二話
また鈴子の夢を見て、美鈴は目を覚ました。思った通り、鈴子の夢を見てしまった。
涙を拭って上体を起こす。布団から出て着替え、一日を始める。
朝食を食べる。
食器を洗う。
洗濯物を干す。
いつも通りの生活。
だが今日は、いつもとは違うことがある。昼前から来客があるのだ。美鈴は着慣れた質素な普段着から、華美な一張羅に着替えた。
居間へ行くと、休日なのに、仕事用のような上等な背広を着ている秀嗣がいた。美鈴は秀嗣の隣に腰を下ろす。
訪ねてくる客は秀嗣の友人夫妻と、その次男だ。美鈴はその次男と婚約している。今日は顔合わせなのだ。
家族以外の誰かがいると喋れない美鈴は、結婚なんてとてもできないと思っていた。ご縁に恵まれない家だって、喋れない自分を嫌厭するだろう。
独り身で生きようにも喋れないから、外で電話交換手やカフェーの給仕などでは働けない。養ってくれている秀嗣がいなくなれば、生活は立ち行かなくなる。いつか訪れる将来に不安を抱えていたし、それはだんだんと大きくなっていた。
そんな美鈴のところに、秀嗣が縁談を持って帰った。秀嗣の友人、庄司伸親の次男が婿になっていい、と。家族の前以外で喋れない理由は知っているから、気にしないと言ったらしい。
美鈴は仰天した。自分が結婚するのか、と。金銭面での心配は消失した。だが、喋れない自分への嫌悪が大きくなった。
美鈴は秀嗣の顔をちらりと見る。今のところ、肩で息をしていないが顔色は悪い。疲れと、この顔合わせも負担になっているだろうと思う。顔合わせが終わって、心の重りが取れて少しずつ元気になってくれればいいけれど。
「ごめんください」
玄関のほうから、男性の声が聞こえてきた。
「来たな」
秀嗣が腰を上げた。一緒に美鈴も玄関へ行き、客人を出迎える。
三和土に降りた秀嗣が玄関戸を開けた。伸親とその妻が横並びで立っていた。
「いらっしゃい。待っていた」
秀嗣が言ってすぐ、美鈴は無言のまま深くお辞儀する。喋れない分、態度や所作は丁寧にする。
顔を上げた美鈴は夫妻の奥にいる、夫になる男の顔を恐る恐る見る。
庄司千昭。二十五歳、大卒の銀行員だと聞いている。
切れ長の目に通った鼻筋。引き締まった口は品がいい。人目を引く端正な顔をしている。細身で背も高く、背広がよく似合っている。写真で見た通りだ。
目が合った。切れ長の涼しい目をしているが、冷たさではなくどこか温かさを感じた。優しそうな男性だな、と思った。
「さあ、上がって」
秀嗣が庄司家の三人を促し、家に上げた。
「こっちへ」
美鈴は庄司家の三人の後ろを歩いた。千昭の背をちらりと見る。背筋をピンと伸ばして歩く姿が美しかった。
客間へ通す。客間の卓には、五人分の食事が並んでいた。
鰤の幽庵焼き、ワカメの酢の物。他にも天ぷら、筑前煮や汁物。マツと美鈴で作った。普段の食事よりも豊富な品数。まるで高級旅館で提供される食事みたいだ。
美鈴は二人分の料理が置かれているほうに、秀嗣と並んで腰を下ろす。
庄司家の三人も着席し、食事が始まった。
「この幽庵焼き、いい味付けで美味だな」
伸親が言った。
妻が頷く。
「そうね。美味しいわ。これ、美鈴さんが作ったの?」
こくり、と美鈴は頷いた。
「お上手なのね」
照れ隠しするように、美鈴は首を横に振った。家にいてばかりで、他人に褒められることがないから面映ゆい。
「娘は炊事が得意でして。私の弁当も作ってくれるんですよ」
秀嗣がすかさず言った。喋れないけれど、優れているところがあると示すためだろう。
