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一話

「お母様!」

 少ししゃがれた声をした幼女が、無邪気に母の背に声をかけた。

 振り返った母は美しい顔から表情を消し、幼女を見返した。

「汚い声。私の前では喋らないでくれる?」

 きつい言葉を言い放った母の声はかすれも何もなく、ただ澄んだ美しいものだった。

 幼女はあ然とし、何も言い返せなかった。母が背を向ける。遠ざかっていく母の背は、涙のせいで歪んで見えた。


 またこの夢を見ていたんだ。

 立花(たちばな)美鈴(みすず)は、うっそりと瞼を開いた。ぽろりと、目頭から涙がこぼれ落ちる。頬を流れる涙は温かかったが、美鈴の心を冷たくする。それを指で拭って、ゆっくりと上体を起こした。

 夢は、二十一年前、三歳のときの出来事だ。あの日のことは、頭の奥底にこびりついているのだろう。何度も何度も夢に見る。もう何度見たのか覚えていない。そして、この夢を見ていたときは必ず泣いている。

 この夢、もう見たくないのにな。

 ふっとため息をつき、布団から出た。寝間着から着替え、自室を出る。

 涙を洗い流して、台所に向かう。

 しゃりしゃりと小気味よい音が聞こえてくる。台所では、祖母のマツが米をといでいた。

「お祖母ちゃんおはよう」

 台所に入りながら、母に汚い声と言われたときよりもハスキーになった声で言う。マツが手を止め、振り返った。

「おはよう。美鈴」

 マツはにこやかな顔で言うと、すぐに前を向いた。

 美鈴は氷冷蔵庫から鰯を取り出し、マツと肩を並べた。朝食と、父に持たせる弁当を作る。

 二十一年前、両親が離婚した。それから美鈴は、大学教授の父、秀嗣(ひでつぐ)と、父の実家である立花家に戻ってきて暮らしている。

 離婚の原因は美鈴だ。母に「私の前で喋らないでくれる?」と言われてから、美鈴は『自分は汚い声なんだ』と自覚し、人前で喋るのが怖くなった。

 突然、無口になった娘に秀嗣が気づいた。そして訊かれた。「どうして喋らなくなったんだ?」と。喋るのは怖かったけれど、美鈴は頑張って母から言われたことを話した。秀嗣は大激怒し、母に詰め寄った。二人の言い争う声は、屋敷中に響いた。もちろん、美鈴の耳にも届いた。私が汚い声をしているから……。美鈴は布団にくるまり、涙を流した。

 それからすぐ、両親は離婚した。美鈴が秀嗣と借家を出るとき、母はいやらしいほど口角を上げてほくそ笑んでいた。それが最後に見た母の顔だ。

 父方の祖父母、幸助(こうすけ)とマツは、わんわんと子どものように泣きながら、美鈴のことを迎え入れてくれた。マツは美鈴を抱擁し、頭を撫でながら「私たちの前ではたくさん喋ってね」と言ってくれた。だが、美鈴はなかなか喋れなかった。

 祖父母の前で喋れたのは、一ヶ月後だった。祖父母は手を叩いて喜んだ。そして、「かわいい声だね」と言った。美鈴は三歳児ながら、自分を喜ばせ、安心させるために言ってくれたのだとわかった。それでも、心の奥底から喜びを感じた。

 秀嗣と祖父母の前では喋れるようになったが、他人の前では喋れなかった。学校でも喋らないから、「変な子」と白い目で見られて、友だちはできず一人ぼっち。でも、声を聞かれて「汚い声」と言われるよりましだった。

