表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
23/30

第23話 聖女は自分の主語を持たない

【明日の王都瓦版】

リーゼロッテ、王都安寧のため特別祈祷を主宰。

亡霊騒ぎ鎮静へ――聖女待望論、高まる。


 誰かを救う顔は、たいてい誰かを黙らせる顔とよく似ている。


 朝刊の矛盾で王都がざわついたその日の夕刻、教会では臨時祈祷会が開かれることになった。

 名目は鎮静。実態は回収だ。揺らいだ主語を、もう一度一つへ戻すための。


「亡霊が出たから、聖女様が祈ってくださるんですって」


 裏門脇の屋根の上で、クララが呆れたように呟く。


「ほんと、分かりやすいですね……」


「ええ」


 アリアドネは黒布を被ったまま、聖堂へ出入りする人の流れを見下ろした。


「死んだ悪役令嬢の次に必要なのは、泣いてくれる聖女ですもの」


 奪った初稿の中に、《リーゼロッテ慰撫版》があった。

 そこでは彼女は傷ついた民を抱きしめ、王太子の沈黙を静かに支え、やがて王都の“新しい良心”として中央へ立つことになっている。

 筋としては美しい。だからこそ気味が悪い。


 アリアドネたちの狙いは、その筋の校正前原稿を奪うことだった。

 教会地下の祈祷準備室には、瓦版局と教会が共同で使う臨時の連絡箱がある。そこへ今夜、リーゼロッテ用の演説稿と、翌朝配布の情緒記事が届くはずなのだ。


 聖堂の鐘が鳴る。

 信徒たちがひざまずき、白い灯りが大理石へ落ちる。

 中央壇へ立ったリーゼロッテは、やはり完璧だった。傷ついた王都のために眠れぬ顔。誰かの苦しみを自分のもののように引き受ける声。人が安心するために欲しがる輪郭を、彼女は一つ残らず持っている。


「哀しみは、憎しみで癒やされません」


 やさしい声が聖堂へ広がる。


「亡くなった方を、亡霊にしてまで追い回してはなりません。私たちはいま、赦しと秩序を選ぶべきです」


 赦し。

 秩序。

 耳あたりのいい単語だ。だがそのたび、誰かの本文が削られる。


 クララが小さく舌打ちした。


「死んだことにされてる本人の前で、よくああいうこと言えますね……」


「言えるのでしょうね」


 アリアドネは視線を逸らさない。


「たぶん、彼女は本当に“救っているつもり”なのですもの」


 祈祷会が佳境に入るころ、二人は屋根裏から側廊下へ降り、準備室へ滑り込んだ。箱の中には予想通り、まだ封も切られていない紙束がある。


 演説稿。慰問記事。寄進一覧。聖女待望論の投書抜粋。

 そしていちばん下に、細い私信が一通。


 封を開けると、リーゼロッテ自身の筆で一文だけ書かれていた。


 ――わたしが祈るべき文言を、今夜もご指示ください。


 アリアドネの指が止まる。


「……あら」


 その瞬間、背後で扉が閉まった。


 振り返ると、リーゼロッテが立っていた。祈祷の衣を脱いでもなお、彼女の輪郭は白いままだ。


「返してください」


「これは、あなたの台本でしょう」


「違います」


 珍しく即答だった。

 しかも声音が揺れている。


「それは……わたしが、間違えないための指示です」


 アリアドネは私信を持ったまま、彼女を見た。


「ご自分で祈る言葉も、毎回誰かに校正されているの?」


 リーゼロッテは黙る。

 その沈黙が、肯定より雄弁だった。


「わたくし、ずっと不思議でしたの」


 アリアドネは静かに言う。


「あなたはあれほど他人の役を整えるのに、どうしてご自分だけ、あんなに綺麗に空白でいられるのか」


「……必要だからです」


「誰にとって?」


「王都にとって」


「違う」


 アリアドネは首を振った。


「あなたはもう、ご自分の主語を思い出せないだけでしょう」


 リーゼロッテの顔から色が落ちた。

 図星を刺された人間だけがする沈黙だった。


「わたしは……」


 彼女は言いかけて、止まる。


「わたしは、皆が困らないように――」


「それは目的ではなく、配役ですわ」


 アリアドネはさらに踏み込む。


「あなたはいつから、ご自分の言葉ではなく、“必要とされる文言”だけで喋るようになったの」


 リーゼロッテの指先が震えていた。

 怒りではない。もっと根の深い怯えだ。


「もし……もし私が手を止めたら」


 彼女はかすれた声で言った。


「誰がこの街の不安をまとめるのですか。誰が次に憎まれるべき人を示すのですか。誰が皆の善意を壊さずに済ませるのですか」


「知りませんわ」


 アリアドネは冷たく答える。


「でも、だからといって、あなたが自分の主語まで差し出していい理由にはならない」


 廊下の向こうで足音が増える。長くは話せない。

 アリアドネは演説稿の束から、たった一枚を抜いた。

 明朝一面に使われる予定の、リーゼロッテ賛歌の導入文だ。


 そこには赤字で、こう校正されていた。


 《彼女は誰のものでもない祈りによって、王都を救う》


 あまりに皮肉で、笑いそうになった。


「ねえ、リーゼロッテ」


 アリアドネはその一枚を彼女へ見せた。


「あなたの台本を書いている人間は、自分で書いた嘘すら信じていないわ」


 リーゼロッテの呼吸が、一瞬だけ乱れる。


「返して」


「嫌ですわ」


 アリアドネは紙を裂いた。

 真っ二つになった賛歌の導入が、白い床へ落ちる。


「あなたが聖女なら、せめて一度くらい、ご自分で最初の一文を書いてみなさいな」


 直後、廊下から看守が雪崩れ込んだ。

 クララが箱を蹴倒し、投書と寄進一覧が床へ散る。整えられていた“民意”が、紙片になって舞う。


 混乱のさなか、アリアドネは私信だけを懐へ滑り込ませ、窓から身を翻した。


 着地した裏庭で、上階の窓が開く。リーゼロッテがそこにいた。何かを叫びかけて、けれど声にならない。


 その夜、教会から慌ただしく運び出された早刷りは、予定稿から一行だけ欠けていた。


【瓦版更新】

リーゼロッテ、祈祷会にて予定演説を一部逸脱。

聖女待望論に微かな揺らぎ――


 アリアドネはその文面を読み、初めてほんの少しだけ、彼女へ哀れみを覚えた。


「自分の主語を持たない聖女なんて」


 夜風の中で、彼女は呟く。


「ずいぶん、燃えやすそうですこと」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