八話
翌日、涙で頬を濡らしながら目覚めた。
鈴子の夢を見た。千昭と結婚してから初めて見た。きっと、喋れない自分に嫌悪を感じたから見たのだ。
瞼を擦りながら、体を起こす。
隣に寂しさを感じた。ちらりと見ると、共寝をしている千昭の姿がなかった。その代わり、彼の字が書いてある一枚の紙が置かれていた。美鈴はそれを拾い上げる。涙を拭って、視界を鮮明にしてから目を通す。
『接待御苦労様。色々と臭うだろうから座敷で伊藤たちと雑魚寝します』
わざわざ文字にして伝えてくれた。
律儀だなと思った。
布団を畳み寝室を出る。自室で着替えて、顔を洗って台所へ向かうと、マツの声が漏れ聞こえた。
「そうそう。上手ですよ」
独り言ではなかった。誰かといるのだ。
美鈴は台所を覗く。千昭がマツと肩を並べて調理台の前に立っていた。
入ってきた気配を察したのか、マツが振り返った。
「ああ、美鈴。おはよう」
千昭も振り返る。
「おはよう。美鈴さん」
千昭は包丁を握っていた。わずかに見えるまな板の上には、いちょう切りにされた人参が見える。味噌汁に入れるときの切り方だ。
美鈴は二人に近づき、千昭とまな板を交互に見る。まさか彼が味噌汁を作っているのか。
マツがにこにこしながら言った。
「千昭さんには感心したよ。今朝は泊まってる彼らの分も作らないといけないし、美鈴も接待で疲れてるだろうからって、早起きして一緒に作ってくれてるんだよ」
「昨晩の、疲れた美鈴さんの顔を見たから、少しでもゆっくり休んでほしいと思って」
千昭は包丁を置き、顔をぐっと美鈴に近づける。驚き、美鈴の心臓は跳ねた。顔を赤くしながら一歩後退る。
「少し瞼が腫れているような……。もしかしてよく眠れなかった?」
美鈴は頭がくらりとするほど、激しく首を横に振る。疲れていたこともあって、朝まで熟睡だった。瞼が腫れているのは夢を見て泣いたからだ。千昭は、美鈴が幼少期の夢を見たとき、泣きながら起きることを知らないのだ。
美鈴はちらりとマツを見る。マツは察してくれたようで頷いた。
「美鈴ね、たまにうつ伏せで眠るときがあるみたいで、そのときはいつも瞼が腫れるんですよ」
「へえ、そうなんですね」
とっさのマツの嘘に、千昭は納得したようだ。これ以上深くは訊いてこないだろう、と美鈴は安堵する。
千昭が「最後まで一緒に作ります」と言うから、三人で朝食を作った。
手際がいいね。
ほとんど均等に切れてすごいね。
自分ができないからか、千昭は何でも美鈴を褒める。
褒められることは恥ずかしくも嬉しく思っていた。でも昨晩、千昭の友人が言っていたことを思い出す。
私に気を遣って言っているんだろうな。
そう思うと褒められる度に、美鈴は心が苦しくなって千昭に申し訳なさを感じた。
朝食後、美鈴と千昭は、帰る友人たちを見送る。昨晩、酔い潰れた伊藤はまだ酒が抜けきっていないようで、顔が青白い。吐いていた、名前を覚えていない彼はこめかみを揉んでいる。
「美鈴さん、昨日はご迷惑おかけしました」
伊藤が直角に体を折った。美鈴は顔の前で手を振って否定する。肩を貸すくらい、迷惑ではない。
美鈴の隣の千昭が腕を組んだ。
「全くだ」
伊藤が歯がみした。お前が酔わないからだ、とその悔しそうな顔が言っているように見える。
「次飲むときは、十人以上集めてお前を酔わせてやるからな!」
「ハハ。十人か」
伊藤の宣戦布告を、千昭は余裕そうに受け止めた。すると伊藤と、もう外に出て家の中を見ている友人たちが、ぎょっと目を見開いた。
「お邪魔しました」
閉まった玄関戸の向こう。人影と話し声が遠ざかっていく。
静かで穏やかな空気が戻ってきた。美鈴は小さく息をつく。
うーん、と千昭が伸びをした。彼も気が張っていたのか、横顔から力が抜けたように見える。
「俺は風呂に入って昨日の汚れを落とそうかな」
だから外から煙の臭いがしたのか、と美鈴は納得する。
千昭に着替えを用意してから、掃除をするため美鈴は座敷に足を踏み入れた。思わず鼻を覆う。酒をあおった八人の男たちが一晩過ごした座敷は、鼻が曲がりそうなくらい酷く酒の匂いが残っていた。この匂いだけで酔いそうだ。
