七話
幸助とマツが風呂に入りたそうだったから、湯を温めておこうと思い、美鈴は外に出た。
風が運んできた匂いに、美鈴は鼻をつまみたくなった。口に入れていないのに苦いと感じるこの匂いはタバコだ。誰かが縁側に座って吸っているのだろう。家族にタバコを吸う人が誰もいなかったし、千昭も吸わないから、吸い慣れないこの強烈な匂いはどうも苦手だ。
家の角を曲がろうとしていると、「庄司の奥さん」と聞こえた。
自分の話をするのかな。美鈴は思わず足を止める。悪いとは思いつつ、耳をそばだてる。
「まさか口無しだったなんて知らなかった。あいつ、人柄よし、容姿よしの銀行員だぜ。引く手数多だったろうに、何であれと結婚したんだろうな」
「口無しだけど、まあ、気に入ってるんだろ。『どれ食べても美味いだろ』『よく気がつくだろって』って、首ったけだったじゃないか」
今日初めて会った人たちだから、声だけでは誰が喋っているのかわからない。
二人の会話にもう一人加わった。
「気丈に振る舞ってるだけだろ。考えてみろよ。口無しの妻だぜ。いいように思って、現実を忘れようとしてんだよ。そうじゃねえと、口無しとの生活なんて耐えられねえだろ」
ふっー、っと紫煙を吐き出す音が聞こえた。
刹那の無言の直後。
「内心、もう嫌気がさしてたりしてな」
さっき喋っていた男の声だった。それは実に嘲笑的な言い方だった。
美鈴はその場に立ち尽くす。
千昭は優しい好青年だから、そんなこと考えたことがなかった。
本心で褒めてくれているはず。でも……。
美鈴の心を不安が横切った。
美鈴は千昭の妻になって一ヶ月と少し。結婚前の交流なんてなかったから、千昭のこと深く知らない。同じ屋根の下で暮らしながら、千昭について知見を深めている最中だ。そんな自分よりも、青春時代を一緒に過ごした彼らのほうが、千昭のことを深く知っていると思う。
気丈に振る舞っているだけ。不分明な事情が、美鈴が思っている千昭の輪郭をぼやけさせる。
煙が空気に溶けるように、縁側から人の気配が消えたような気がする。美鈴は角から顔半分を覗かせた。
誰もいなかった。
縁側の前を通る。タバコの残り香は強かった。
薪をくべて家の中に戻った。
疲れたのか飲みすぎて潰れたのか、二時間前の騒がしさは皆無だ。家の中は、嵐が過ぎ去ったあとのように、静まりかえっている。
客間を覗いてみると、三人しかいなかった。伊藤と名前を覚えていない彼は卓に突っ伏していて、松岡は大の字になっていびきをかいて眠っている。他の人はタバコを吸いにいったのだろうか。
千昭の姿もない。トイレにでも行っているのだろうか。
美鈴は空になった皿を重ね、台所に持っていった。そしてコップに水を注ぎ、客間へ舞い戻った。
突っ伏している、名前を覚えていない男の側に、そっとコップを置く。わずかな振動に気がついたのか、男はむくりと顔を上げた。
「ああっ、奥さん、すみません」
眉根を揉みながら、コップに手を伸ばす。目がとろんとしている。そうとう酒を飲んだようだ。
伊藤も顔を上げた。嘔吐しそうなげっぷをした。こっちもそうとう酒が回っているようだ。完全に開いていない目で、無防備な松岡を見下げる。
「松岡、起きろ。他所様の家だぞ」
と、松岡の肩を揺り動かした。注意したから、伊藤は寝ていないのだろう。
ああ、とまぬけな声を出し、松岡はおもむろに起き上がった。常に赤い顔が、発熱しているような赤になっている。
「ぐぷっ」
伊藤が、木の実をため込んだリスのように頬を膨らませて口を押さえた。もう吐く寸前のようだ。
