。
朝食はコンビニだった可能性が高い。
次に目を引いたのは右手だった。
運転手の人差し指が、ハンドルを一定のリズムで叩いている。
博文は無意識に拍を数えた。
百二十。
四拍子。
スウィング。
ジャズ。
その瞬間、彼の頭の中で音楽が鳴り始めた。
ブラシで刻まれるドラム。
深く響くウッドベース。
柔らかなピアノ。
最後にサックスが静かにメロディーへ加わる。
まるで本当に演奏が始まったかのようだった。
静寂に耐えられなくなった博文は、小さく口を開いた。
「……ジャズ、お好きなんですか?」
運転手はバックミラー越しに目を丸くした。
「え?」
「そのリズムです。」
博文は穏やかに言う。
「ジャズを聴く人の癖ですね。」
運転手は数秒黙ったあと、小さく笑った。
「よく分かったね。」
「昔、ライブハウスに通ってたんですよ。」
博文もかすかに笑う。
「やっぱり。」
車内の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
運転手は少し肩の力を抜き、バックミラー越しに博文を見た。
「ここへ行くのは初めてかい?」
博文はすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を戻し、流れていく木々を見つめる。
その沈黙を見て、運転手は苦笑した。
「まあ、緊張するのも無理はない。」
「初めて乗せる人は、みんな似たような顔をしてる。」
少し間を置いてから、小さく息を吐く。
「ヒポクラテス療養ホームは……あまり明るい噂を聞く場所じゃないからね。」
博文はその言葉に反応する代わりに、別の質問を返した。
「長く勤めているんですか。」
「来月で十五年になる。」
運転手は前を向いたまま答える。
「何千人送り届けたかなんて、もう数えちゃいない。」
「退職するまでには、あと何人増えるんだろうな。」
博文は静かに頷いた。
「何か、助言はありますか。」
運転手は少し考え込んだ。
ワイパーが一度だけ乾いたフロントガラスをなぞる。
「そうだな……。」
「特別なことは何もしなくていい。」
「毎日を普通に過ごすこと。」
「職員の話をちゃんと聞くこと。」
「それから——」
運転手は少しだけ真剣な声になった。
「余計なことには首を突っ込まないことだ。」
その一言だけが妙に重く聞こえた。
博文は何も言わない。
ただ、その言葉だけを胸の中へしまい込む。
人は忠告するとき、本当に伝えたいことを最後に口にする。
それもまた、長年の経験で覚えたことだった。
彼は再び運転手を観察する。
六十代半ば。
白髪交じりの短い髪。
日焼けした首筋。
穏やかな目元。
長年ハンドルを握り続けてきた人間特有の、無駄のない動き。
どこにでもいる送迎バスの運転手。
……そう思った矢先だった。
左腕。
制服の袖口から少しだけ覗いた前腕に、不自然な傷跡が見えた。
丸く並んだ細かな痕。
歯形。
しかも、人間のものだ。
博文は思わず口を開いた。
「その傷……。」
運転手がちらりと腕を見る。
「ああ、これか。」
苦笑する。
「仕事を始めた頃の勲章みたいなもんさ。」
「利用者さんに噛まれたんだ。」
「病院へ薬を取りに行く途中でね。」
「突然腕に噛みつかれて。」
「引っ張っても離さなくてさ。」
「最後は職員総出で引き離した。」
話し方は軽い。
だが、その傷の深さは笑い話では済まされないことを物語っていた。
「よくあることなんですか。」
「バスの中じゃ珍しい。」
運転手は首を振る。
「でも施設の中じゃ……何が起きても不思議じゃない。」
少しだけ沈黙が流れる。
「その人は、その後どうなったんですか。」
運転手は答えるまでに数秒かかった。
「隔離病棟へ移された。」
「それ以上は知らない。」
さっきまでの柔らかな笑みが消えていた。
バックミラー越しに博文を見つめる目だけが、妙に真剣だった。
