第12章:肉体の実験室
数秒も経たないうちに。
林莉は韓博文を肩に担ぎ上げ。
慎重に電動車椅子へ降ろすと。
ぎこちなく身体の位置を調整した。
その間ずっと。
博文は苦痛に呻いていた。
身体を少し動かすだけで。
全身が引き裂かれているようだった。
身体を動かせば。
以前からある程度の痛みはあった。
だが。
ここまで酷かったことはない。
長い間。
まったく動かずにいたせいで。
関節がひどく傷んでしまったらしい。
ほんの少し姿勢が変わるだけでも。
全身の関節が。
焼けるように痛んだ。
しかも。
車椅子は彼専用に作られたものだというのに。
久しぶりに座った身体は硬直し。
ひどく不快だった。
だが。
痛みを気にしている暇はない。
まだ。
安全ではない。
逃げられる時間は。
急速に失われつつあった。
やがて。
博文を閉じ込めていた者たちは。
囚人が消えたことに気づく。
そうなれば――
韓博文も。
林莉も。
ただでは済まない。
今。
何より重要なのは。
介護センターの通常区域へ戻ることだった。
二人の周囲には。
漆黒の迷路が広がっている。
無数の廊下が。
複雑に交差し。
曲がりくねっていた。
同じような扉が。
何列も闇の奥へ続いている。
この区域全体が。
かなり昔に放棄されたようだった。
あまりにも静かで。
二人の呼吸音さえ。
不自然なほど大きく聞こえる。
どちらへ行けばいいのか。
二人には分からなかった。
だから――
ただ。
前へ進み続けた。
「どうやって俺を見つけた?」
博文が囁いた。
「長い話よ」
林莉は。
できるだけ速く車椅子を押しながら答えた。
「あなたの部屋の前を通ったら、いなくなってたの」
「それで聞いて回ったら、みんな別の施設へ移されたって言うのよ」
「でも、すぐ思ったわ」
「嘘つき」
「本当に転院したなら、どうして服も、あなたが大切にしてるあの大量の本も、そのまま残ってるのよ?」
そのとき――
背後から。
素早い足音が響いた。
二人とも。
凍りついた。
林莉は。
即座に車椅子の向きを変え。
反対方向へ走り出した。
適当に。
別の廊下へ曲がる。
「どこへ行くんだ?」
博文が尋ねる。
「知らない!」
林莉は。
息を切らしながら答えた。
「あの音から離れられるところなら、どこでも!」
「ここまで来た道を思い出そうとしてるけど、この場所、複雑すぎるのよ! どの扉も全部同じに見える!」
「話を続けて」
博文が促す。
「あっ。そうだった」
「介護センターのほとんど全部を探したの」
「最後には隔離棟まで調べた。でも、そこにもあなたはいなかった」
「それで私――」
博文が遮った。
「待って」
「ここ……隔離棟じゃないのか?」
「違うに決まってるでしょ」
林莉が。
嫌そうに首を振った。
「隔離棟のほうが、ここよりずっと快適よ」
「別にあそこだって、居心地がいいわけじゃないけど」
「でも、ここは……」
「私にも何なのか分からない」
「介護センターのどこかに、使われなくなった区域があるって噂は聞いたことがある」
「もしかしたら、ここがそうなのかも」
博文は。
少し黙った。
「君が来てくれて助かった」
「俺、手術されるところだった」
「……手術?」
「何ですって!?」
林莉の目が。
大きく見開かれた。
「本気で言ってるの!?」
「この介護センターには外科医すらいないのよ!」
「住民に手術が必要なら、隣の郡にあるミード・ベイ地域病院へ搬送するの!」
「たぶん……」
博文が静かに言った。
「行方不明になった住民たちは、ここへ連れてこられてたんだ」
「秘密の手術」
林莉は。
信じられないという顔で彼を見た。
「何のためにそんなことするの?」
「狂ってるわ」
「分からない」
博文は答えた。
「だから調べる必要がある」
「絶対に駄目!」
林莉が立ち止まり。
彼を睨んだ。
「誰かがあなたを手術台に乗せようとしてるのに、黙って見てるつもりなんてない!」
「今すぐここから出るの!」
「反論は禁止!」
そのとき――
ガシャァン!
