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十三話

 佳乃が生まれてから慌ただしくて、時の流れをあまり気にしていなかった。気がつけばもう七月の下旬になっていた。

 鈴世の来訪が、ぱたりと止まっていた。桜を見に行った日を最後に、もう四ヶ月近く来ていない。

 美鈴は原因を考える。

 学業が忙しいのだろうか。出産したばかりの自分を気遣っているのだろうか。それとも鈴子にここに来ていることを知られ、訪ねることを禁止されたのだろうか。理由はたくさん思い浮かぶ。

「佳乃も鈴世お姉ちゃんに抱っこしてもらって、お歌を聞きたいよね」

 佳乃の餅のように柔らかい頬をつんと触る。佳乃はにこりと笑った。

「美鈴~」

 と、マツが居間に顔を出した。

「買い物に行こうよ」

「うん」

 佳乃も連れて、三人で買い物に出た。

 佳乃を抱いているから、美鈴は荷物なんて持てない。でも買い物に連れられるのは、マツが佳乃を店主たちに自慢したいからだ。毎日毎日、「この世で一番かわいいひ孫」と行く先々で言っている。店主たちは「そうですね」と必ず言う。だが、内心では飽き飽きしていると思う。

 日差しが佳乃の白い頬を赤くする。紅を塗ったみたいでかわいい。でも佳乃は暑いと感じているはずだ。なるべく早く帰らないと。

 目的の豆腐屋と魚屋と八百屋にだけ寄って帰宅していると、こちらに向かって歩いている中年男性に、美鈴はあっと思う。彼のことをよく覚えている。鈴世から小銭をもらってにやりとしていた使用人だ。

「あの」

 声をかけると、男性は足を止めた。

「叶井の使用人の方ですよね?」

「ええ、そうですが。失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 彼はこちらのことを覚えていないようだ。

