第23話 聖女は自分の主語を持たない
【明日の王都瓦版】
リーゼロッテ、王都安寧のため特別祈祷を主宰。
亡霊騒ぎ鎮静へ――聖女待望論、高まる。
誰かを救う顔は、たいてい誰かを黙らせる顔とよく似ている。
朝刊の矛盾で王都がざわついたその日の夕刻、教会では臨時祈祷会が開かれることになった。
名目は鎮静。実態は回収だ。揺らいだ主語を、もう一度一つへ戻すための。
「亡霊が出たから、聖女様が祈ってくださるんですって」
裏門脇の屋根の上で、クララが呆れたように呟く。
「ほんと、分かりやすいですね……」
「ええ」
アリアドネは黒布を被ったまま、聖堂へ出入りする人の流れを見下ろした。
「死んだ悪役令嬢の次に必要なのは、泣いてくれる聖女ですもの」
奪った初稿の中に、《リーゼロッテ慰撫版》があった。
そこでは彼女は傷ついた民を抱きしめ、王太子の沈黙を静かに支え、やがて王都の“新しい良心”として中央へ立つことになっている。
筋としては美しい。だからこそ気味が悪い。
アリアドネたちの狙いは、その筋の校正前原稿を奪うことだった。
教会地下の祈祷準備室には、瓦版局と教会が共同で使う臨時の連絡箱がある。そこへ今夜、リーゼロッテ用の演説稿と、翌朝配布の情緒記事が届くはずなのだ。
聖堂の鐘が鳴る。
信徒たちがひざまずき、白い灯りが大理石へ落ちる。
中央壇へ立ったリーゼロッテは、やはり完璧だった。傷ついた王都のために眠れぬ顔。誰かの苦しみを自分のもののように引き受ける声。人が安心するために欲しがる輪郭を、彼女は一つ残らず持っている。
「哀しみは、憎しみで癒やされません」
やさしい声が聖堂へ広がる。
「亡くなった方を、亡霊にしてまで追い回してはなりません。私たちはいま、赦しと秩序を選ぶべきです」
赦し。
秩序。
耳あたりのいい単語だ。だがそのたび、誰かの本文が削られる。
クララが小さく舌打ちした。
「死んだことにされてる本人の前で、よくああいうこと言えますね……」
「言えるのでしょうね」
アリアドネは視線を逸らさない。
「たぶん、彼女は本当に“救っているつもり”なのですもの」
祈祷会が佳境に入るころ、二人は屋根裏から側廊下へ降り、準備室へ滑り込んだ。箱の中には予想通り、まだ封も切られていない紙束がある。
演説稿。慰問記事。寄進一覧。聖女待望論の投書抜粋。
そしていちばん下に、細い私信が一通。
封を開けると、リーゼロッテ自身の筆で一文だけ書かれていた。
――わたしが祈るべき文言を、今夜もご指示ください。
アリアドネの指が止まる。
「……あら」
その瞬間、背後で扉が閉まった。
振り返ると、リーゼロッテが立っていた。祈祷の衣を脱いでもなお、彼女の輪郭は白いままだ。
「返してください」
「これは、あなたの台本でしょう」
「違います」
珍しく即答だった。
しかも声音が揺れている。
「それは……わたしが、間違えないための指示です」
アリアドネは私信を持ったまま、彼女を見た。
「ご自分で祈る言葉も、毎回誰かに校正されているの?」
リーゼロッテは黙る。
その沈黙が、肯定より雄弁だった。
「わたくし、ずっと不思議でしたの」
アリアドネは静かに言う。
「あなたはあれほど他人の役を整えるのに、どうしてご自分だけ、あんなに綺麗に空白でいられるのか」
「……必要だからです」
「誰にとって?」
「王都にとって」
「違う」
アリアドネは首を振った。
「あなたはもう、ご自分の主語を思い出せないだけでしょう」
リーゼロッテの顔から色が落ちた。
図星を刺された人間だけがする沈黙だった。
「わたしは……」
彼女は言いかけて、止まる。
「わたしは、皆が困らないように――」
「それは目的ではなく、配役ですわ」
アリアドネはさらに踏み込む。
「あなたはいつから、ご自分の言葉ではなく、“必要とされる文言”だけで喋るようになったの」
リーゼロッテの指先が震えていた。
怒りではない。もっと根の深い怯えだ。
「もし……もし私が手を止めたら」
彼女はかすれた声で言った。
「誰がこの街の不安をまとめるのですか。誰が次に憎まれるべき人を示すのですか。誰が皆の善意を壊さずに済ませるのですか」
「知りませんわ」
アリアドネは冷たく答える。
「でも、だからといって、あなたが自分の主語まで差し出していい理由にはならない」
廊下の向こうで足音が増える。長くは話せない。
アリアドネは演説稿の束から、たった一枚を抜いた。
明朝一面に使われる予定の、リーゼロッテ賛歌の導入文だ。
そこには赤字で、こう校正されていた。
《彼女は誰のものでもない祈りによって、王都を救う》
あまりに皮肉で、笑いそうになった。
「ねえ、リーゼロッテ」
アリアドネはその一枚を彼女へ見せた。
「あなたの台本を書いている人間は、自分で書いた嘘すら信じていないわ」
リーゼロッテの呼吸が、一瞬だけ乱れる。
「返して」
「嫌ですわ」
アリアドネは紙を裂いた。
真っ二つになった賛歌の導入が、白い床へ落ちる。
「あなたが聖女なら、せめて一度くらい、ご自分で最初の一文を書いてみなさいな」
直後、廊下から看守が雪崩れ込んだ。
クララが箱を蹴倒し、投書と寄進一覧が床へ散る。整えられていた“民意”が、紙片になって舞う。
混乱のさなか、アリアドネは私信だけを懐へ滑り込ませ、窓から身を翻した。
着地した裏庭で、上階の窓が開く。リーゼロッテがそこにいた。何かを叫びかけて、けれど声にならない。
その夜、教会から慌ただしく運び出された早刷りは、予定稿から一行だけ欠けていた。
【瓦版更新】
リーゼロッテ、祈祷会にて予定演説を一部逸脱。
聖女待望論に微かな揺らぎ――
アリアドネはその文面を読み、初めてほんの少しだけ、彼女へ哀れみを覚えた。
「自分の主語を持たない聖女なんて」
夜風の中で、彼女は呟く。
「ずいぶん、燃えやすそうですこと」