「一つだけ覚えておいてくれ。」
「何があっても——」
「隔離病棟だけには入るな。」
車内の空気が、一瞬で冷えた気がした。
博文は返事をしなかった。
窓の外へ目を向ける。
やがて、森が途切れた。
木々の向こうから、一棟の建物がゆっくりと姿を現す。
三階建ての洋館。
赤茶色のレンガ造り。
尖った切妻屋根。
古い教会を思わせる縦長の窓。
昭和の終わり頃に建てられ、そのまま時が止まってしまったかのような佇まいだった。
周囲を深い森に囲まれ、町の気配はどこにもない。
門の前には色鮮やかな紫陽花が咲き並び、その奥には一体の石像が立っていた。
医学の祖、ヒポクラテス。
風雨に削られたその顔は、どこか悲しげにも見える。
バスは坂道をゆっくりと上り、正門の前で静かに停車した。
エアブレーキの音が、山あいに響く。
自動ドアが開く。
運転手は穏やかに微笑んだ。
「着いたよ。」
「……今日から、ここが君の新しい居場所だ。」
博文は建物を見上げる。
ここが。
これから自分が暮らす場所。
自分で選んだわけではない。
それでも、もう後戻りはできない。
喉の奥に何かが詰まったような感覚を飲み込みながら、彼は小さく頷いた。
「……ありがとうございます。」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
電動車椅子のモーター音が静かに鳴る。
博文はゆっくりとバスを降り、ヒポクラテス療養ホームの正門をくぐった。
それが、彼の新しい人生の始まりだった。
案内されたのは、本館一階の事務室だった。
廊下は静まり返っている。
磨き上げられた床には夕陽が細長く差し込み、窓の外で揺れる木々の影がゆっくりと流れていた。
消毒液の匂い。
どこか遠くから聞こえるテレビの音。
誰かが笑う声。
そのすべてが、不思議なほど穏やかだった。
しかし博文は、その穏やかさにどこか作り物めいたものを感じていた。
事務室のドアを開けた職員が頭を下げる。
「こちらで少々お待ちください。施設長がすぐ参ります。」
「分かりました。」
博文は車椅子を静かに机の前まで進めた。
部屋の中は驚くほど質素だった。
壁にはいくつかの賞状と資格証。
書棚には介護や医療、福祉行政に関する専門書が整然と並べられている。
机の上も必要最低限しか置かれていない。
書類。
ノートパソコン。
万年筆。
ペン立て。
家族写真も、趣味を感じさせる小物も見当たらない。
まるで、この部屋には仕事以外の人生が存在しないかのようだった。
博文は視線を窓へ向ける。
大きなガラス越しに正門が見える。
紫陽花の花壇。
送迎バス。
そして正門脇に立つヒポクラテス像。
像は施設へ入る人々ではなく、外の世界へ視線を向けていた。
——まるで、ここから出ていく者を見送っているようだ。
そんなことを考えた瞬間だった。
コンコン。
控えめなノックが響く。
「失礼します。」
ドアが開き、一人の男が姿を現した。
百八十五センチほどの長身。
濃紺のスーツは皺ひとつなく、銀縁の眼鏡が知的な印象を与えている。
髪は丁寧に後ろへ流され、その所作には一切の無駄がなかった。
男は柔らかな笑みを浮かべ、博文へ近づく。
「お待たせいたしました。」
「施設長の本田徳明です。」
博文も軽く会釈する。
「佐伯博文です。」
本田は向かいの椅子へ腰掛けた。
「長旅でお疲れでしょう。」
「山奥ですから、ここまで来るだけでも大変だったと思います。」
「ええ。」
博文は苦笑する。
「想像していたより、ずっと遠かったです。」
「そうでしょうね。」
本田も小さく笑った。
「ですが、そのぶん静かな環境です。」
「落ち着いて生活するには、悪くない場所ですよ。」
そう言いながら、本田は一冊のファイルを開く。
「佐伯さんの資料には目を通しました。」
「これまで本当に苦労されてきたようですね。」
博文は黙った。