 二十四歳になった今でも、美鈴は秀嗣と祖父母の前でしか喋れないままだ。そのことを家族は全く責めてこない。「心にできた深い傷だから」と擁護してくれるのだ。

 朝食の準備が終わった。作ったものを、マツと一緒に居間へ運ぶ。

 居間では、ちゃぶ台の前に座る秀嗣と幸助が、それぞれ新聞を読んでいた。だが、美鈴とマツに気がついたようで顔を上げた。

「お父さん、お祖父ちゃん、おはよう」

 おはよう、と二人から返ってきた。

 朝食を食べて少しして、秀嗣が家を出る。美鈴はそれを見送っている。

 上がり框に腰かけて革靴を履く秀嗣の背を見つめる。

 肩が大きく上下に動いている。聞こえる呼吸音も短く激しい。秀嗣は最近、平常時でも肩で息をしていることが多い。息苦しいのだという。今日はやけに酷い。

「お父さん、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

 言いながら秀嗣は立ち上がり、振り返った。何だか顔色も、朝食を食べていたときより青白い気がする。

「最近、忙しいから疲れが溜まっているのかもしれない」

「あまり無理しないでね」

 美鈴は鞄を差し出す。秀嗣はそれを受け取り、

「ああ」

 と、美鈴を安心させるように笑みを見せながら頷いた。けれど美鈴には秀嗣の顔が青白く見えるから、安心できなかった。

「じゃあ、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

 秀嗣は美鈴に背を向け、出て行った。横引きの玄関戸がぴしゃりと閉まってから、美鈴は家の中を振り返った。倒れなければいいけど、と思いながらマツの元へ行く。

 一緒に食器を洗い、洗濯物を干して一息ついてから、買い物に出た。明日来る客人をもてなすための料理の材料を買いに行く。

 どこからか、鳥のかわいらしいさえずりが聞こえてきた。

 美鈴はふと、空を見上げる。霞がかかって、ぼやっと鮮明ではない青空。柔らかな日差しをもたらすお天道様。

 視線を下ろせば、今日の日差しのように柔らかな表情をした人々が目に入る。

 世の中は春真っ盛りなのだ。寒々しい冬が完全に過ぎ去り、人も自然も華やぐ春だ。

「美鈴」

 と、マツに声をかけられた。

「見て」

 マツが指さす先に視線をやる。美鈴は、はっと息を呑んだ。

 咲き乱れる、薄紅色の小さな花弁に目を奪われる。毎年見ている光景だが、何度見ても心を揺さぶられる。

 川べりの桜の木は、満開になっていた。昨日はまだ満開ではなかった。この温かい日差しで、残りが一気に花開いたのだろう。二人の少女が駆けてきて、「満開だー」「すごーい」と、橋の欄干に手をかけ、身を乗り出す。

「きれいだね」

 恍惚とした顔でマツは言った。目を細めているから、目尻にある皺が濃くなっている。

 美鈴はこくんと頷く。外に出ると、一言も喋れなくなってしまう。誰も、見ず知らずの女に向かって「汚い声」と言ってこないと思うが、どうしても無理なのだ。

 ふーっとため息をついたマツの目尻の皺が、さらに濃くなった。

「来年は見られないかもしれないね……」

 七十四歳のマツ。六十五歳を過ぎてから、季節の風物詩を見る度に、弱々しいことを口にするようになった。マツは持病も体の悪いところもなく元気だ。だが最近は、同年代の知り合いが亡くなることが増えたから、言う頻度が増えた。自分もあの世に逝く日が近いかもしれないと思っているのだろう。

 美鈴は、くん、とマツの着物の袖を引っ張った。

 マツが美鈴を見る。

 美鈴は口をへの字に曲げて、マツを見返す。

 そんなこと言わないで。

 心の中で言いながら、首を横に振る。マツは自分の祖母だが、母親でもあると思っている。そんな大切な人には、少しでも元気で長生きしてほしい。

 美鈴の気持ちが伝わったのか、マツは申し訳なさそうに肩をすくめた。

「ああ、また言ってしまったね。ごめんね。一日でも元気で長生きしないとね」

 うんうん。そうだよ。

 美鈴は小刻みに頷く。

 それから少し、二人で桜を眺めてからその場をあとにした。

 商店街に入った。八百屋、魚屋、豆腐屋に酒屋といった食品を扱う店の他に、洋服屋や金物屋、理髪店だってある。この商店街に来れば、生活必需品のたいていは揃うから、困ることはない。

 買い物客と商人の声で賑わう商店街を歩く。レコード屋の窓にポスターが貼られていた。美鈴はポスターをちらりと見た。

 西洋のドレスに身を包んだ美しい婦人の絵が描かれている。昨日は貼られていなかった。

 叶井(かない)鈴子(すずこ)

 その名前を見た途端、美鈴の足の裏は地面に張りついたみたいになり、動けなくなった。体がわなわなと震え出す。そして喉を内側から掴まれて締め付けられる感じがした。苦しくなって、ポスターから目をそらす。

 鈴子はソプラノ歌手だ。歌声が美しく澄んでいるから、「大正のカナリア」と称されている。そして美鈴の母親だ。大正のカナリアと称されるほど、美しい声を持っているからこそ、自分の産んだ美鈴がしゃがれた声をしている気にくわなかったのだ。

