十五話
日曜日の午後。
「ごめんください」
聞きなじみのない男の声が、玄関先から聞こえた。
「はい」
美鈴は玄関戸を開ける。戸の向こうにいたのは鈴子の夫だった。
まさか鈴子に命令され、佳乃を連れ帰るために来たのか。美鈴は夫を睨めつけながら、佳乃を隠すように抱く。
「美鈴さん、こんにちは。鈴子の夫の叶井利夫と申します」
美鈴は利夫から視線を外さないよう、首だけで会釈した。少しでも視線を外した隙に、佳乃に手を伸ばされるかもしれない。体格がいい利夫には、美鈴では力で勝てない。掴まれれば、佳乃は連れて行かれる。
「鈴子が二度も大変な迷惑をおかけいたしました」
そう言って利夫は持っていた包みを開けた。中身は包装紙に包まれた箱だった。
「詫びの品を受け取りください」
利夫は献上物を奉るように、恭しく箱を差し出した。
詫びの品とは建前で、佳乃を連れ帰るための金品じゃないか。そう美鈴は勘繰る。
「受け取れません」
突き放すように言うと、利夫の顔に焦りが浮かんだ。
「そうおっしゃらずに、受け取ってください」
「娘を連れ帰るための金品なのでしょう? そんなものは絶対に受け取れません!」
「そんなものではありません!」
利夫は包装紙を破り捨て、箱を開けた。中身は羊羹だった。
「純粋な詫びの品です。どうか受け取ってください」
「いいえ、結構です! お帰りください!」
美鈴の大音声に驚いた佳乃がぐずりだした。
「ああっ、ごめんね。驚かせちゃったね」
「どうした?」
と、千昭がやって来た。利夫を認め、表情が険しくなる。
「叶井さんですよね?」
「はい。叶井利夫と申します」
「どういったご用件でしょうか?」
「鈴子の無礼の詫びをと思いまして。どうか受け取っていただきたいのですが」
利夫は千昭に箱を差し出した。
美鈴は千昭を見る。千昭もこちらを向いた。目が合う。
受け取らないで。
そう目で訴えながら、美鈴は首を横に振る。
箱がじりじりと千昭に近づく。
板挟みの千昭は逡巡ののち、
「ご厚意、頂戴いたします」
と、箱を受け取った。千昭は利夫の目を見て、大丈夫だと判断したのだろう。利夫はほっとしたような顔になる。
「それともう一つ……」
美鈴は身構える。次は何を言うのか。やはり佳乃のことか。
「実は、鈴子はもう長くなさそうなのです」
「えっ……」
美鈴は全身から血の気が引くのを感じた。背には冷や汗がたらりと流れ、心臓もばくばくと脈打ちだす。この世に一人しかいない自分の母だ。いくら嫌いでも死が近いと聞くと、縄で締め上げられたように心は苦しくなる。
鈴子は鈴世の死後、塞ぎ込み、魂が抜けたようになって食事の量が減った。舞台にも立てなくなって引きこもっていた。先週の日曜日、ようやく墓参りのために外に出た。墓地で孫の佳乃の存在を知ってから目がぎらつき、「あの子がほしい」とぶつぶつ独り言を言うようになった。月曜日、利夫が帰宅すると倒れていたらしい。それから、固形物を口にしなくなり、衰弱した。今はもう起き上がるのも困難だというのだ。
「美鈴さんは実娘ですから、伝えておかなければと思いまして」
汚い声の娘が見舞いに行っても嬉しくないと思う。でも最期が近いというのならば……。
「あの、母に会わせていただけますか?」
「ええ、ぜひ会ってやってください。今から一緒に行きますか?」
「はい。お願いします」
自動車に乗せてもらい、美鈴は佳乃を連れて、千昭と共に叶井家に向かった。
三十分ほど揺られて到着した叶井の邸宅は、立派な二階建ての洋館だった。周りは全て背の低い日本家屋。叶井の邸宅だけ、外国から紛れ込んだような雰囲気がある。
家の中に入る。
十人は集まれそうな玄関広間。その先には五人が並んで歩けそうな幅の広い、赤い布張りの階段があった。
「こっちです」
利夫について行き、階段を上る。
よく見ると、階段の所々に赤黒い染みがあった。
美鈴は、鈴世が自宅の階段で転げ落ちて、頭を打って亡くなったことを思い出す。この染みはきっと、鈴世の血だろうなと直感した。
階段を上りきり、右側に伸びる廊下を進む。
幾何学模様が彫られた茶色のドアの前で、利夫は立ち止まった。