その沈黙を責めることなく、本田は穏やかな声を続ける。
「このホームへ来られる方の多くは、ご自身でここを選んだわけではありません。」
「家族の事情。」
「介護の限界。」
「医療的な理由。」
「それぞれ事情は違います。」
「ですが、一つだけ共通していることがあります。」
本田は博文の目をまっすぐ見つめた。
「皆さん、誰かの支えを必要としているということです。」
部屋が静まり返る。
博文はゆっくりと息を吐いた。
「……耳が痛いですね。」
「でも、その通りです。」
「今さら強がっても仕方ありません。」
「人生っていうのは、自分で配られるカードを選べませんから。」
少し笑って肩をすくめる。
「だったら最後まで、その手札で勝負するしかない。」
本田は満足そうに頷いた。
「その考え方は、とても大切です。」
「きっと、このホームでも力になります。」
そのときだった。
勢いよく扉が開いた。
「失礼しまーす!」
明るい声とともに、一人の若い看護師が部屋へ飛び込んできた。
えんじ色のスクラブ。
肩まで伸びた黒髪を後ろでまとめ、満面の笑みを浮かべている。
部屋の空気が、一瞬で軽くなった。
「あっ!」
「もう来られてたんですね!」
彼女は博文へ向かって深々と頭を下げた。
「初めまして!」
「看護師の藤原莉奈です!」
「今日から担当させていただきます!」
あまりにも屈託のない笑顔だった。
博文は思わず言葉を失う。
人との距離を保つことには慣れている。
だが、こんなふうに真正面から笑顔を向けられることには慣れていなかった。
「よろしくお願いします。」
ようやくそう答えると、莉奈はぱっと表情を明るくした。
「よかった!」
「佐伯さん、本がお好きなんですよね?」
博文は少し驚く。
「どうして知ってるんですか。」
「カルテに書いてありました!」
本田は苦笑する。
「莉奈さん。」
「個人情報を勝手に話してはいけませんよ。」
「あっ。」
「すみません!」
慌てて頭を下げる莉奈を見て、本田は肩をすくめた。
博文も思わず笑みをこぼす。
その笑顔を見た莉奈は、どこか安心したように微笑んだ。
「実は今日、読書会があるんです。」
「もしお疲れじゃなければ、一緒に参加しませんか?」
「皆さん、とても楽しみにしているイベントなんですよ。」
博文は少し考えた。
知らない人ばかりの輪へ入るのは気が進まない。
しかし、このホームで暮らしていく以上、いつかは顔を合わせることになる。
「……参加してみます。」
「本当ですか!」
莉奈は嬉しそうに両手を合わせた。
「ありがとうございます!」
本田は立ち上がり、穏やかに微笑んだ。
「それでは、施設の案内は藤原さんにお願いします。」
「分からないことがあれば、遠慮なく私のところへ来てください。」
「ヒポクラテス療養ホームへようこそ。」
「私たちは、あなたを家族として迎えます。」
本田が部屋を出ると、莉奈は車椅子の横へ回り込み、にこやかに微笑んだ。
「それじゃあ、施設をご案内しますね。」
「よろしくお願いします。」
博文が電動車椅子のスイッチを入れると、モーターが静かに唸りを上げた。
二人は事務室を後にし、長い廊下へ出る。
廊下は窓が多く、夕暮れの柔らかな光が床を橙色に染めていた。
壁には季節ごとの飾り付けが並んでいる。
折り紙で作られた紫陽花。
七夕の短冊。
住民たちが描いた風景画。
どれも手作りらしく、少し不格好だったが温かみがあった。
「全部、利用者さんが作ったんです。」
莉奈は誇らしそうに説明する。
「レクリエーションの時間にみんなで作るんですよ。」
博文は一枚一枚をゆっくり眺めた。
筆遣い。
色使い。
貼り付けられた位置。
作品よりも、それを作った人間の癖に興味が向いてしまう。
そんな自分に苦笑する。
「佐伯さん?」
「え?」
「気になるものでもありました?」
「……いえ。」
博文は首を横に振った。