 震える美鈴に気がついたマツが、美鈴とポスターの間に入った。

「早く行こう。ね?」

 マツは心配そうな顔で美鈴を覗き込み、背中に手を回した。優しく背中を押される。

 マツのおかげで、美鈴の足の裏はようやく地面から離れ、歩けるようになった。体の震えと喉の締めつけが、だんだん消失していく。

 今朝、母の夢を見て目覚めた。

 明日の朝も、同じ夢を見て目を覚ますんだろうな。美鈴は俯き、深いため息をつくのだった。

 美鈴が顔を上げるまで、マツは背中をさすり続けてくれた。

 少し遠くなるが、帰りはレコード屋の前を通らない道から自宅に戻った。鈴子のポスターが剥がされるまで、あの道は通らないようにする。

 昼食を食べ、乾いた洗濯物を畳んだ。居間で茶を飲んでいると、

「こんにちは!」

 玄関の方から、鈴を転がしたような美しい声が聞こえてきた。美鈴は急いで玄関に向かう。

 玄関戸を開け、美しい声の主と対面する。

「お姉様、遊びに来ましたよ!」

 太陽のように眩しい屈託のない笑顔の少女。異父妹の叶井鈴世(すずよ)だ。鞄を持って袴を履いているから、学校帰りのようだ。また、送り迎えをしてくれている使用人に駄賃を渡して、待たせているのだ。

 鈴世は十八歳。東京音楽学校に通い、声楽を学んでいる。鈴子は、鈴世に自分と同じソプラノ歌手になるよう強いているのだという。鈴世自身も、歌うのは楽しいから嫌ではないらしい。

 美鈴はにこやかに笑い、玄関正面から一歩下がり、家に入るよう鈴世を促す。

「お邪魔します」

 と、鈴世が家の中に入ってくる。

 美鈴は縁側へ繋がる廊下を指さす。鈴世はそちらに向かって歩いて行った。

 美鈴は鈴世と一緒に縁側ではなく、台所へ向かう。自分と鈴世の茶を淹れるのだ。

 湯を沸かしている合間に、美鈴は自室に入った。

 机の引き出しを開け、ノートと鉛筆を取り出す。鈴世の前でも、もちろん喋れない。筆談をするための必需品だ。

 鉛筆をノートに挟み、自室を出て台所へ戻る。

 盆に二つの湯飲みを載せ、筆談道具を脇に挟んで縁側に行く。

 足音で美鈴に気がついたのか、空を眺めていた鈴世が振り返った。

「早く~」

 と、急かされる。

 美鈴は鈴世の隣に腰を下ろし、茶を出した。

 鈴世がニコニコしながら、紙袋に手を突っ込む。そして、取り出したものを美鈴に差し出した。

「今日はどら焼きを買ってきました。はい。お姉様」

 美鈴は頭を下げながら、差し出されたどら焼きを受け取る。鈴世は訪ねてくるときは、必ず菓子を持ってくる。それを食べながら、鈴世の話を聞き、筆談で返すのがお決まりだ。

「さっそくいただきましょう」

 鈴世が一口食べてから、美鈴はどら焼きを口に運んだ。皮はしっとりとしていて、よく噛めば甘みを感じる。中のあんこは甘さ控え目で重すぎない。ちょうどいい塩梅で実に美味だ。

