五話
おはようございます、と鈴世の声がするから、美鈴は洗濯物を干す手を止めて、玄関へ飛んでいった。
「用事の前に少し寄りました」
鈴世は、黒地で白いレースがあしらわれた襟がついているワンピースに身を包み、リボンで髪を結わえている。俗に言う、モダンガールというやつだ。西洋の装いもよく似合っていてかわいい。
「お姉様、ご結婚、おめでとうございます!」
ぺこりと、美鈴は頭を下げた。
顔を上げると、鈴世が訊いてきた。
「ねえ。旦那様、今日いるんでしょう?」
美鈴は頷く。
すると鈴世は、目を爛々と輝かせた顔を美鈴にぐっと近づけて、
「会ってみたいです!」
と、食い気味に言った。
用事の前にわざわざ寄ったのは、祝いの言葉を言いたいのもあっただろう。けれど、千昭に会ってみたいという気持ちのほうが、強かったのかもしれない。
美鈴は頷き、家の中を振り返った。
居間に寄って筆談道具を手にしてから、千昭の部屋に向かう。
千昭の部屋の前で、パンパンと神社でお参りするときのように手を叩く。声をかけずに襖を開けるのは悪いから、何かいい方法がないかと思っていると千昭が提案してくれた。
「どうぞ」
襖の向こうから声がしたから、美鈴は戸を開けた。
ついこの間まで秀嗣の部屋だった。本棚、窓際の机の位置は変わっていない。ぱっと見では、秀嗣の部屋に千昭がいるように思う。でもよく見れば、小物や本棚に並ぶ本が違う。匂いや雰囲気も千昭のもので上書きされ、もうすっかり千昭の部屋になっている。
「どうした?」
机上に複数冊の本がある。あれは物置に運んだ秀嗣のものだ。どうやらそれを読んでいたようだ。
美鈴は千昭の目の前まで行き、ここに来ながら書いたものを千昭に見せる。
『妹が来ました。千昭さんに会いたいそうです』
「それなら、顔を合わせておこう」
腰を上げた千昭と一緒に、玄関で待っている鈴世の元へ向かう。千昭も鈴世と会ってみたいと言っていた。
三和土に立つ鈴世は、わくわくとしている気持ちを溢れさせながら、家の中をじっと見ていた。美鈴と千昭の姿を認めたようで、
「おはようございます」
と、鈴世は礼儀正しくお辞儀した。
「おはようございます。お初にお目にかかります。千昭と申します」
「叶井鈴世です。初めまして。お義兄様」
「お義兄様なんて、何だか照れますね」
「あら。でもお義兄様ですから」
気恥ずかしそうに後頭部を撫でている千昭が、くすくすと笑う鈴世に投げかけた。
「鈴世さんは、東京音楽学校に通って声楽を学んでいらっしゃるとか」
「はい。今度、お義兄様に歌って聴かせますわ」
「それは実に楽しみです」
「千昭くーん。どこだーい」
家の奥から千昭を呼ぶ幸助の声がする。
「ちょっと失礼します」
千昭は一礼してから、声がしたほうへ歩いていった。
千昭の姿が完全に見えなくなると、
「ねえ。お義兄様ってどんな方なの? 詳しく教えてよ」
鈴世が小声で訊いてくる。
美鈴は頬を赤らめながら、鉛筆を走らせる。
『優しくて真面目な素敵な方』
「まあ、理想的なお方じゃない! お姉様、よかったですね!」
と、鈴世は興奮しながら言った。
また近々来ますね、と鈴世は、もう帰っていった。
昼食を食べてから、美鈴は千昭と一緒に商店街へ出かけた。顔合わせのときに食べた鰤の幽庵焼きを食べたいと所望されたから、魚屋へ行く。
こうやって千昭と肩を並べて外出するのは初めてだ。嬉し楽しみで、美鈴は昨日の夜からそわそわとしていた。それをマツに指摘され、にやにやされた。
「こっちの商店街は、俺の実家の近所の商店街よりも栄えているなぁ」
千昭はきょろきょろと興味深そうに辺りを見回しながら、商店街を歩く。美鈴もつられ、ほぼ毎日来ている商店街を観察する。
文字が消えかかっていた豆腐屋の看板が、新しくなっている。前は何が飾られていたか覚えていないが、洋服屋のショーウィンドウには、半袖のワンピースが飾られている。
毎日変わらないように見えるけど、実は少しずつ変わっているのだ。毎日観察すると面白いかもと、美鈴は思った。
もうすぐ、レコード屋がある。窓に鈴子のポスターが貼られていたから、避けていたレコード屋だ。美鈴の体は強ばる。
まだあのポスターは貼られているのかな?