「あら、いいですわね」
会話が飛び交う食事が終わり、「二人で話してみるといい」と、美鈴は千昭と二人きりにされた。
異性と二人きりになったことなんてないから緊張する。落ち着かなくて、しきりに卓下に置いてある筆談道具の鉛筆を触ってしまう。
「美鈴さん」
と、千昭が静寂を破った。美鈴は顔を上げる。目が合って心臓がどきりと跳ねる。
食事中、千昭は口数が少なかった。そんな彼はどんな話をするのだろう。
「俺はまだまだ未熟者ではありますが、どうかよろしくお願いします」
そう言って座礼した千昭に、美鈴は目を瞬かせる。
そしてすぐに美鈴も額を畳にくっつけ、土下座のような座礼をする。
喋れない自分のところへ婿に来てくれるのだ。よろしくお願いします、と言わないといけないのはこちらのほうだ。
互いに顔を上げる。
千昭が朗笑した。
「ご馳走、どれもおいしかったです。料理、お上手ですね。すっかり胃袋を掴まれてしまいました」
美鈴は熟れすぎたリンゴのように頬を赤らめる。全身もカッと熱くなった。熱湯に浸けたあとのように熱を持った手を動かし、卓下から筆談道具を出して、鉛筆を走らせる。
書いて千昭に見せる。
『ありがとうございます。お世辞でもとても嬉しいです』
「お世辞なんてないですよ。俺の本心です」
沸騰したお湯を直接体内に入れたみたいに、美鈴の体はさらに熱くなった。
「お菜は何でも作れるんですか?」
『和食の大半なら作れます』
「それはすごいですね」
千昭が感心してくれている間に、美鈴は訊きたいことを書く。
『千昭さんは何が好物ですか?』
「きのこの炊き込みごはんが好物ですね」
『味付けや食材、千昭さんが好きなものを詳しく教えてください』
きのこの炊き込みごはんと一口に言っても、味付けや入っている食材の種類は、家庭によって異なる。立花家はしめじの炊き込みごはんが定番だ。
「味は醤油味濃いめが好みで、きのこはしいたけ、しめじ、平茸を入れてほしいです。しいたけがたくさん入っていると嬉しいですね」
千昭の好みは、立花家のものと全く違う。一度、作ってみなくては。
『千昭さんの口に合うものを作れるようになっておきます』
「それは楽しみです」
それからは少し、互いのことを教えあった。千昭は、休日は家で読書をしてゆっくり過ごすことが多いらしい。美鈴は、時折遊びにやって来る鈴世と過ごす時間が好きだと教えた。
一時間ほど経った頃、秀嗣と千昭の両親が戻ってきた。
そして庄司家の三人は帰っていった。
玄関戸が閉まって、磨りガラスの向こうの千昭の姿が見えなくなると、美鈴は寂しさを感じた。もう彼に慕情を抱いたのだと、自分でもわかった。
美鈴は寂しさを胸に仕舞い、自室に入った。
一張羅から着替えて、居間へ行った。
着替えて茶を飲んでいる秀嗣がいた。美鈴はちゃぶ台を挟み、秀嗣の前に座る。まだ顔色が悪い。要用は終わったから、今晩はぐっすりと眠って、英気を養ってほしいを思う。
湯飲みから口を離した秀嗣が言った。
「千昭くん、どうだった?」
「優しい人で素敵だった」
美鈴は頬をほんのり染めながら言う。
「気に入ったか?」
「……うん」
「それはよかった」
安堵したように、秀嗣が相好を崩した。
「いい人を婿に選んでくれてありがとう」
「美鈴には幸せになってほしいからな」
感謝の言葉を秀嗣に言うと、いつもこう言ってくれる。父はいつ何時も、自分の味方でいてくれ、母からもらえなかった分の愛情もたっぷり与えてくれた。感謝してもしきれない。