片手では掃除がはかどらないから、息を止めながらほうきで掃いた。
酒の匂いが移った敷布は外し、洗って干した。
そよ風が撫でるように真っ白な敷布を揺らす。その動きは寄せては返す白波のようだ。石けんの香りがふわりと鼻をくすぐる。昨日の残り香はすっかり消え失せた。
「ああ、終わったね~。一息つこうか」
マツが額に光る汗を拭いながら言った。
二人は家の中に入る。
「お茶を持っていくから、美鈴は先に居間に行ってていいよ」
美鈴は居間に行った。千昭と幸助はいなかった。
座布団に腰を下ろし、ちゃぶ台の下に置いていた筆談道具を引き寄せる。マツが来るまでに、あることを書いておく。
「はい。お待たせ」
美鈴は氷が浮かぶ麦茶を受け取った。体に流し込む。内側から冷され、汗になって流れ出た水分が補充された気がする。
「あ~、美味しいね~」
一気飲みしたマツがしずくの滴るコップを置いた。美鈴はマツの腕をつつき、書いたものを見せる。
『千昭さん、私なんかのことを褒めるなんてつらくないかな』
「急にどうしたんだい?」
マツは瞠目し、美鈴の顔を覗き込む。
美鈴は鉛筆を走らせた。書いていて涙が出てくる。字が滲んで見える。
『気丈に振る舞っているだけじゃないか。妻が口無しでもう嫌気がさしてるんじゃないかって、昨日、千昭さんの友達が言っていた』
「そんなこ……」
「そんなこと全然ない」
背後からマツの声が遮られた。
美鈴は振り返る。いつの間にか千昭が立っていた。足音も何もしなかった。彼の視線は美鈴の手元の、ノートに注がれている。
マツも気がつかなかったようだ。目を瞬かせて驚いている。
千昭は美鈴の隣に座った。
「溝口が言っていたこと、聞いてしまったんだね」
美鈴は俯き、書いたものを手で隠した。
「あんなのは気にしなくていい。美鈴さんを褒めるのは本当に感心してるからだし、俺は美鈴さんに嫌気なんかさしてないから」
美鈴はページをめくった。疑問を書き殴って、乱雑な字を千昭に見せる。
『千昭さんはどうして口無しの私と結婚してくれたんですか』
なぜ結婚してくれたのか、詳しいことは知らない。知っておきたい。でも秀嗣の念押しに負けたから、と言うと思う。
「自分のことを口無しなんて言わないで」
千昭は美鈴の手から優しく鉛筆を取った。そして『口無しの』を塗りつぶした。
「おじさん。いや、お義父さんの話を聞いて美鈴さんのことをいいと思ったから、美鈴さんと結婚して立花家の婿になろうと思ったんだ」
美鈴は顔を上げた。喋れない自分をいいと思ってくれた。秀嗣はどんなことを言ったのだろうか。
「『家事が得意で慎ましやか。見目も悪くない。欠点は母親のせいで、ちょっと人前で喋れないだけ。それに目をつぶれば良妻になる』って、お義父さんは美鈴さんのことを俺に紹介した。正直、掛け値かなと思った。でも恥ずかしそうに笑う美鈴さんの写真を見て、掛け値なしだと直感したよ。喋れないことは些細なことだと思ったから、俺は美鈴さんとの結婚を決めた。顔合わせのとき実際に会って、美鈴さんとならいい家庭を作れると確信したよ」
喋れないことは、ちっとも些細なことじゃない。大事だ。良妻になる可能性を打消す欠点だ。
なのに千昭さんは……。
優しさに触れるとさらに涙が作られ、目頭にたまっていた分が滴る。
千昭は美鈴の頬に手を添えた。こぼれ落ちた涙を拭ってくれた。触られたところが、じわりと熱を持つ。
「俺は望んで美鈴さんと結婚した。嫌気なんかさしてないし、これからもさすことはない。だから安心してほしい」
千昭の顔がわずかに赤らんだ。頬にある彼の手の熱が高くなった。その熱が美鈴の体を熱くする。
頬染めた二人が見つめ合っていると、ぐずぐずと泣き声が聞こえた。マツだった。顔を覆って泣いている。ずずっと洟をすすり、マツは顔から手をのけた。
「千昭さん。美鈴と結婚して婿に来てくれてありがとうございます」
言ってマツは座礼した。
千昭さん。ありがとうございます。
美鈴も声に出して伝えたかった。でも言えなかった。だから書いて伝えた。