「すみません、美鈴さん。うぷっ、……トイレに連れていってください」
美鈴は頷き、伊藤に肩を貸した。中肉のしっかりとした重みが、体にのしかかる。そして酒の匂いが鼻をつく。
トイレには先客がいた。
「おーい、ちょっと俺にも……」
介抱していた千昭が振り返る。
「伊藤もか」
千昭は苦笑した。それほど酒を飲んでいないのか、涼しい顔をしている。
「お前が異常な枠なんだよ」
「いや、皆が下戸なだけだろ」
「俺は下戸じゃない。飲めるほうだ。一人で、七人とほぼ同じ量飲んで平気なお前がおかしいんだ」
美鈴は仰天した。千昭は幸助の晩酌に付き合うことがある。だが、そのときはおちょこ一杯しか飲まないというのだ。実は大酒飲みだったなんて。
頭上からぐぷっ、と聞こえた。ツンと酸っぱい臭いもする。視線をそちらにやる。口を隠している手の 隙間から、黄土色の唾液が見える。
千昭が慌て顔で飛んできた。
「耐えろ伊藤! 絶対に美鈴さんにかけるなよ!」
千昭が、美鈴から伊藤をかっ攫う。そしてトイレの中へ消えていった。閉まっている扉の向こうから「かはっ」と聞こえ、水が飛び散る音がした。
美鈴は脱衣所からタオルを持ってきた。
トイレの扉を叩く。
はいはい、と千昭の声がし、扉が開いた。色々混じった強烈な悪臭が流れ出てくる。
「次は誰だ?」
千昭は苦笑していたが、美鈴だとわかるとほほえんだ。
「タオルを持ってきてくれたんだ。ありがとう」
美鈴は視線を下にやる。壁にもたれかかり、額に手を当てて俯く二人。床には水滴や吐瀉物が模様のように散っている。派手にやったようだ。
床を拭こう。思って屈むと、「あっ」と千昭に止められた。そしてタオルを全て取られた。
「こいつらの不始末は、俺が責任を持ってきれいにするから任せて」
と、千昭は白い歯を見せて、トイレの扉を閉めた。
美鈴は、客間からありとあらゆる洗い物を回収し、台所の洗い場の前に立った。
並んでいる、六本の空っぽの一升瓶を眺める。千昭は一人で七人と同じ量を飲んだと言っていた。一升瓶を三本空にしたのだろうか。熱燗だって二十本は作った。こっちも一人で十本飲んだのだろうか。酒がほとんど飲めない美鈴が、今まで飲んだ量を軽く越えている。
すごい……。
感心してから、美鈴は皿洗いを始めた。
今晩、家に泊まる彼らの布団を敷いたら、私のやることは終わりかな。
そう思いながら、洗った皿を拭き上げていると台所に誰かが入ってきた。
振り返って見る。千昭だった。介抱しているときは、吐瀉物に隠れてわからなかった酒の匂いが、ぷんとする。見た感じは素面だから、不思議な感じだ。
「騒がしいのがたくさん来て、疲れただろう?」
美鈴は首を横に振る。本当はどっと疲れたが、千昭に気を遣われたくない。
「洗い物、もうすぐ終わるみたいだね」
千昭が言ったことに美鈴は頷く。
「座敷に布団を敷くのは俺がやるから、美鈴さんは早く風呂に入って休んで」
七人分も準備するのだ。一人でさせるのは悪いと思い、首を横に振る。
「気遣いありがとう。でも」
と、千昭が中腰になり、目を合わせてくる。若干の憂いを帯びた顔に、美鈴はどきりとする。
「顔に『疲れた』って書いてある。だから早く休んでほしいな」
懇願するように千昭は言った。
ありがとうございます。
そう言おうと思った。でも喉に石がひっかかったみたいで無理だった。無言で頭を下げる。自分に嫌悪を感じる。
千昭は納得したように笑い、台所を出ていった。
美鈴は最後の一枚を拭き上げて、ぬるくなった風呂に入って寝室に入った。
自分と千昭の布団を敷いて、一人先に眠りについた。




