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三話

 秀嗣の四十九日が過ぎた。

 忌中は明けた。だが立花家には、秀嗣が死んだ夜に生まれたどんよりと重い空気が居座り続けている。青葉の香りを運ぶ薫風が家の中に吹き込むが、そんなものでは立花家に居座っている空気を吹き飛ばせない。

 子に先立たれることほど、不幸なことはあるだろうか。幸助とマツは気落ちして老け込んでしまい、実年齢より十歳足したようになった。

 美鈴は居間でふうっとため息をついた。心には、底が見えない大穴がぽっかりと開いている。

 死はこの世に生を受けたものなら必ず訪れる。秀嗣はそれが三月の終わりに来ただけ。そろそろ気持ちを切り替えなくては、と思うけれど父のことを考えれば考えるほど、大穴が広がっていく。

 鈴世が来れば、少しは気が紛れるのだろうか。

 鈴世はどら焼きを持ってきた日を最後に遊びに来ていない。幸助が元妻の鈴子にも、秀嗣の死は伝えた。鈴世はそれで立花家の不幸を知っただろうから、来るのを控えているに違いない。

 忌中は明けたし、そろそろ来てくれないかな。

 そう思っていると、

「こんにちは」

 と、鈴世の声が聞こえた。

 鈴世の来訪を待っているから幻聴かな?

 思いつつ、玄関へ向かう。玄関戸の磨りガラスに影が浮かんでいた。

 美鈴は三和土に降り、急いで玄関戸を開ける。

 普段より笑顔控え目な鈴世がいた。いつもが雲一つない快晴に浮かぶ太陽なら、今日は薄雲を被った太陽のようだ。

「お姉様、お久しぶりです」

 鈴世が胸の前で小さく手を振ってくる。美鈴も同じように振り返し、家の中へ招き入れた。

 いつも通りに縁側の方を指さすと、鈴世は「あっ」と声を出した。

「縁側へ行く前に、おじ様にお線香を上げさせて」

 そう言われたから、鈴世を仏間へ通す。

 鈴世と秀嗣は、出くわせば挨拶する程度の関係だった。わざわざお参りしてくれるなんて、律儀な子だなと思う。

 線香を上げ、お鈴を鳴らし、手を合わせ終わった鈴世が振り返り、美鈴を見た。

 ありがとう。

 心の中で言いながら、美鈴は座礼する。

「お母様、通夜も葬式も参列しなかったでしょう? だから私がお母様の分もお線香を上げないと、と思って」

 前夫が死んだのに、鈴子は通夜、葬式に来なかった。

 鈴子に会うと、夢をきっと見るだろうから会いたくなかった。秀嗣の別れの場に、鈴子の姿がないことに安堵した。でも来なかったら来なかったで、一度は愛した前夫の別れに来ない薄情者だと思ってしまった。矛盾している、と美鈴は自分のおかしさに気がついた。

 秀嗣は、憎んでいた前妻に参ってほしかっただろうか。

 今日、鈴世が善意で、鈴子の分も参ってくれた。参ってほしかったのなら、秀嗣も少しは浮かばれるだろう。

 美鈴は感謝の念を強め、さっきよりも深く座礼した。

 鈴世が、仏壇の前から腰を上げた。

「さあ、いつもの場所に行きましょう。しばらく話せなかった分、たくさん話したいですわ」

 美鈴は頷き、腰を上げる。鈴世と過ごして、少しでも心の穴を塞ぎたい。

 今日も使用人の咳が割と早く聞こえ、少ししか話せなかった。けれど、美鈴は満足だった。かわいい鈴世と過ごせてわずかだが、心の穴が塞がった気がしたからだ。


 夕食を作り終えた。居間に運ぼう、とマツと準備していると、

「ごめんください」

 聞き覚えがある男の声がした。

「庄司さんの声だ」

 美鈴は玄関へ飛んでいく。

 夕日の橙色に染まった磨りガラスに、二人の輪郭が浮かんでいる。ぼやっとしているが、どちらも男の輪郭だ。

 玄関戸を開ける。戸の向こうにいたのは、伸親と千昭だった。二人とも顔合わせのときに着ていた、かっちりとした背広姿だ。

 伸親と目が合った。

「美鈴さん、こんばんは」

 美鈴は無言で会釈をする。

「夕食間際にお訪ねして申し訳ございません」

 伸親は目をわずかに伏せて言った。

 いえいえ、そんなことありません。

 そう伝えるため、美鈴は頭を振る。

「ご迷惑なんてとんでもございません」

 やって来たマツが言った。

「ささっ、どうぞお上がりください」

「では、お邪魔いたします」

 伸親と千昭が家に上がる。

 美鈴の隣に千昭が来た。鼓動が速くなる。頬は熱く、赤くなる。

「こんばんは」

 にこやかな顔でただ挨拶されただけなのに、頬はさらに赤くなる。

 会釈した美鈴は、赤くなった頬を隠すために顔を上げなかった。

「まず、秀嗣くんにお参りさせてください」

「ああ、ありがとうございます。どうぞ、こっちです」

 二つの足音が聞こえたあと、視界にあった千昭の足が動き出した。視界から足が完全に消えてから美鈴は顔を上げた。

 お茶を淹れよう。

 美鈴は台所へ戻った。

 茶を淹れた湯飲みをお盆に載せていると、

「ああ。気が利くね」

 と、背後からマツの声がした。振り返る。

「二人は客間に通したから、客間に持ってきてね」

 美鈴は声を出さずに頷くだけだった。同じ部屋にいなくても、他人が家の中にいると喋れなくなる。

 マツを追いかけるように、美鈴は台所を出て客間へ行った。

 表情が硬く見える幸助とマツが卓を挟んで、客人二人と向かい合って座っていた。

 美鈴は二人に茶を差し出す。千昭に出すときは、緊張で少し手が震えた。

 自分もこの場にいたほうがいいのかな?

