四話
翌週の日曜日。
今日、千昭が立花家にやって来る。ずっと居座っていた重苦しい空気は、千昭を迎え入れるための準備の慌ただしさが吹き飛ばしていた。
美鈴たち三人は、居間で千昭を待っている。
もうすぐ来るかと思うとじっとしていられなくて、美鈴は居間をうろちょろ歩き回ったり、手をしきりに揉んだりしてしまう。
それを見て、マツがくすりと笑った。
「ちょっとは落ち着きなさいよ」
「だって……」
美鈴は頬を染め、手を揉みながら小さく言う。千昭が来て一緒に暮らし始めるのだ。落ち着いてなんていられない。
「こんにちは」
千昭の声が聞こえてきた。美鈴は手の動きを止める。すでに走ったあとのように速く脈打っている心臓が、もっと速くなる。
「さあ、出迎えよう」
幸助を先頭に、三人は玄関へ向かう。玄関に近づくにつれ美鈴の足は浮ついて、幸助より前へ出そうになる。
磨りガラスの向こうに、人影が見える。
すらりと背の高い細身の影。千昭だ。
影を見ただけなのに、顔が焼け石のように熱くなる。
幸助が三和土に降り、玄関戸を開けた。
千昭の姿を認めた瞬間、また心臓が速くなった。これ以上速くなったら、破裂するのではないかと思う。
「ようこそお越しくださいました」
幸助は言いながら、旅館の出迎えのように深々と頭を下げる。美鈴とマツもそれに倣う。
千昭が言い、体を折った。
「本日からよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。さあ、どうぞ入ってください」
幸助が中へ促す。
「はい」
行李を包んでいるであろう風呂敷を二つ持ち上げ、千昭が家の中に入ってきた。
革靴を脱ぐため、千昭は荷物を板敷きに置いた。右手に持っていたものは何が入っているのか、置いたときに重量のある音がした。
「一つ、持ちましょう」
荷物に向かって手を伸ばす幸助を、千昭は制止する。
「本が多く入っているので結構ですよ。お祖父様がこんなものを持って、腰でも悪くされたら困ります」
板敷きに立った千昭は平然とした顔で、軽々と荷物を持ってみせた。
「部屋に案内します」
「ありがとうございます」
家の奥に入っていく幸助と千昭の背を、美鈴とマツは眺めた。
秀嗣の部屋を三人で片づけて、千昭が使えるようにきれいにした。
大学教授で本の虫であった秀嗣の部屋は、専門の歴史学の本の他に、文芸、哲学の本で溢れていた。壁一面の本棚は本で埋まっていたし、机や畳の上にも本が積まれていた。何百冊あったかわからない。「古本屋に持っていって引き取ってもらうか」と幸助は言ったが、美鈴が、千昭が読書をすることを伝え、全て取っておくようにした。
本は、一冊だけでは軽いものだが、何冊も重ねれば途端にずっしりとした重みになる。重いものを祖父母に運ばせるわけにはいかないから、美鈴は腕を痛めながらも懸命に、何度も部屋と物置を往復した。秀嗣の部屋にあった本が並んだ物置は、まるで書店みたいになった。背表紙を見ながら本を選ぶ千昭を想像し、頑張って運んでよかったと美鈴は思った。
「さあっ」
と、マツが手を打った。秀嗣の死後、十歳は老けた容貌は、千昭が来ると決まってから五歳は若返った気がする。
「私たちはお茶を淹れようかね」
美鈴は頷く。そして、マツと台所へ向かった。
昨日買ってきた最中を小皿に載せ、茶を淹れて居間へ行く。
千昭は荷物の整理をしているのか、居間には幸助の姿しかなかった。
筆談道具を取りに行って、『お茶を飲みませんか』と千昭を呼ぼうかと思っていると、襖が開いて、千昭が入ってきた。
千昭はただ着替えていただけのようだ。和装姿の彼は爽やかで上品で惹きつけられる。素敵で、美鈴は見惚れてしまった。町を歩けば娘は振り返り、心をときめかせると思う。
千昭は幸助の側に腰を下ろし、言った。
「広い部屋をありがとうございます。立派な本棚も気に入りました」
「それはよかったです」
マツが口をにんまりとさせ、嬉しそうに首を縦に振る。
茶を飲んでいた幸助が湯飲みを置いて、口を挟んだ。
「千昭くんは、読書をするそうだね」
「はい」
「あの部屋にあった秀嗣の本を物置に入れてあるから、どうぞ好きに読んでください。気に入ったものがあれば、並べるといいよ」
「秀嗣さんが読んでいたものなら、面白そうなものがたくさんありそうですね」
物腰柔らかで礼儀正しい。好青年の模範のような千昭。幸助とマツも気に入ったようで、実の孫に接するような態度だった。
おやつのあと、美鈴とマツは洗濯物を畳んで、箪笥にしまってから台所に立った。