遠くのどこかで。
ガラスが割れる音が響いた。
甲高い音が。
放棄された区域全体へ反響する。
二人とも。
身体を震わせた。
「今の聞こえた?」
林莉が。
震える声で囁いた。
「ここから出ないと」
「いや」
博文が。
きっぱり言った。
「他にも誰かいるかもしれない」
「助けが必要な人が」
林莉が。
唇を噛んだ。
そして――
ようやく。
頷いた。
「分かった」
「でも、急ぐわよ」
二人は。
ゆっくりと音のした方向へ進んだ。
慎重に。
音を立てないように。
床には。
亀裂や崩れた部分が。
至るところにあった。
博文の車椅子が。
何度も。
凸凹した地面へぶつかる。
金属音が。
壊れた床へ鋭く響く。
動くたびに。
自分たちの居場所を知らせる危険があった。
進みながら。
博文は周囲を観察した。
見れば見るほど。
混乱は深まった。
雑草が。
床の隙間や壁際から。
好き放題に生えている。
木製の扉は。
腐っていた。
すでに崩れ落ちているものも多い。
カビと腐った木材の。
刺激的な臭いが。
空気に漂っていた。
ここは――
明らかに。
何年も放置されている。
「おかしい」
博文が言った。
「介護センターに、これだけ使ってないスペースがあるなら……」
「どうして増築しようとしてる?」
林莉が。
周囲を見る。
「ここを見てよ」
「ほとんどゴミ捨て場じゃない」
「改修するより、新しく建てたほうが安いのかも」
「それとも……」
博文が。
ゆっくり言った。
「必要なのは、秘密なのかもしれない」
「誰にも見つからない場所」
さらに十数メートル進んだところで。
二人は。
初めて明確な手がかりを見つけた。
一枚の扉の前。
床一面に。
割れたガラスが散らばっている。
扉中央の。
長方形の覗き窓が。
完全に割られていた。
「そこだ」
博文が言った。
「近づいて」
林莉が。
ガラスの手前まで車椅子を押す。
博文は。
すぐに現場を観察し始めた。
頭の中で。
何が起きたのかを組み立てる。
犯罪捜査の本で学んだ知識を使い。
すぐに。
一つの結論へ辿り着いた。
「さっき聞こえたのは、これだ」
林莉が。
すぐに尋ねる。
「どういうこと?」
「ガラスが全部、部屋の外側に落ちてる」
博文は。
いくつかの破片を示した。
「つまり……」
「窓は内側から割られた」
「それに――」
「ガラスに血がついてる」
「他にも誰かいる」
「すぐ近くに」
「しかも、最近怪我をした」
林莉の顔から。
血の気が引いた。
「それなら、反対方向に逃げたほうがいいんじゃない?」
「まだだ」
博文が。
ゆっくり首を振る。
「この血が、被害者のものかもしれない」
「そうなら、置いてはいけない」
本能のすべてが。
自分と韓博文を守れと叫んでいた。
それでも林莉は。
ゆっくりと。
木製の扉を押し開けた。
蝶番が。
悲鳴のような音を上げる。
錆が。
ほとんど全体を食い尽くしていた。
二人は。
中を覗いた。
そして。
ガラスを割った人物を。
ついに発見した。
男が。
床に倒れていた。
一センチ。
また一センチと。
身体を引きずって進んでいる。
腹部から。
大量の血が流れ。
背後に長い跡を残していた。
まるで。
自分自身の粘液の中を這うナメクジのように。
林莉が。
駆け寄った。
男を仰向けにした瞬間――
彼女は固まった。
韓博文も。
その男を知っていた。
ウォレス。
博文が介護センターへ来て。
最初に解決した事件。
その中心となった。
行方不明の住民。
ベッドに残されていた血は。
始まりにすぎなかった。
そして今――
ようやく。
本当の結末へ辿り着いた。
詳しい診察などしなくても。
博文には。
状態がどれほど悪いか分かった。
ウォレスは。
恐ろしいほど痩せ細っていた。
腹部は――
中身を。
くり抜かれたかのようだった。
まだ。
かすかに呼吸している。
だが。
長くはもたない。
博文には分かった。
この状態では。
即座に大規模な手術を受けなければ。
助かる可能性はない。
そして。
二人がいるのは。
ヒポクラテス介護センターの地下。
最も暗く。
最も隠された場所。
そんな医療援助が。
ここまで届くはずもない。
「逃げろ……」
ウォレスが。
掠れた声を出した。
