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十話

 翌朝。

「……鈴さん! 美鈴さん!」

 千昭の声で、美鈴ははっと目を覚ました。

 頬を濡らす温かい涙を感じ取る。また鈴子の夢を見ていたのだ。きっと、叫べず千昭を怪我させた罪悪感から夢を見たのだ。

 美鈴は上体を起こしながら涙を拭う。千昭が肩に触れてきた。

「どうしたの⁉ 眠っているのにぐすんぐすんって泣いて……」

 何でもないです。

 美鈴は首を横に振り、千昭の顔を見ないまま寝室を出た。

 洗面所の鏡で自分の顔を見る。赤くなった瞼で、目が半分くらいの大きさになっていた。泣きながら起きて、ここまで酷い顔になったことはない。夢と罪悪感が美鈴をこんな顔にしたのだ。

 こんな酷い顔、千昭さんに見られたくない。

 汚れじゃないから、顔を洗っても瞼の腫れが引かないことはわかっている。でも美鈴は何度も瞼に水をかけた。

 ふと鏡を見る。自分の真後ろに、口角を上げていやらしく、馬鹿にしたように笑う鈴子が見えた。

 美鈴は息を呑んで振り返る。

 もちろん鈴子はいない。

 でも鏡を見れば、また幽霊のように背後に現れるだろうと思う。美鈴はもう鏡を見ずに、その場を立ち去り、自室で着替えてから台所へ向かった。

 マツが米を研いでいた。

 美鈴は野菜置き場から人参と大根を取って、作業台に置いた。

「おはよう」

 美鈴の横顔を見たマツはぎょっとし、米を研ぐ手を止めた。眉尻を下げて、美鈴の顔を覗き込む。

「その顔……。また例の夢を見たのかい?」

 一間置いて、こくりと美鈴は頷く。

「やっかいな夢だね。もう呪いだよ」

 マツがため息交じりにつぶやいた。

 呪いという傷は心の奥底まで到達しているのだ。たとえお祓いをしてもらっても、この悪夢は消えることはないだろう。一生、見続ける。きっと人生の最期に見る夢も、これだろうと思う。

 朝食を作ったくらいの時間では、瞼の腫れは引かない。

 美鈴は千昭に顔を見られないよう、顔を伏せて食事を摂る。ずっと千昭からの視線を感じていたが、頑として顔を上げなかった。

 出勤する千昭を見送るときも、美鈴は顔ではなくつむじを見せた。

 上がり框に腰かけて、革靴を履く千昭の頭を見下ろす。罪悪感が、彼の黒髪と正反対の、純白の包帯を眩しく見せる。目と胸が痛くなった。

 視界から千昭の頭が消えた。代わりに革靴の爪先が入ってきた。直後、彼の手も見えた。

 千昭が美鈴の顎下に手を添え、顔を上げさせた。

 今日ようやく、顔を向き合わせた。

 俯いて、無愛想にしている自分に怒っているのかと思った。けれど違った。千昭は、汚れた世界を浄化するような優しいほほえみを美鈴に向けていた。

 美鈴は千昭から目を離せなかった。神々しく発光しているように見え、見惚れる。つい、呼吸も忘れる。

「笑顔を見せて」

 言われて美鈴は我に返り、息を吸い込む。小刻みに素早く、首を横に振る。怪我をさせた千昭に、笑顔なんて見せられない。

「笑ってくれないと、俺、出勤できないな」

 ずるいと思った。

 こう言われれば、笑わざるをえないではないか。わかっていて千昭は言ったのだ。

 本当は笑いたくない。でも笑わないと千昭は遅刻し、上司に頭を下げる羽目になる。そんなことはさせられない。

 己の感情を無視し、美鈴は精一杯の作り笑顔を千昭に見せる。それは能面を無理矢理笑わせたように不自然なものだった。自分の作り笑いが見えていない美鈴も、変な笑顔をしているだろうなと思う。

 千昭は顎下に添えていた手を、美鈴の頭にもっていった。そして頭を撫でる。

「ようやく笑ってくれた。いい笑顔だよ」

 お世辞だと丸わかりだった。それでも美鈴の胸は、ろうそくが灯ったように少しだけ温かくなった。

 わずかに笑顔が自然になった。千昭も安堵したように、目を細めた。

 美鈴の頭から千昭の手が離れる。

 美鈴は鞄を千昭に手渡した。

「いってきます」

 いってらっしゃい。

 美鈴は千昭の背に頭を下げた。

 千昭が出て行った。玄関戸が閉まる音を聞いて、美鈴は顔を上げた。

 陽光を反射して白く光る磨りガラスの向こうを見つめる。

 また千昭に何か危険が迫ったときのことを考える。

 いつまでも母に囚われて喋れないままじゃダメだ。でもしゃがれた声を聞かれるのは嫌だ。

 心の中で突風が吹いた。

 一度ではない。何度も何度も吹く。

 吹き付ける突風に、心を覆っていた迷いという膜が剥がれた。露わになった心が、くすぐられるようにそわそわするのを感じた。


 午後、縁側に座って洗濯物を畳んでいた美鈴は、ぴたりと手を止めた。心の声が『覚悟を決めろ』とせき立ててくる。

 覚悟を決めなきゃダメだよね。

 心の声に返答し、美鈴は口を開いた。

「お祖母ちゃん……」

「どうしたんだい?」

 深呼吸をして、そわそわしている心を落ち着かせてから美鈴は言った。

「私、千昭さんの前で喋りたいって思ってるんだ」

「おおっ。いいじゃない!」

「でも、怖いんだ。千昭さんも、私の声を絶対に汚いって感じると思うから」

 マツは眉をひそめ、ため息をついた。

「千昭さんが、そんなことを思うような人じゃないって、美鈴が一番わかってるでしょう?」

 美鈴は千昭のことを思い出す。

 些細なことでも褒めてくれる。そして昨日のようなことがあっても、決して責めてこない。優しさを具現化したような人だ。

 彼が人を貶しているところを聞いたことがない。彼には、どんな人でも持っている邪の心がないのではないかと思う。

 高潔な彼ならば、このしゃがれた声を聞いても、汚いなんて思わないはずだ。

「そうだよね。千昭さんはそんな酷いことを思うような人じゃないよね」

 美鈴が言うと、マツが何度も強く頷いた。

「帰ってきたら早速、『おかえりなさい』って言うの?」

 いいや、と美鈴は頭を振った。

「『千昭さん。おはようございます』がいいなって思ってる」

 殻を破って新しい自分になる。一日の始めの挨拶がふさわしいと思った。

「じゃあ、明日の朝だね」

「言えるかな?」

 マツが美鈴の肩を引き寄せた。頬を寄せて慰めるように肩をさすってくれる。

「美鈴なら絶対に言えるよ」

「……うん。私、頑張るから」

 美鈴は頬を染めながらつぶやいて、止めていた手を動かし始めた。

 夜になり、千昭が帰ってきた。

 彼は美鈴を見て「ただいま」ではなく、

「笑顔が戻ってよかった。笑っている美鈴さんが一番、素敵だよ」

 と、言った。

 やはり彼は優しいと、美鈴は強く実感するのだった。

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