十四話
月曜日の昼下がり。
「冷たいね」
桶に水を張って、庭で佳乃の手足を浸けてやった。冷たくて気持ちがいいのか、佳乃はきゃっきゃと喜んでいる。
しゃりっと、誰かが砂を踏む音が聞こえた。
顔を上げると、鈴子がこちらに向かって歩いてきていた。
「見つけた」
美鈴は佳乃を抱き上げる。
「お母様……」
やつれた顔に不気味に光る鈴子の目は、佳乃しか見ていなかった。
鈴子がじりじりと近づいてくる。
逃げなければ。
本能がそう言った。でも足が沼にはまったみたいに動かなかった。
鈴子の筋張った手が佳乃を掴んだ。自分のほうに佳乃を引き寄せようとする。
「お母様、何をするんですか!」
佳乃の泣き声が、やかましい蝉の声をかき消す。
「私にその子をよこしなさい!」
「嫌です!」
「母親の言うことは聞くものでしょう!」
「子を渡すなんてできません!」
「奥様、おやめください!」
慌て顔で飛んできた細身で若い男の使用人が腕で鈴子の肩を抱き、美鈴から引き剥がした。
美鈴はその隙に、縁側に上がった。
「放しなさい! その子を連れ帰るために来たのだから!」
鈴子は肩を激しく揺り動かし、使用人を振り払った。
「さあ、早く私にその子を……」
騒ぎを聞きつけたのか、幸助がやってきた。
鈴子はやつれた顔に不敵な笑みを浮べた。
「お義父様、お久しぶりです」
「もう家族じゃないんだ。そんな呼び方しないでいただきたい」
幸助は美鈴と鈴子の間に立った。汚らわしいものを見るような、冷めた目で鈴子を見下ろす。
「即刻帰ってください。あなたは美鈴と佳乃に会う資格なんてない」
「あります。私の娘と孫なのですから」
幸助が右頬だけを歪めて冷笑した。
「幼い美鈴を傷つけておいて、よく言えるものだ」
「私は事実を述べただけです。美鈴が勝手に傷ついただけではないですか」
幸助のこめかみに青筋が浮かんだ。
「ふざけるな!」
美鈴はびくりと肩を跳ね上げる。優しい幸助が烈火の如く、声を荒げるところを初めて見た。
「何が勝手に傷ついただ! 美鈴はあなたのせいで、二十年以上も家族の前でしか喋れなくなっていたんだぞ!」
「確か、『私の前で喋らないで』と言っただけです。他者の前で喋れなくなったのを私のせいにされても」
怒りで赤くなっている幸助の拳が、ぶるぶると震えだした。鈴子に一歩近づき、その拳を開いて頭上に振り上げた。
美鈴は声を張った。
「お祖父ちゃん、やめて!」
震えていた幸助の手が、固まったように止まった。鈴子に向かって振り下ろされることなく、手はゆっくりと体の側面に収まった。いくら憎くても、手をあげるのはまずい。それに、幸助が人を打つところなんて見たくない。
「もう訪ねてこないでいただきたい!」
幸助が飛ばした口角泡が、鈴子の頬についた。
「汚いわね……」
鈴子は幸助を睨めつけながら使用人の腕を掴み、彼の背広の袖で頬の唾を拭った。使用人は顔をしかめた。
幸助がガラス戸を閉めだす。
「奥様、帰りましょう」
使用人が鈴子の腕を引いた。だが鈴子はそれを振り払った。
「どんな手を使っても、その子を私のものにしますから!」
そう吐き捨て、地団駄を踏むように歩き、庭から姿を消した。
力が抜けた美鈴は、その場に座り込む。たった数分の出来事だったが、極度の疲労を覚えた。
「佳乃。怖かったな」
戸を閉め終えた幸助が、泣き叫ぶ佳乃の頭を撫でた。さきほどまでの剣幕はもう消えている。
美鈴があやせないから、幸助が佳乃を抱っこした。
「よーしよし。お前を攫おうとした鬼婆はもう帰ったぞ。安心しろ」
上下左右に佳乃を揺らしてあやす。
揺れが心地よくて安心したのか、佳乃は泣き止み、落ち着きを取り戻した。
美鈴は、幸助から佳乃を返してもらった。頭を撫でると、佳乃はにこりと笑った。
昨日今日で、佳乃に、体験しないでいい怖い思いをさせてしまった。
「ごめんね。怖かったね」
頬擦りをする。涙でしっとりとした佳乃の頬は、風呂上がりのように熱を帯びていた。
「鈴子さん、家の中に侵入して佳乃を連れていくかもしれない。絶対に佳乃から目を離さないようにしよう」
「うん。この子は私と千昭さんの子だもん。お母様には絶対に渡さない」
美鈴は佳乃をぎゅっと抱く。
佳乃から目を離さないのはもちろんのこと。そして昼間でも玄関と窓に鍵をかけて過ごした。