「外科医たちが……お前たちを見つける……」
恐ろしい警告の意味を。
説明する前に。
意識を失った。
空気が。
凍りついたようだった。
だが。
本当の恐怖は――
まだ。
始まったばかりだった。
部屋には。
ステンレス製の保管棚が。
何列も並んでいた。
棚を埋め尽くしているのは。
大きさの違う。
プラスチック製の保存容器。
一つ一つに。
ラベルが貼られている。
今いる位置からでは。
文字までは読めない。
部屋全体が。
業務用冷蔵庫の中のように。
冷え切っていた。
「韓博文……」
林莉が。
真っ青な顔で囁いた。
「戻ったほうがいい」
「まだだ」
博文が言った。
二人は。
ゆっくり容器へ近づいていった。
すべての容器に。
暗赤色の血がこびりついている。
中には。
大きさも色も異なる。
肉片が入っていた。
そして。
ラベルが読める距離まで来た瞬間――
二人とも。
息を止めた。
容器の中にあったのは。
人間の臓器。
心臓。
肝臓。
腎臓。
脳組織。
眼球。
皮膚……。
人体を構成する。
ほぼあらゆる臓器が。
種類ごとに分けられ。
容器の中へ密封されていた。
「ここは……何なんだ?」
博文の声が。
震えた。
林莉が答える前に。
激しい衝突音が。
二人を遮った。
隣の部屋から。
耳をつんざくような。
機械の轟音。
そして――
男の。
苦痛に満ちた叫び声。
音の方向から。
博文と林莉は。
すぐに場所を特定した。
博文は。
自分の命など気にも留めず。
迷わずそちらへ車椅子を走らせた。
残念ながら。
林莉には。
自分を犠牲にすることへの。
同じ熱意はなかった。
「正気なの!?」
「時間がない!」
博文は。
車椅子を止め。
強い決意を宿した目で。
彼女を見る。
正義を追い続けてきた。
アマチュア探偵。
引き下がる気など。
まったくなかった。
「今ここから逃げて、あとで誰かを助けられたかもしれないって分かったら……」
「俺は一生、自分を許せない」
「君は?」
林莉は。
黙った。
やがて――
頷いた。
認めざるを得なかった。
韓博文ほど。
自分のことを理解している患者は。
今まで一人もいなかった。
「だったら、私も行く」
二人は。
謎の機械音を追った。
その先に。
何が待っているのか。
二人とも知らない。
近づくほど――
音は。
はっきりしてきた。
車のエンジンではない。
電動工具。
まるで――
チェーンソー。
ウォレスを見つけた部屋を出た直後。
博文は。
車椅子が進みにくくなっていることに気づいた。
タイヤが。
何度も床へ張りつく。
粘り気のある液体の中を。
走っているようだった。
林莉も。
眉をひそめる。
靴底が。
床へ張りついていた。
「分かる?」
博文が。
静かに尋ねる。
「動きにくくなってる」
「うん」
林莉が答えた。
「靴がずっと張りつく」
「油……グリースみたいな……」
無意識に。
博文のタイヤを見る。
そして。
固まった。
タイヤの外側を。
粘り気のある赤い液体が覆っていた。
片足を持ち上げる。
靴底にも。
同じ液体。
その瞬間。
二人は理解した。
廊下全体が。
薄い層の――
血で。
覆われていた。
そして同時に。
あの切断音の正体も。
明らかになった。
チェーンソーではない。
医療用の。
骨鋸。
背の高い男――
二人が心の中で。
ミスター・シンと呼び始めた男が。
その骨鋸を使い。
意識のない患者の腕を。
ゆっくり切断していた。
その近く。
手術台の横には。
ミスター・ファット。
患者の顔は。
もはや誰なのか分からなかった。
顎から頭頂部まで。
皮膚が完全に剥がされている。
胸と腹部も。
熟れたバナナの皮のように。
大きく開かれていた。
手袋をつけたミスター・ファットが。
患者の身体へ。
直接手を入れる。
臓器の間を探る。
やがて。
血の滴る肉塊を。
一つ引き抜いた。
肝臓のようだった。
それを。
何でもないもののように。
ステンレス製のトレイへ放り投げた。
いわゆる手術台は。
医療器具というより。
肉屋の解体台に近かった。
部屋は。
地上に現れた地獄そのものだった。
ほぼ完全な暗闇。
唯一の明かりは。
天井から危うくぶら下がる。
一つの電球だけ。
電気コードは。
擦り切れていた。