「おいしいですね」

 言われて、美鈴は頷く。

 鈴世の顔を見ると、口の端にあんこがついていた。美鈴は自分の口の端を指し、教えてやる。

 口の端を拭い、白くて細長い指先についたあんこを見た鈴世が、恥ずかしそうにはにかんだ。

「教えてくれて、ありがとうございます」

 清楚。可憐。上品。鈴世は、令嬢を褒めるときに使う言葉がぴったりな、かわいい妹だ。

 鈴世は、八年前に突然訪ねてきた。

「あなたが私のお姉様なのね!」

 と、目を宝石のようにキラキラと輝かせる鈴世から言われ、美鈴は戸惑った。

 鈴子とはもう縁を切ったようなものだから、自分に妹ができていたなんて全く知らなかった。

 母とそっくりな美しい声。美鈴が持っていないものだ。華美な着物を身にまとっているから、寵愛を受けていることを直感した。

『あなたとは違う、美しい声の娘よ』

 借家を出ていくときに見たのと同じ顔をした母の影が、鈴世の背後に見えた。

 恐怖で美鈴の体は震えた。鈴世は自身の美しい声を聞かせに来て、汚い声をした自分のことを笑いに来たと思った。だから背後に母の影が見えるのだ。

『同じ母をもっていても、私はあなたを妹だとは思わないし、関わりたくありません。もう訪ねてこないでください』

 美鈴はそう紙に書いて見せて、鈴世を追い返した。拒絶を突きつけられた鈴世は、唇を突き出してしゅんとし、泣きながら帰って行った。

 泣き顔を見て、心はちくりと痛んだ。十歳の少女には酷な言葉だと思ったが、美鈴はどうしても母の影が見える鈴世と関わりたくなかったのだ。

 だが鈴世は翌日も訪ねてきた。「どうしてもお姉様と仲良くなりたいです」と。

 真っ直ぐ澄んだ目で見つめてくる鈴世の背後に、母の影は見えなかった。

 美鈴は気がついた。母にそっくりな声を聞いたから、頭が母のことで支配された。だから純真な気持ちで自分に会いにきた十歳の妹の背に、勝手に母の影を見ていたのだ。

 美鈴は鈴世の手を引き、三和土に入ってもらった。少しだけ、話してみようと思ったのだ。

「ありがとうございます!」

 鈴世は飛び跳ねて喜んだ。そして美鈴に抱きついた。案外力強い抱擁に、美鈴は心が温かくなるのを感じた。

 居間には幸助とマツがいるから、縁側へ連れて行った。並んで腰を下ろす。友だちがいないから、誰かとこうして肩を並べて座るのは初めてだった。少し緊張して、ドキドキと心臓が脈打ちだす。

 妹と過ごした初めての時間は、緊張でほぼ覚えていない。その中で二つ、鮮明に覚えているものがある。

 一言も喋らない自分のことを、鈴世が白い目で見なかったこと。皆がしてくることを、鈴世がしてこなかったのが嬉しかった。

 それともう一つ。

「またお姉様に会いにきてもいいですか?」

 帰り際、鈴世が言った。

 美鈴は少し間を置いて首を縦に振った。彼女とはまた会ってもいいと思えた。

 それから鈴世は、鈴子に秘密で月に三回は遊びに来るようになった。いつしか美鈴も、妹の来訪が楽しみになったのだ。それは今でも変わっていない。

「お姉様は、川べりの桜を見ましたか?」

 美鈴は頷き、鉛筆を走らせる。

『今日見ました。満開でとてもきれいだった』

「ねー、きれいでしたよね。でもすぐ散ってしまうところが、残念ですよね。春の間はずっと咲いていればいいのに」

『儚いからこそ、人々を魅了するのだと私は思う。ずっと咲いていたら、いつしか誰も気に留めなくなるんじゃないかな』

 風が近所の桜から、花びらを一枚運んできた。鈴世の側に舞い落ちる。それを鈴世は拾い上げ、手のひらに載せた。薄く繊細な薄紅色の花びらをしげしげと見つめると、ふふっと笑った。

「それもそうかもしれませんね」

 そして息を吹きかけて、宙に吹き飛ばした。ひらりひらりと、舞うように地べたに落ちた。

「ゴホンゴホン」

 明らかに作った咳が、塀の向こうから聞こえてきた。

 それを聞いた鈴世がふっとため息をつく。

「今日は早いわね」

 この咳は、鈴世が待たせている叶井の使用人のもの。『もう帰りますよ』という合図なのだ。前は一時間くらいここで喋っていたが、最近は三十分もしないうちに使用人が咳をする。もう少し話したいと思うが、あちらにも都合があるだろうから仕方がない。

「駄賃をもう少しあげたほうがいいのかしら」

 鈴世はこぼしながら、腰を上げた。

 美鈴も腰を上げ、一緒に玄関に行く。

 上がり框に座って靴を履いていた鈴世が立ち、振り返った。

「じゃあね。お姉様。また来ますから」

 そう言って、手を振ってくる。美鈴も手を振り返す。

 鈴世は美鈴に背を向けるとき、今生の別れのような顔をする。そんなところもかわいいと思う。

 玄関戸が優しくゆっくりと閉まった。磨りガラスの向こうの影が遠ざかっていく。

 次はいつ来るかな。もう鈴世の来訪を待ちわびながら、美鈴は湯飲みと筆談道具を取りに縁側に向かうのだった。

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