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十六話

 佳乃がつかまり立ちをするようになった頃。

「ごめんください」

 と、カナリアのような美しい声が立花家に響いた。

 美鈴は玄関へと足を運んだ。

 彼女の来訪を心待ちにしていた。

 細い影が浮かぶ磨りガラスの戸を、思い切り開ける。寒風が家の中に吹き込んだ。

「お母様、いらっしゃい」

「あなたと佳乃に会いにきたわ」

 生きたい、と思う気持ちが強かったようで、鈴子は死の淵から復活したのだ。やつれていた頬はふっくらと肉感を取り戻し、ポスターに描かれていた頃に近い姿に戻っている。今では舞台にも立って、カナリアと称される美声を聴衆に聴かせている。

美鈴も先月、初めて鈴子の歌を聴きに行った。心が浄化されるような美しい歌声に、思わず泣いてしまった。

「佳乃はお祖母ちゃんと座敷にいます。早く会いに行ってやってください」

「佳乃に会う前に、幸助さんに会わせてくれるかしら?」

「ええっ、はい。お祖父ちゃんは居間にいます」

 美鈴は、家に上がった鈴子を居間へと連れていく。夏に言い争った二人だ。会って大丈夫なのかと思う。

 居間の出入り口の襖を開ける。

 幸助がこちらを向いた。美鈴の背後の鈴子を認めたようで、顔をしかめて視線をそらした。

 鈴子は居間に入り、幸助の正面に正座した。

 幸助は顔を背け、見下したような視線だけを鈴子に投げる。

「何でしょうか?」

 声は視線以上に冷たい。まるで手足がかじかむ、今日の空気のようだった。

「夏はたいへんな無礼を働きました。申し訳ございません」

 鈴子が座礼した。誠心誠意、心がこもった美しい礼だ。

 幸助が眉をぴくりと動かした。背けていた顔を、鈴子のほうに向ける。だが、視線は冷めたままだ。

 鈴子が顔を上げた。幸助の目を真っ直ぐに見つめる。

「二十二年前の私は美鈴のことを否定し、深く深く傷つけてしまいました。母親失格だと思っています」

「今さら思っても、遅いんだよ」

 呆れたように幸助は言った。

「重々承知しています。なので私は、残りの人生を使って美鈴に償いたいと思っています」

「具体的に?」

 鈴子は唇を舐め、決意したように言った。

「幸助さんが許してくれるのなら、母親として美鈴に接したいです。これが償いだと私は思っています」

「自分勝手だな」

 幸助は嘲笑した。鈴子の考えをよしと思っていないのは明らかだ。鈴子も目を伏せ、険しい表情をしている。

 美鈴の体は自然と動いた。鈴子の隣に正座し、幸助と向き合う。幸助は美鈴を見やった。

「お祖父ちゃん。お母様のことを許してあげて?」

 幸助は瞠目した。思い切り開かれた目から、目玉がこぼれ落ちそうだ。

「どうしてだ?」

「お母様、二十二年前のことを私に謝ってくれたの。だからもういいかなって。それに私、お母様と少しでも一緒に過ごしたいって思っているの」

 幸助は俯き、膝の上の拳をぷるぷると振るわせた。しばしの思案ののち、顔を上げた。瞼を閉じて、鼻から息を吐ききってから鈴子を見た。その顔は少しだけ笑っていた。

「美鈴に免じて許してやろう」

「ありがとうございます」

 鈴子は声を震わせながら座礼した。それは謝罪の礼よりも深く、美しかった。

 幸助が居間を出て行く。

 面を上げた鈴子は、安堵したようでふっと息を吐いた。

「早く佳乃に会いに行きましょう」

 美鈴は鈴子を座敷へと連れていく。

 座敷ではマツと佳乃が戯れていた。

 マツは鈴子を認めたようで緊張した面持ちになり、姿勢を正した。二人が対面するのは恐らく、二十数年ぶりだと思う。

「マツさん、ご無沙汰しております」

「鈴子さん、いらっしゃい」

 緊張の面持ちの割りに、マツはすんなりと鈴子を受け入れた。拒絶するかもしれないと思っていたから、美鈴はほっと胸をなで下ろす。

「三世代でごゆっくり」

 と、マツが座敷を退出した。

 マツがいなくなった途端、鈴子は、

「佳乃~、お祖母ちゃんですよ」

 と、佳乃を抱っこした。

「大きくなったわね」

「もう八ヶ月ですから」

「お祖母ちゃんと呼んでくれるようになるのは、もう少し先ね。楽しみだわ」

 佳乃と戯れる鈴子は、すっかりお祖母ちゃんの顔になっていた。短時間に何度も、かわいいとつぶやいていた。

 鈴子と遊び疲れたようで、佳乃はうとうとと船を漕ぎ始めた。

「佳乃に子守歌を聴かせてあげてください」

「美鈴にも聴かせた子守歌を聴かせてあげるわ」

「ぜひ、お願いします」

「ええ」

 美鈴は鈴子の歌声に耳を傾ける。歌ってくれたのは赤ん坊のときだろうから、もちろん覚えていない。けれど、なぜか懐かしい気持ちになった。そして実感した。子守歌を歌ってくれ、かわいがってくれていたんだな、と。



「お母様!」

 少ししゃがれた声をした幼女が、無邪気に母の背に声をかけた。

 振り返った母はほほえみ、屈んで幼女と視線を合わせた。

「美鈴、どうしたの?」

「あのね……」


 美鈴はうっそりと瞼を開いた。

 幼少の頃の自分と鈴子の夢を見ていた。鈴子と和解してから、何度もこの夢を見ている。

 何度も見ている夢は、『汚い声』と言われた三歳の頃の出来事だけだ。

「あのね……」で途切れるこの夢を、どうして何度も見るのだろうか。

 美鈴は思うのだった。強烈に覚えていないだけで、こんなこともあったのかもしれない、と。

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