むき出しになった数本の銅線だけで。
かろうじて繋がっている。
だが。
暗闇は。
彼らの作業を。
まったく邪魔していないようだった。
患者の快適さなど。
最初から。
どうでもよかったのだ。
韓博文と林莉は。
自分たちが。
絶対に見てはいけないものを見たのだと悟った。
二人とも。
凍りついた。
心臓が。
喉まで飛び出しそうなほど鳴っている。
ゆっくりと。
後退する。
気づかれないまま。
逃げようとした。
だが――
もう。
遅かった。
狂った医療チームが。
作業を止めていた。
四つの冷たい目が。
侵入者たちを。
真っ直ぐ見ていた。
「お前ら!」
ミスター・シンが叫んだ。
「止まれ!」
二人の殺人外科医が。
こちらへ突進してきた。
韓博文と林莉は。
振り返って逃げた。
廊下を。
全速力で進む。
背後の足音が。
どんどん大きくなる。
近い。
「嘘でしょ! 嘘でしょ! 嘘でしょ!」
林莉が叫んだ。
「何なのよ、あれ!?」
「二手に分かれろ!」
博文が言った。
「混乱させられる!」
「正気なの!?」
林莉が。
叫び返した。
「あんな化け物たちと、あなたを一人になんてできない!」
二人は。
廊下を走り続けた。
左。
右。
さらに曲がる。
複雑に入り組んだ道のせいで。
完全に迷ってしまった。
すでに。
同じ廊下を何度も通ったような気さえする。
だが。
追っ手から逃げられるなら――
それ以外は。
どうでもよかった。
しかし。
林莉の身体は。
限界へ近づいていた。
呼吸が。
乱れていく。
服は。
汗でびっしょりになっていた。
もし自分が倒れたら。
どうなる?
何度も。
その光景が頭をよぎる。
特に。
韓博文は。
看護師として働いてきた年月の中で。
林莉は。
数え切れないほどの患者の死を見てきた。
だが。
これほど――
残酷に殺される人間など。
見たことがなかった。
そしてついに。
身体が。
言うことを聞かなくなった。
「もう……走れない……」
息を切らしながら言う。
「脚が……動かない……」
「息が……できない……」
「そんなこと言うな!」
博文が叫んだ。
「進め!」
「寝るな!」
だが。
もう遅かった。
林莉の視界が。
真っ暗になった。
身体が。
重く床へ崩れ落ちる。
極度の疲労と。
過呼吸。
それが。
彼女の身体を限界まで追い詰めた。
博文は。
ジョイスティックを横へ倒した。
タイヤが。
鋭い音を立てる。
車椅子を反転させ。
彼女のもとへ戻った。
だが。
この身体では――
何もできない。
意識を失った林莉を。
ただ。
無力に見下ろすことしかできなかった。
そして。
廊下の奥を見る。
足音が。
大きくなっている。
近づいている。
博文は。
決断した。
近くにあった部屋へ入る。
腐った鍵は。
すでに崩れ落ちていた。
扉は。
わずかに開いている。
中は。
完全な暗闇。
だが。
他に選択肢はなかった。
中へ入り。
待つ。
それしかない。
待て!
林莉は!?
林莉をどうする!?
俺には動かせない!
何もできない!
まただ……。
俺はまだ役立たずだ……。
何の価値もない……。
いっそ身なりを整えて、次の肉の切り身になる準備でもしたほうがいい。
まあ……。
あいつら、毛深いステーキは好きかな。
こんな状況ですら。
韓博文は。
自分自身に。
ブラックジョークを浴びせずにはいられなかった。
だが。
現実は。
それ以上考える時間を与えなかった。
二人の外科医が。
林莉のところへ到着した。
博文の位置からでは。
何を話しているのか聞こえない。
見えるのは――
骨鋸を持った。
ミスター・シン。
メスを握った。
ミスター・ファット。
二人とも。
意識を失った林莉の上に立っている。
どうする……?
外へ出れば、俺は死ぬ。
隠れていれば、林莉が死ぬ。
そのあと、どうせ俺も見つかる。
どっちにしても……。
死ぬ。
くそっ!
博文の頭が。
猛烈な勢いで回転した。
無数の作戦が浮かび。
その直後には。
却下されていく。
理性と狂気が。
頭の中で。
互いを引き裂いていた。
他に方法があるはずだ……。
ある!
これしかないかもしれない!
俺が投降する。
俺を連れていって、林莉を解放させる。
……解放するか?