「職業病みたいなものです。」
「人を見る癖があって。」
「刑事さんだったんですか?」
莉奈が目を輝かせる。
「違います。」
「ただの読書好きです。」
「そうなんですね。」
少し残念そうに笑う莉奈だったが、その表情はすぐに元へ戻った。
「こちらが食堂です。」
大きな引き戸が開く。
中では二十人ほどの住民が思い思いの時間を過ごしていた。
テレビを見ている人。
新聞を読んでいる人。
将棋を指している人。
静かに編み物をしている人。
食堂には穏やかな時間が流れていた。
「こんばんはー。」
莉奈が明るく声をかける。
「新しい入居者さんですよ。」
何人かがこちらを振り向く。
「よろしく。」
「いらっしゃい。」
「若い人が来るなんて珍しいねぇ。」
穏やかな挨拶が次々と飛んでくる。
博文は軽く頭を下げた。
「佐伯博文です。」
「今日からお世話になります。」
それ以上は何も言わない。
自己紹介は簡潔な方がいい。
相手の反応を見る時間もできる。
そんなことを考えながら、一人ひとりの表情を観察する。
緊張。
好奇心。
無関心。
様々な感情が入り混じっていた。
しかし、一人だけ違った。
窓際に座る老人。
八十代くらいだろうか。
新聞を広げたまま、博文をじっと見つめている。
笑わない。
挨拶もしない。
ただ、観察している。
——いや。
確認している。
そんな視線だった。
博文と目が合った瞬間、その老人は静かに新聞を閉じる。
そして、ぽつりと呟いた。
「また一人、来たか。」
その声は小さく、周囲には聞こえなかった。
だが博文の耳には、はっきり届いていた。
「知り合いですか?」
博文が小声で尋ねる。
莉奈は老人の方を見て、少し困ったように笑う。
「ああ、あの方は桐生さんです。」
「昔は高校の国語の先生だったそうですよ。」
「ちょっと無口ですけど、悪い人じゃありません。」
博文はもう一度桐生を見る。
桐生は再び新聞を開いていた。
先ほどまでの視線など、最初から存在しなかったかのように。
そのとき。
カタン。
食堂の奥から、小さな音が聞こえた。
一人の女性が落とした湯飲みだった。
「大丈夫ですか?」
職員が駆け寄る。
「すみません。」
「手が滑っちゃって。」
女性は照れくさそうに笑う。
職員は慣れた様子で破片を拾い始めた。
何気ない光景。
誰も気に留めない日常。
しかし博文だけは床へ目を落としていた。
湯飲みの割れ方。
飛び散った破片。
お茶が広がる向き。
彼は無意識に、それらを頭の中で組み立て始めていた。
莉奈は苦笑する。
「やっぱり佐伯さん、観察するのがお好きなんですね。」
博文は少し照れくさそうに笑った。
「悪い癖なんです。」
「気が付くと見ちゃうんですよ。」
「でも、その癖。」
莉奈は楽しそうに言った。
「ここでは意外と役に立つかもしれませんね。」
博文はその言葉に返事をしなかった。
なぜなら、その瞬間——
食堂の奥にある廊下の突き当たり。
**『関係者以外立入禁止』**
そう書かれた重い鉄扉が、一瞬だけゆっくりと開いたのを見たからだった。
中は暗く、何も見えない。
だが次の瞬間、誰かが内側から扉を閉める。
ガシャン。
重い施錠音が食堂まで微かに響いた。
博文はその扉から目を離せなかった。
運転手が口にした言葉が、頭の中で静かによみがえる。
——**何があっても、隔離病棟だけには入るな。**
莉奈は博文の視線を追い、その鉄扉へ目を向けた。
「あそこですか?」
博文は小さく頷く。
「あの先は何があるんですか。」
莉奈は一瞬だけ言葉に詰まった。
しかし、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
「あちらは職員専用エリアです。」
「医療機器の保管室や処置室なんかがあるんですよ。」
「利用者さんは入れない場所なんです。」
説明に不自然なところはなかった。