 わからず出入り口でそわそわしていると、伸親が美鈴を見た。

「美鈴さんもいてください」

 自分も聞かないといけない話をするようだ。いったい、どんなことを話すのだろう。

 美鈴はごくりと唾を飲み込みながら、幸助の隣に腰を下ろす。

 真正面の二人の神妙な面持ちに直感した。これからするのはいい話ではない。きっと、

『秀嗣が死んだから破談にしたい』だ。

 この縁談は、きっと秀嗣が必死に頼み込んで決まったのだ。秀嗣が自分のために頭を下げる姿を、美鈴は容易に想像できた。伸親や千昭は強い強い念押しに負けて、承諾したに違いない。

 友人は鬼籍に入ったのだ。友人から責められることはない。だからこそ、人前で喋れない女との縁談なんて破談にしたいはずだ。

 伸親が湯飲みを置いて口を開いた。

「縁談の件ですが」

 やっぱり……。

 美鈴の心臓はどきりと跳ねた。膝の上でぎゅっと握っている手には、じわりと汗も滲む。

 破談にしたい。そう言うに決まっている。肩がぶるぶると震え出す。

 生活が立ち行かなくなる不安より、慕情を抱いた千昭と結ばれないことが、美鈴にはつらい。

 嫌だ。

 美鈴は俯く。千昭の顔を見ると、泣いてしまいそうになる。

「喪中の慶事は控えるべきですが、予定を早めませんか?」

 伸親の言葉に、美鈴は顔を上げた。

 破談にしない。しかも予定を早めないかという提案だった。驚きで、一瞬、呼吸を忘れた。

 幸助とマツも驚いたようで、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。

 表情を変えないまま、幸助がおずおずと言葉を発した。

「それはありがたいことですが、やはり喪中には……」

 言いながら瞳を左右に揺らす。幸助は風習を気にする。喪中の結婚なんて、考えられないだろう。

 でもはっきりと拒否しない。

 立花家は今、勤労所得がない。秀嗣が遺してくれたお金を取り崩しながら、生活している。収入がある千昭が早く家に来てくれるのはありがたい。

 風習を守るか、生活のために結婚の予定を早めるか。どちらを取るかで幸助は揺れているのだろう。

 千昭が幸助を見ながら、少し前のめりになった。

「喪中の結婚をためらわれるのは当たり前だと思います。ですが秀嗣さんが亡くなったからこそ、私が、美鈴さん、お祖父様、お祖母様と生活を共にし、支えるべきだと思うのです」

 幸助を見据える千昭の目は力強く、見られていない美鈴もひるみそうになる。

 たたみかけるように伸親も言う。

「どうでしょうか。立花さん?」

 幸助はたじろぎ、助けを求めるように美鈴とマツに交互に視線をやった。

「庄司さんのご厚意、ありがたく受けましょう」

 マツが幸助の二の腕を揺すりながら、すかさず言う。

 幸助はマツと見つめ合う。

 少しの間の後、幸助は何かを決心したような顔になった。そして伸親と千昭のほうを向いて、

「よろしくお願いします」

 と、頭を下げた。

 伸親と千昭が、安堵したように顔を見合わせる。

 表情をやわらかくしながら、伸親が前を向いた。

「来週の日曜日。千昭は休日ですので、早速こちらに送りだそうと思っているのですが、いかがでしょうか?」

 美鈴たち三人は目を見張る。日曜日まではあと六日しかない。秋頃に祝言を挙げ、婚姻届を出し、一緒に暮らし始める予定だった。予定を早めるといっても、来月あたりだろうと思っていた。想像以上の早さだ。

 慌てながら幸助が言う。

「うちは構いませんが、そちらの準備が慌ただしくなるのではありませんか?」

「いつでもこちらへ来られるよう、もう準備しておりますので」

 千昭が言った。

 幸助は顎を触り、考え込んでいる。

 どうするのだろうか。

 美鈴が思いながら見ていると、幸助は顎から手を離した。答えをまとめたようだ。

「では来週から同居をよろしくお願いします」

 言いながら頭を下げた。美鈴とマツもつられ、頭を下げる。

「こちらこそよろしくお願いいたします」

 千昭は言った。座礼した彼のつむじが、美鈴たちに向く。

 話しが終了し、二人は帰っていった。

 磨りガラスの向こうの彼らの姿が、日が暮れた世の紺色の中に消えた。

 美鈴のピンと張っていた気が、ハサミで切断されたみたいにぷつりと切れる。そして、ああ、千昭さんともうすぐ結婚できるんだ、とあの場で感じなかった嬉しさがじわじわとこみ上げてくる。

 ぐう、と誰かの腹の虫が鳴いた。美鈴ではない。腹をさすっている幸助のようだ。

「晩飯を食おう。腹が減った」

 幸助が玄関戸に背を向ける。

「すぐ準備します。美鈴、行こう」

「うん」

 頷き、マツと一緒に台所に急いだ。

 盛り付け、幸助が待つ居間へと持っていく。

 ちゃぶ台に並べ、いつもより遅い夕食をいただく。

 待っていました、と言わんばかりに幸助は早速、味噌汁を口に運んだ。出来たてで温かいものが好みの幸助は、少し不服そうな顔をした。

 美鈴も味噌汁を吸う。

 ほかほかと湯気が立っていた味噌汁はすっかり冷えてしまっているが、美鈴の心がぽかぽかと温かいからか、出来たてのように熱々のような気がした。

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