美鈴は、三種類のきのこと調味料を前に深呼吸をする。
味付け濃いめでしいたけが多めに入った、きのこの炊き込みごはん。
千昭と結婚する前に味を極めておこうと思っていた。でも秀嗣の死で、そんなことすっかり忘れていた。
ぶっつけ本番で千昭に出す。上手くできるかわからないがやるしかない。
よしっ、と心の中で気合いを入れて、包丁を握った。
しいたけを細く切っていく。しめじと平茸を合わせた量よりも多い。マツに手伝ってもらわず、全て自分でやる。
しめじと平茸も処理した。それを米と水が入った羽釜に投入する。
酒、醤油を多めに入れて蓋をする。
かまどに羽釜を置き、火を焚く。
おいしくできますように。そう願いを込めながら、火吹き竹から空気を送る。美鈴の願いを聞き入れたように、沈む夕日のような橙色の火はぼうっと音を立て、勢いを増した。
ごはんが炊けたようだ。羽釜の蓋を開ける。湯気と共に、醤油の香ばしい匂いがふわりと美鈴の鼻をかすめる。
食欲をそそられるいい匂いだ。じわじわと唾が出てくる。
醤油色に染まったごはんをほぐし、しゃもじについたものを口に放りこんだ。
見た目通り、米に味はよくついている。きのこは素材の味と醤油の味が感じられていい。初めて作った味付けにしては、上手くできたと思う。
でも他の人はどうだろうか。マツに味見してもらった。
マツは口に入れた瞬間、うん、と声を出して強く頷いた。充分に咀嚼し、ごくんと飲み込んでから、
「おいしいよ」
と、破顔しながら言ってくれた。
五十年以上、台所に立っているマツからお墨付きをもらえた。
これなら彼の口に合うと思う。
美鈴は少し得た自信と一緒に、炊き込みごはんをおひつに移した。
マツがお菜の天ぷらと、ほうれん草のおひたし、味噌汁を居間へ運んだ。
美鈴は、宝物を扱うように胸に抱えて持ってきたおひつの蓋を開いた。
茶碗に炊き込みごはんを山盛りいっぱいよそって、千昭に差し出した。
「ありがとう」
千昭はそれを受け取ると、手を扇いで香りを確かめた。
「いい匂いがすると思ったら、この炊き込みごはんだったんですね」
「千昭さんは、きのこの炊き込みごはんがお好きらしいですね」
「はい」
マツが、千昭を見ながら目を細めてにやにやとする。
「美鈴ったら、今日は絶対にこの炊き込みごはんを作るって張り切ってたんですよ」
余計なことを千昭に伝えられ、好きな人をばらされたみたいに恥ずかしくなった。美鈴は赤面する。言わないでよ、という意味でマツの二の腕をぽんぽんと叩いた。
「おー。美鈴、やるな~」
マツから茶碗を受け取りながら、幸助が言う。こちらもまたにやけ面だ。
祖父母を見ているときまりが悪くなって、美鈴は手をもじもじさせながら、静かに俯いた。
「美鈴さん」
名を呼ばれた。下げたばかりの顔は完全に上げず、上目で千昭を見やる。彼は口角をわずかばかり上げて、こちらを見ていた。
「ありがとう」
そう言って、千昭は桜が咲く頃の柔らかな日差しのように笑った。美鈴はその笑顔を見て、頬が夏の太陽に照らされたときのように熱くなるのを感じた。赤くなっているであろう顔を見られたくなくて深く俯き、千昭につむじを向ける。
三方向から、つむじに視線を感じた。それはどれも温かく優しいものだった。
幸助が己の太ももを打った。
「よしっ! 飯にしよう」
その声に美鈴は顔を上げる。祖父母はもうにやけ面を消していた。
手を合わせ、夕食を食べ始める。
美鈴は箸と茶碗を手に取ったが宙で止め、横目で隣の千昭を見る。
千昭が、早速炊き込みご飯を口に運んだ。美鈴はもぐもぐと動く彼の口を凝視する。
白い喉から突き出ている喉仏が下に動き、また元の位置に戻った。
正面を向いていた喉仏が、美鈴のほうを向いた。美鈴は顔を千昭のほうにやる。目が合った。
千昭は優しく朗笑した。光をまとっているような清らかなその表情に、美鈴は胸の高鳴りを覚える。
「今までに食べた、どの炊き込みごはんよりもおいしいです」
千昭から言われたその言葉を、味を堪能するように噛み締めながら、美鈴は座礼する。
そして自分も、千昭のために作った炊き込みご飯を口に運んだ。千昭に称賛された味は、味見をしたときよりもおいしく感じた。
炊き込みごはんは、おかわりをした千昭と幸助の体の中に入っていった。すっからかんになったおひつを見て、美鈴は顔を綻ばせるのだった。
一週間後。五月の終わり。
立花家で祝言を挙げた。そして婚姻届を提出した。
庄司千昭は婿入りし、立花千昭になったのだ。