このレコード屋の前を通らない道は、自宅まで遠回りだ。瓶類など重いものを買ったとき、自宅まで距離があるのがつらかった。
美鈴は恐る恐る、横目でレコード屋の窓を見る。
見れば苦しくなるし、あの夢を見てしまう。でも貼られていなければ、この道を安心して通れる。
あのときのポスターとは違う色。窓のほうに顔を向ける。もう鈴子のポスターは貼られていなかった。
美鈴はほっと胸をなで下ろす。同時に体の強ばりもとれる。明日からこの道を通れる。
魚屋で買い物を終え、帰路についていると、
「庄司!」
と、背後から男の声が聞こえてきた。
庄司は千昭の旧姓だ。千昭に向けられたもののような気がするが、千昭は聞こえていないかのように反応しない。
「庄司千昭!」
強く、旧姓で呼ばれた千昭ははっとし、振り返った。美鈴も一緒に、振り返る。短髪で吹き出物が目立つ赤ら顔をした、千昭と同じ歳くらいの男性が立っていた。
「ああ。松岡か。久しぶり」
千昭が手を挙げると、松岡は苦々しい表情を浮べた。
「お前、自分の名前を忘れたのか? それとも無視したのか?」
「違うさ。俺、もう庄司じゃないから、俺のことじゃないと思った」
えっ、と松岡の目が点になった。
「お前。もしかして婿入りしたのか?」
「ああ。先週な」
縁談自体は昨年から決まっていた。松岡とは、特段親しい間柄ではないのか、千昭は婿入りすることを教えていなかったようだ。
「先週なら、まだ庄司のほうがしっくりくるだろ!」
「いや。職場でも立花って呼ばれているから、もうすっかり立花に慣れたさ」
松岡の視線が一瞬だけ美鈴に滑った。
「こちらが奥さん?」
「そう。美鈴さん」
千昭に紹介され、美鈴はぺこりと松岡に頭を下げる。
「初めまして。自分は庄司とは高校の同級生で、松岡肇と言います」
妻の美鈴です。よろしくお願いします。
そんな簡単な挨拶もせず、ただ頭を下げただけだから、松岡は眉をぴくりと上げて、顔を若干引きつらせた。礼儀のなっていない女だ、と思っているのだろう。
それに千昭は気がついたようで、弁明してくれた。
「ああ、美鈴さんはちょっと訳あって喋れないから」
「へぇ、そうなのか」
松岡の目が侮蔑的なものに変わった。
こんな目で見られるのは慣れている。美鈴は顔色を変えず、松岡を見続ける。声を聞かれ、汚いと思われるよりもましだ。
松岡は瞬きすると、目から侮蔑の色を消した。そして千昭を見て、千昭の肩に手を置いた。
「色々たいへんだと思うけど、いい家庭を築けよ」
始まったばかりの結婚生活。義実家との関係。色々の中に入っているだろう。でもそれは、『喋れない女と結婚したこと』のおまけだろう。
美鈴は松岡の皮肉を何も思わなかった。だって、喋れない自分と結婚した千昭はたいへんだからだ。
「たいへんじゃないさ。美鈴さんは毎日おいしいごはんを作ってくれるし、一緒に住んでいる大舅さんたちはいい人だし」
「庄司がそう思ってるならいいけど」
去ろうとする松岡を、「あっ」と千昭が止めた。
「来月の頭の土曜日。伊藤たちが家に来て、祝ってくれるって言っているんだ。松岡も来るか?」
「はっ? 何だよそれ? 参加するに決まってるだろ!」
千昭の高校時代の友人たちが、祝いをしたいと申し出たのだ。その中に松岡はいなかったようだ。
「じゃあ、伊藤に詳しい話を訊いてくれよ」
「おう! じゃあな!」
と、松岡はこの場を離れていった。
松岡の背を見ていた千昭が、美鈴を見た。
「俺たちも帰ろう」
美鈴は頷き、家路についたのだった。
帰宅し、掃除をして洗濯物を畳んだ。いい時間になったから夕食の準備に取りかかる。
鰤を捌いていると、千昭が台所にやって来た。
「あら、千昭さん。どうしたの?」
「美鈴さんが料理しているところを見ようと思って」
千昭は美鈴の肩越しに、まな板を覗き込んだ。
千昭の顔が真横にある。彼の体温が顔周りの空気を熱くし、美鈴の頬を赤く染める。
「これ、美鈴さんが捌いたんだよね?」
美鈴は頷く。
まな板の上の切り身を見ていた千昭が、美鈴を見た。顔を覗き込んでくる。どきりとし、美鈴は固まる。
「三十年以上は台所に立ってる俺の母さんよりも上手いよ」
「あら、美鈴。聡子さんよりも上手なんて、よかったね~」
マツが満面の笑みで言った。
千昭が離れ、美鈴はようやく動けるようになった。
「千昭さん、本当に優しくていい人だね」
マツは台所の出入り口を見ながら、しみじみと言った。
美鈴だってそう思う。
千昭は松岡の皮肉に、『たいへんじゃない』『毎日おいしいごはんを作ってくれる』と自分を上げること言ってくれた。あの瞬間、また彼に心を掴まれた。そして、彼の胃袋をがっちりと掴んで、一生離したくないと思った。
だから料理はもっと腕を磨こう。そう決意した。