「この部屋で横になっています」
利夫がドアを開けた。
「どうぞ、お入りください」
佳乃を千昭に預け、美鈴一人で部屋に入った。
背後のドアが閉まる音がした。
天蓋つきの舶来物のベッドに鈴子は横たわっていた。口内が渇いていくのを感じながら、美鈴は鈴子に近づく。
固形物を食べなくなったその姿は、命が尽きた枯れ木のように細くなっていた。胸の動きも小さくゆっくりだ。
ベッド横の椅子に腰を下ろす。
「お母様」
声をかけると、鈴子は深く閉じていた瞼を持ち上げた。現れた双眸は虚ろで、あの世の入口を見ていそうだった。鈴子は顔を美鈴に向ける。
「……美鈴……」
声は弱々しくてかすれていたが美しかった。
重い沈黙が部屋を満たす。息がつまりそうで居心地が悪いが、美鈴は鈴子と何を話せばいいかわからなかった。
鈴子が、水分を失ってひび割れている唇を動かした。
「美鈴、ごめんなさいね……」
「えっ……」
美鈴はあ然とした。聞き間違いではない。『ごめんなさいね』と鈴子は言った。
鈴子が美鈴の手を握った。骨と皮だけの手は体温をあまり感じられなかった。氷冷蔵庫から出した魚のような冷たさだ。
「カナリアなんてもてはやされだしかから、有頂天になってたのよね。自分のような声質こそ、美しいと勘違いしてたの。美鈴の声、ちっとも汚くないのに……。美鈴の声は……、味のあるいい声だよ」
美鈴の目頭に涙が溜まる。死に前の懺悔だとしても、いい声だと言ってくれたのが嬉しかった。
「お母様、ありがとう」
美鈴は両手で鈴子の手を包んだ。冷たい彼女の手に、自分の体温を分け与える。
鈴子の手に自分の体温が移って、美鈴はふと思い立った。
「ちょっと待っていて」
鈴子から手を解き、部屋の外に出た。
千昭と利夫は、ドアを挟んで壁際に立っていた。
「佳乃を」
千昭に佳乃を返してもらう。部屋に引き返そうとすると、千昭から肩を掴まれた。美鈴は首だけで振り返る。
「連れていかないほうがいいと思うよ?」
「大丈夫ですから」
と、美鈴は再び部屋に入った。
少しの間に、鈴子はまた瞼を下ろしていた。
「お母様」
鈴子は瞼を開ける。佳乃が目に入ったようで、虚ろな目に少しだけ精気が戻ったように見える。
「この子、佳乃を抱いてあげてください」
「……いいの?」
「はい」
上体を起こした鈴子の腕に、美鈴は佳乃を抱かせた。安全だと感じ取ったのか、佳乃は泣かなかった。
鈴子は唇をわなわなと震わせながら、佳乃に頬擦りした。佳乃は嬉しそうに、きゃっきゃと笑った。
「かわいくて温かいね……。生まれたばかりの美鈴を抱いたときのことを思い出すよ」
「私が赤ちゃんのときのことを、覚えてくれているんですか?」
「当たり前じゃない。……かわいくて、仕方がなかったよ。片時も離れたくなくて抱っこできるときは、ずっと抱っこしていた。玉のようにかわいい子って、美鈴のためにある言葉だと思ったくらいだよ」
自分のことをそんな風に思って、愛情を注いでくれていたことがあったなんて知らなかった。赤ん坊の自分を抱いている鈴子の姿を想像する。きっと、佳乃にしているように頬擦りをしてくれていたと思う。
鈴子は深いため息をついた。
「有頂天になっていた自分を怒鳴ってやりたいよ……。『かわいい大切な美鈴を傷つけるんじゃない』って」
「過ぎたことですから、もういいですよ」
「こんな酷い母親を許してくれるの……?」
「はい」
鈴子にかけられた呪いはもう解けている。傷ついていた二十年以上はなくならないが、罪悪感を覚えて謝ってくれたから、もう水に流してもいいと思えた。
佳乃が美鈴の腕に戻ってきた。
「最期に、佳乃を抱かせてくれてありがとう。いい冥土の土産になったよ」
「お母様、そんなこと言わないで、どうか元気を取り戻してください。佳乃の成長を一緒に見守りましょう」
鈴子の頬に涙が流れる。それは顎先から鈴子の手に滴り落ちた。
「そうだね……。佳乃が喋れるようになって、お祖母ちゃんって呼ばれたいよ……」
「もっと成長したら、佳乃と一緒に歌を歌うのはどうですか?」
「それもいいね」
鈴子が佳乃の頭を撫でた。佳乃は今日一番の、笑顔を見せてくれた。




