第17話 赤版は血の名簿を刷る
【明日の王都瓦版】
宮内謹慎の王太子、側近粛清へ。
反逆の芽を摘むため、近衛および諸家に再編成命令――
疑いは、いったん制度の言葉を得ると、ずいぶん上品な顔をする。
王太子の宮内謹慎が布告された朝、王宮の回廊は妙に整然としていた。
誰も声を荒らげない。誰も露骨に騒がない。だが、兵の持ち場が変わっている。扉の前に立つ顔ぶれが違う。昨夜までギルベルトに従っていた者が、今朝は外され、代わりに国王直轄の近衛が要所を押さえている。
粛清という言葉を使わずに、粛清はできる。
「殿下付きの第三隊長、今朝のうちに謹慎ですって」
クララが市場で拾った噂を持ち帰るように囁く。
「第五隊の書記官も。理由は『配置上の不手際』」
「便利な罪状ね」
アリアドネは、王太子府の仮執務室へ運び込まれた帳面をめくっていた。
ギルベルトは実質的な軟禁下にある。会える人間も限られ、文書の出入りも検分される。だが完全ではない。父王はまだ、息子を露骨な囚人にはできない。そこに隙がある。
「昨夜の襲撃で、近衛の当番表が差し替わっていました」
机の向こうでギルベルトが低く言う。
「第三隊が本来つくはずの西塔外縁に、なぜか第五隊がいた」
「そして今朝、第三隊長は不手際で謹慎」
アリアドネは帳面から目を上げる。
「ずいぶん、よくできたあと片づけですこと」
彼は疲れた顔をしていたが、瞳だけは昨日より冷えていた。
父に守られる王子の目ではない。父の演出を読み始めた当事者の目だ。
「近衛の異動記録は半分しか残っていない」
「半分あれば十分ですわ。隠された半分の形は、残った空白で分かる」
その時、王太子府の古参書記が、血の気の引いた顔で入ってきた。
「殿下……これを」
差し出されたのは、封蝋のない薄い包みだった。
中から出てきた紙を見た瞬間、アリアドネは眉を寄せた。
赤い。
朱ではない。版木の顔料でもない。
もっと濁って、乾きかけた色。見間違えようがなかった。
「……血」
クララが小さく息を呑む。
紙面の上部に、小さく刷られている。
【赤版】
王都安定化のための要注意名簿。
その下に並ぶのは事件ではなく、人名だった。
第三隊長。第五隊書記官。王太子府の侍従。北門の瓦版売り。職人街の証人。そして――エルディアン家の御者の名まである。
「これは……瓦版ではない」
ギルベルトの声が低く沈む。
「ええ」
アリアドネは紙を指で弾いた。
「これは未来予告ではなく、処分予定表です」
誰が危険かを知らせるための紙ではない。
危険だと“してしまう”ための紙だ。
「どこから出た」
ギルベルトが書記へ問う。
「分かりません。ただ、近衛の兵舎裏で若い従卒が怯えておりまして……『配られたら終わりだ』と」
終わりだ。
その言い方がすべてだった。名簿に載った時点で、もはや本人の弁明や無実は問題にならない。周囲がその人物を避け、監視し、やがて何かあった時に“やはり”と言う。そのための紙。
「王都瓦版の亜種ではありませんわ」
アリアドネは呟く。
「もっと内輪で、もっと実務的。読者ではなく執行者に向けた版……これが赤版」
母のノートにあった一節が脳裏をかすめた。
白版は空白で群衆を飢えさせる。黒版は不明で口を塞ぐ。赤版は血で命令を簡略化する。
つまり、王家は見出しだけで人を殺すのではない。
見出しの下に、殺す順番まで持っている。
「殿下」
アリアドネは顔を上げた。
「この名簿、どこまで回っていると思われます?」
「近衛と教会、それに一部重臣だろう」
「なら、今日中に載った者が消え始めます」
クララが青ざめる。
「そんな……名簿に載っただけで?」
「名簿に載せたからこそ、です」
アリアドネは紙面を折る。
「人は理由があるから疑うのではなく、疑ってよい許可があるから疑うのよ」
沈黙ののち、ギルベルトが言った。
「君に頼みたい」
彼は自分の指から王太子の印章付きの指輪を外した。
まだ若い指に馴染んでいたそれが、机上へ置かれる。
「これを持って動いてくれ。王太子府の倉庫、文書庫、伝令路、必要なら私の名で開け」
クララが息を呑む。
王太子の印章は、ただの飾りではない。命令の形だ。
「殿下」
アリアドネはその指輪を見つめた。
「わたくしを、殿下の代筆者にするおつもり?」
「違う」
ギルベルトは首を振った。
「私の代わりではない。私にはもう、見えていない場所が多すぎる。だが君は見ている。なら、見えている者が動くべきだ」
彼の言い方は、不器用なくせに正確だった。
権力を貸すのではない。視界の主導を渡すのだ。
アリアドネは指輪を取った。
「承りましたわ」
その冷たい金属の重さが、妙に現実的だった。
午後、彼女とクララは王太子府の印章を使い、近衛補給庫の裏帳簿を開いた。
そこには不自然な出庫記録が並んでいる。紙、封蝋、緘封袋。そして赤い顔料――ではなく、医務室から移された保存血。
「顔料じゃなかった」
クララの声が震える。
「最初から血で刷るつもりだったんですね……」
「ええ。恐怖は、比喩より実物のほうが早いもの」
さらに奥の棚から、未配布の赤版束が見つかった。
その最上段の紙をめくった瞬間、アリアドネの瞳が細まる。
次の名簿には、今朝より多くの名前があった。
そして末尾に、新しい一行。
――エルディアン公爵、今夜、内通の嫌疑により拘束予定。
クララが声を失う。
「お嬢さま……旦那さまが……」
アリアドネは一度だけ目を閉じた。
父を好いているわけではない。あの人は強い人ではないし、母の死についても多くを語らなかった。だがだからといって、紙一枚で消されていい人間でもない。
さらに束をめくる。
次頁には捕縛後の移送先、聴取役、証言を作るための参考文句まで並んでいた。
ここまで来ると新聞ですらない。現実へ印を押すための事務書類だ。
「……殿下」
アリアドネは低く言った。
「これはもう、未来を先に読む装置ではありません。未来を先に決めて、あとから人を合わせる装置です」
ギルベルトの頬が硬くなる。
「父上は、ここまで……」
「お一人とは限りませんわ」
アリアドネは赤版を畳んだ。
「王が一番上にいても、紙を回す手は他にもある。だから厄介なのです」
王太子府を出る間際、背後で鐘が鳴った。
夕刻の鐘にしては、不吉なほど急いている。
門前で瓦版売りが新しい紙を叫んでいた。
【瓦版更新】
反逆の芽、なお王都に潜伏。
公爵家筋にも内通の影――
記事はもう、エルディアン家へ伸びてきていた。
「帰るわよ、クララ」
「でも、殿下は……」
「だからこそです」
アリアドネは赤版を束ごと抱えた。
「王家が見出しで人を殺すなら、まずはわたくしが、その順番を奪います」
獲物のように追われる側ではない。
狩りの順番表を奪った側の声で、彼女は笑った。