……
いや。
林莉は全部見た。
あの化け物どもが、生きて帰すはずがない。
くそ……。
ミスター・シンが。
身を屈め。
林莉を肩へ担ぎ上げた。
そして。
二人の外科医が。
歩き始める。
博文は。
車椅子のジョイスティックを握った。
指が。
震えている。
何度も。
何度も。
迷った。
そしてついに――
深く息を吸った。
もう、どうにでもなれ。
ただでは殺されてやらない。
今日ここで死ぬとしても……。
必ず、こいつらにも痛い目を見せてやる。
よし。
息をしろ。
パニックになるな。
前向きに考えろ。
博文は。
ジョイスティックを握る手に力を込めた。
身体に残っている。
ありったけの力を振り絞り――
車椅子を。
最高速度まで加速させた。
扉から飛び出す。
そして。
二人の外科医へ。
真っ直ぐ突進した。
二人が気づいたときには。
もう。
目の前だった。
「な――!?」
ミスター・シンが。
一言発するのが精一杯だった。
博文が。
そのまま激突する。
車椅子の。
頑丈な金属製フットプレートが。
右の脛を直撃した。
ボキッ!
骨が折れる音が。
廊下へ響き渡る。
「ぐあああああっ!」
ミスター・シンが。
悲鳴を上げて倒れた。
林莉の身体が。
肩から投げ出され。
激しく床へ落ちる。
衝撃で。
ミスター・シンは。
一時的に動けなくなった。
だが。
博文は。
林莉が床へ叩きつけられるのを見て。
胃が捻れるような感覚を覚えた。
くそ……。
林莉まで怪我させたか?
確認する時間はなかった。
突然。
上腕に。
焼けるような痛みが走った。
ミスター・ファットのメスが。
彼の腕を切り裂いた。
傷口から。
すぐに血が流れ出す。
幸い。
刃は。
筋肉と腱を外れていた。
まだ。
車椅子を操作できる。
ミスター・ファットは。
立て直す時間を与えなかった。
メスを振り上げ。
突進してくる。
最後の瞬間。
博文が。
ジョイスティックを横へ倒した。
車椅子が。
急旋回する。
博文の身体が刃から逃れると同時に。
フットプレートが。
男の前へ飛び出した。
ミスター・ファットは。
突然の動きを予想していなかった。
次の一歩を。
踏み出した瞬間――
そこには。
床がなかった。
バランスを崩す。
そして。
顔面から床へ激突した。
そのまま。
動かなくなった。
博文は。
止まらない。
すぐに方向転換する。
ミスター・シンが。
落ちた骨鋸へ向かって。
身体を引きずっていた。
手まで。
あと数センチ。
博文は。
迷わず前進した。
車椅子のタイヤが。
男の手首の上を。
直接通過する。
床との間で。
押し潰した。
「ぎゃああああああっ!」
ミスター・シンが。
再び絶叫した。
少なくとも。
今すぐ。
道具を握ることはできない。
博文は。
警戒を解かなかった。
ミスター・ファットが。
本当に動けないのか確認する。
その瞬間。
瞳孔が縮んだ。
男の身体の下から。
血だまりが。
広がっている。
倒れたとき――
自分のメスの上へ。
直接落ちたのだ。
刃は。
胸へ突き刺さっていた。
心臓を。
真っ直ぐ貫いている。
もう。
助けようがない。
危険の大半がなくなると。
博文は。
すぐに林莉のそばへ向かった。
何度も。
名前を呼ぶ。
「林莉!」
「林莉!」
「林莉!」
必死に。
目を覚まさせる方法を探す。
幸い――
その必要はなかった。
林莉が。
ゆっくりと目を開けた。
そして。
突然。
上半身を起こした。
まだ。
恐怖に支配されている。
短く。
激しい呼吸を繰り返す。
両手を。
胸の前へ防御するように上げる。
今にも。
また襲われると思っているかのようだった。
「大丈夫……」
博文が。
優しく言った。
「終わった」
「もう安全だ」
林莉は。
車椅子のアームレストを支えにしながら。
どうにか立ち上がった。
そして。
博文の腕から流れ続ける血に気づいた。
「嘘……!」
すぐに。
彼の腕を掴む。
両手で。
傷口を圧迫した。
「腕が!」
「大丈夫だ」
博文は。
落ち着いて答えた。
手当てをしながら。
林莉は。
自分たちを追ってきた男たちを見る。
一人は。
今も床を転げ回り。
苦痛に絶叫している。
もう一人は。
血だまりの中で。
うつ伏せになっていた。
動かない。
息苦しいほどの緊張を。
少しでも和らげようと。
林莉が。
引きつった笑みを浮かべた。
「これ……」
「全部、あなたがやったの?」
博文は。
頷いた。
「ああ」
視線は。
鋭いまま。
安心など。
していなかった。
ほんの少しも。
林莉を見て。
ゆっくりと言った。
「俺たちの仕事は……」
「まだ終わってない」