それでも博文は、ほんのわずかな間が気になった。
質問を受けた瞬間の沈黙。
目が右上へ動いたこと。
声の高さが少しだけ変わったこと。
嘘をついている。
そこまで断言はできない。
だが、何かを隠している人間の反応には見えた。
博文はそれ以上追及しなかった。
初日から余計な詮索をする必要はない。
運転手の忠告も頭に残っている。
「こちらです。」
莉奈は食堂を後にし、廊下をさらに奥へ進んだ。
途中ですれ違う職員は皆、笑顔で挨拶をしてくる。
「こんばんは。」
「新しい方ですね。」
「よろしくお願いします。」
礼儀正しい。
教育も行き届いている。
少なくとも表面上は、理想的な施設に見えた。
二階へ上がるエレベーターの前で、莉奈が立ち止まる。
「佐伯さんのお部屋は二階です。」
「なるべくナースステーションから近いお部屋をご用意しました。」
エレベーターの扉が静かに開く。
二人が乗り込むと、モーター音だけが小さく響いた。
博文は操作パネルへ目をやる。
二階、三階。
それ以外のボタンは見当たらない。
「地下はないんですか。」
何気なく尋ねる。
莉奈は首を横に振った。
「ありませんよ。」
「この建物は三階建てです。」
その答えを聞いた博文は、黙って頷いた。
エレベーターが止まり、二階へ到着する。
廊下には柔らかな照明が灯り、窓からは山々が見渡せた。
遠くではヒグラシが鳴いている。
「こちらになります。」
莉奈が一枚の木製ドアを開けた。
「二〇五号室です。」
部屋は思っていたより広かった。
大きな窓。
電動ベッド。
衣類をしまう収納棚。
テレビ。
小さな冷蔵庫。
そして車椅子でも十分に動き回れる広さが確保されている。
「必要な家具はそろっています。」
「足りない物があれば、いつでも相談してください。」
博文は部屋を一周するように視線を巡らせた。
配置はよく考えられている。
ベッド横のナースコール。
コンセントの位置。
酸素機器を置くためのスペース。
生活するうえで不便はなさそうだった。
「窓からの景色、きれいですよ。」
莉奈がカーテンを開く。
夕焼けに染まる山並みが一面に広がっていた。
その美しさに、博文は思わず息をのむ。
「……確かに。」
「いい景色ですね。」
「私、この景色が好きなんです。」
莉奈は嬉しそうに笑う。
「落ち込んだときは、ここから夕日を見ると元気になれるんですよ。」
博文は窓の外を見つめたまま、小さく笑う。
「そういうものですか。」
「そういうものです。」
莉奈は即座に答えた。
「人って、不思議と景色に助けられることがあるんです。」
博文は返事をしなかった。
代わりに、自分の古いスーツケースへ手を伸ばす。
ファスナーを開け、一冊の本を取り出した。
表紙には、
**『犯罪現場鑑識入門』**
と書かれている。
莉奈は目を丸くした。
「本当にミステリーがお好きなんですね。」
「小説じゃありませんけどね。」
博文は少し照れくさそうに笑う。
「現実の事件のほうが、ずっと複雑ですから。」
その言葉を聞いた莉奈は、不思議そうに首を傾げた。
「佐伯さんって……変わってますね。」
「よく言われます。」
博文が肩をすくめた、その時だった。
コンコン。
部屋のドアが静かに叩かれる。
莉奈が開けると、一人の介護士が立っていた。
「藤原さん。」
「読書会、そろそろ始まります。」
「あ、もうそんな時間。」
莉奈は時計を見て頷く。
そして博文へ振り返った。
「準備ができたら、一緒に行きましょう。」
「皆さん、きっと佐伯さんを歓迎してくれますよ。」
博文は本を閉じ、静かに頷いた。
「……行ってみます。」
それが、この療養ホームで最初に踏み出す一歩になるとは、このときの彼はまだ知らなかった。
博文はゆっくりと窓際へ車椅子を進めた。
その頃、博文はまだ知らない。
この療養ホームで起こる最初の事件が、翌朝には彼の目の前で始まることを。