秀嗣の優しさに包まれ、美鈴の涙腺は刺激される。
「お父さん、ありがとう」
嬉し涙を見られないよう、美鈴は逃げるように居間を出た。
涙を拭い取って台所へ入り、マツと夕食の支度を始めた。
「食事、おいしかったって」
「それはよかった」
マツは包丁を動かしながら、満足そうにニコニコと笑った。
「ねえ、お祖母ちゃん。明日はきのこの炊き込みごはんを作ろう」
「ああ、いいよ」
「いつもうちで作ってるのじゃなくて、醤油の味濃いめで、しめじ、平茸、特にしいたけを多めに入れたものを作りたい」
「うちのとはえらい違うものを作るんだね」
「……千昭さんの好物なんだって」
千昭のことを思い出しながら、ぼそりと言う。
「あら」
マツがにやりと笑った。浮かれていると思われたみたいで、何だか美鈴は恥ずかしくなった。顔を赤くし、首をすくめる。
「それなら上手に作れるようになっておかないとね」
美鈴の気持ちを察したように、マツが言ってくれた。
「……うん」
美鈴は小さく頷いた。
いつも通りの和やかな夕食中。突然、雷に打たれたような強い衝撃が居間に走った。秀嗣が箸を落とし、胸を押さえて苦しそうにうめきだしたのだ。
「お父さん!」
美鈴は茶碗を置き、秀嗣の顔を覗き込む。一日中、青白かった顔は紙のように真っ白になっていて、額には冷や汗が浮いている。
「秀嗣、秀嗣! どうしたの⁉」
マツは顔面蒼白になり、激しく秀嗣の肩を揺さぶる。完全に取り乱している。
「揺らすな!」
幸助が慌てて、マツの手を引き剥がす。動揺しているだろうが、冷静さを保っている。
「医者を呼んでくる。寝かせておいてくれ!」
幸助は言い、居間を飛び出していった。
美鈴は秀嗣を仰向けに寝かせる。袖で額に浮かぶ汗を拭ってやる。だがすぐに次の汗がじわりと出てくる。
「ああっ、秀嗣……」
秀嗣の顔の側に座るマツは、背を丸めて自身の顔を手で覆っている。小さな体が、一段と小さく見える。
秀嗣のうめき声がだんだん弱くなる。もしかしたら、このまま死んでしまうのかもしれない。そんな最悪なことが思い浮かぶ。
「お父さん、しっかりして!」
言う美鈴の目には、涙が浮かび上がる。今にも滴って、秀嗣の上に落ちそうだ。
秀嗣の呼吸音が弱くなると、変わりに美鈴の心臓が激しく脈打ち出す。自分の体の中で響く心音がうるさくて、秀嗣の呼吸音が聞こえなくなる。落ち着けと思えば思うほど、心臓は思いを無視する。
幸助が、近所に住む医者を連れて戻ってきた。老体に鞭を打って走ってきたようで、二人とも肩で息をしている。
医者は呼吸を整えないまま、秀嗣の側に腰を下ろした。
秀嗣の胸の動きがぴたりと止まった。涙で歪む美鈴の視界でも、それははっきりと確認できた。
お父さん、と呼びかけたいのに医者がいるから声が出せない。頑張って出そうと思っても、喉に石が引っかかっているみたいで無理なのだ。
「ご臨終です」
医者は静かにそう言った。
美鈴の頭は、目の前の事実を受け入れることを拒否していた。だが耳が医者の言葉を拾い、事実を頭に送り込んできた。
お父さんが死んだ……。
目に留まっていた涙が、堰を切ったように溢れ出してくる。瞼を下ろし、ぴくりとも動かない秀嗣の姿が、何重にも見える。
「いやーっ! 秀嗣!」
秀嗣の腹に縋るマツの悲痛な叫びが、居間に響き渡る。幸助は唇を痙攣のように小刻みに震わせながら、静かに涙を流した。
秀嗣は五十一年の生涯にそっと幕を下ろした。死因は心臓麻痺だった。