「立花です。鈴世の異父姉の」

「ああ、立花さんですか」

「鈴世はどうしていますか? 元気ですか?」

 美鈴が訊くと使用人は顔の影を濃くし、美鈴から目をそらした。そしてゆっくりと口を開いた。

「鈴世お嬢様は……、亡くなりました」

 殴られたような強い衝撃が美鈴の体に走った。煙に覆われたみたいに、目の前が暗くなる。

「亡くなった……?」

「はい」

「どうしてですか……?」

 訊いた美鈴の声は震えた。鈴世は、持病はなかったはずだ。健康な十代の命を奪った原因は、いったいなんだ。もしかして秀嗣と同じ心臓麻痺か。

「三ヶ月前、屋敷の階段で足を踏み外して転げ落ち、頭を強打して……」

「そんな……」

 美鈴はその場に膝をつき、泣き崩れる。

「鈴世……」

 地べたに膝をついて人目を憚らずに泣く美鈴を、通行人たちは横目に通り過ぎて行く。

「どうしたんだろう?」

「さあね?」

 頭の上を声が通り過ぎる。

 舌打ちと、

「邪魔なんだよ!」

 と聞こえたが、美鈴は立てなかった。鈴世がいなくなった悲しみが、美鈴を地べたに縛りつける。

「美鈴……」

 マツが背をさすってくれた。そして立たせてくれた。

 美鈴は洟を啜り、涙を拭って使用人を見た。

「お墓参りに行きたいので、場所を教えていただけますか?」

「はい」



 翌日の日曜日。

 休日の千昭と一緒に墓地へ赴いた。ちょうど今日が月命日らしい。

 使用人に教えてもらった墓にたどり着いた。

 この中に鈴世が眠っているんだ。

 鈴世の墓は、周りのものに比べると一回り大きくて立派なものだった。

 仏花は夏の太陽に焦がされ、干からびていた。

 千昭に佳乃を抱いてもらって、美鈴は持ってきた花を供える。そして手を合わせた。

 鈴世。どうか天国で、あなたの美声を響かせてください。

『わかったわ。お姉様』

 そんな声が聞こえたような気がした。

 佳乃を返してもらい、今度は千昭が手を合わせる。

 千昭もお参りも終え、帰ろうとしていると、横から声をかけられた。

「鈴世のご友人ですか?」

 体格がよく、彫りの深い渋い男性が立っていた。知らない人だ。でも鈴世の父親だろうと思う。

 彼の背後の、日傘をさしている女性に、美鈴の心臓はひゅっとなった。

 頬はぼっこりとへこみ、死んだ魚のような目をした鈴子だった。ポスターに描かれていた美しい婦人の姿は見る影もない。

「お母様……」

「美鈴……」

 言った鈴子は顔をしかめた。

「声の汚さが増したわね。耳障りだわ」

「失礼なことを言うんじゃない」

 夫がぴしゃりと言った。そして「申し訳ございません」と美鈴に頭を下げた。

 喉に石が現れかけたが、美鈴は喉を動かして阻止した。

 鈴子の視線が佳乃に滑った。驚いたように、目を瞬かせる。

「女の子……」

 そうつぶやいた瞬間、鈴子の目が、草むらに身を潜め、虎視眈々と獲物を狙う獣のような鋭いものになった。狙いを定めたようで、鈴子は日傘を投げ捨てて美鈴に飛びかかった。

「その子、私の養子にするからよこしなさい!」

 鈴子が美鈴の腕から、佳乃を奪い取ろうとする。すやすやと眠っていた佳乃は目を覚まし、泣き始めた。墓地のひそやかな空気を、雷鳴のような泣き声が切り裂く。

「やめてください!」

 美鈴はしゃがみ、佳乃を取られないよう体を丸める。

「あなたが育てたら、あなたと同じ汚い声になる! 早く私に! 私が育てれば、きっとその子は……」

 千昭が鈴子の手首を掴む。

「お義母さん乱暴はやめてください!」

「鈴子! やめろ!」

 夫が、美鈴から鈴子を引き剥がした。

 千昭は美鈴の肩を横から抱き、鈴子を睨めつけた。

 鈴子は夫の腕の中で身をよじって暴れている。

「私にその子をよこしなさい! きれいな声に育ててソプラノ歌手にするから!」

「早くここを離れてください! 鈴世のお参りありがとうございました」

「美鈴さん、行こう」

 千昭が美鈴を立たせる。美鈴は泣き叫ぶ佳乃をさらに強く抱いた。

「待ちなさい! 美鈴!」

 背後から鈴子の声が聞こえる。甲高い声は槍のように耳を貫いた。

 急ぎ足で墓地を出て車に乗り込む。

 ドアを閉めたのとほぼ同時に、

「早く出してください」

 千昭が運転手に言った。

「ああ、はい。かしこまりました」

 車は発進した。ひとまず墓地を離れられて安堵する。

「あー、よしよし。怖かったね」

 どれだけあやしても佳乃は泣き止まない。

 閉ざされた狭い車中。佳乃の泣き声は反響し、外よりも酷く大きく聞こえる。騒音と変わらない。

 運転手が辟易としたため息をついた。他人の子どもの泣き声など、うるさくてたまらないだろう。

「うるさくてすみません」

 千昭が言った。

「いいですよ。赤ちゃんは泣くのが仕事ですから」

 と、運転手は言ったものの、斜め後ろから見える顔はうんざりとしていた。

 佳乃は車中で泣き止まなかった。家に帰りつき、ようやく泣き止んで眠ってくれた。

 佳乃の寝顔を見ながら、鈴子の顔を思い出す。精気の抜けた顔は恐ろしかった。喋れるようになって見なくなったあの夢を見る気がする。鈴子の顔は上書きされ、今日見た顔になることだろう。

 その晩、美鈴は夢を見た。

 思った通り、若かった鈴子の顔が昨日のものに上書きされていた。

『汚い声』と言われた。けれど、起きたとき涙を流していなかった。

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