表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

十一話

 翌朝。

 美鈴はまた鈴子の夢を見た。きっと、今日喋ると決めたからだ。

 涙を拭って隣を見る。千昭はまだ眠っていた。今日は、昨日のようにぐずぐずと泣いていなかったようで安堵する。

 千昭を起こさないよう、美鈴は音を出さないようそっと寝室を出た。

 着替えて、顔を洗って台所に入る。

「お祖母ちゃんおはよう」

 米を研いでいたマツが、はっとしたように振り返った。驚いているように見える。

「ああ、おはよう」

 美鈴が隣に立つと、マツは感慨深そうな顔をして言った。

「ここで美鈴の『おはよう』を聞くのは久しぶりだねぇ」

「千昭さんが婿に来てから言ってないからね」

 眠っているから声を聞かれることはないけれど、家の中にいるから言えなかった。マツに言えたのは、今日千昭の前で喋ると決意したからだ。

「今、言えたんだから、千昭さんにも言える。頑張るんだよ」

「うん」

 美鈴は強く頷いた。

 朝食を作り終え、居間へ運んだ。

 居間には幸助しかいなかった。

「お祖父ちゃんおはよう」

 美鈴が言うと、幸助は新聞から顔を上げた。目をぱちくりとさせる。

「美鈴、お前……」

「美鈴ね、千昭さんにおはようって言うんだって」

「おおっ、そうなのか!」

 幸助が目を爛々と輝かせた。まるで好物のお菜が出てきたときのような表情だ。

 二人とも美鈴が喋るのを期待しているのだ。

 頑張らないと。

 美鈴は武者震いする。

 ちゃぶ台に全てを並べ終わったのと同時に、千昭がやって来た。

 緊張が美鈴の体に走った。雷に打たれたように、指先まで強ばる。

「皆さん、おはようございます」

 おはようございます、と幸助とマツが言った。

 マツが美鈴の背に手を回して、ぽんぽんと優しく叩いた。

 勇気を注入してもらった。美鈴は唇を舐めて、千昭の側に寄った。緊張で水分を失った口を、勇気を出して開く。

「ち……」

『汚い声』

 鈴子の声が脳内で再生される。

『邪魔しないで』

 今度は鈴子の顔も見えた。夢の中と同じで、美しい顔を歪めている。

『汚い声。汚い声。汚い声……』

『うるさい!』

 美鈴は心の中で叫んだ。カナリアと称されるその美しい声を一蹴する。

 ごくりと唾を飲み込み、喉にある石を破壊する。

 喋れる。いや、喋るんだ。

 美鈴は喉を動かした。

「ち……、千昭さん。おはようございます」

 二十一年ぶり、秀嗣と祖父母以外の前で出した声はうわずった。うわずった恥ずかしさより、言えた嬉しさが勝った。

「ああっ、美鈴ぅ……」

 語尾を弱めながら言った幸助が、唇をわなわなと振るわせた。年を取って透明度がなくなった目には涙が浮かんでいる。マツも美鈴の肩を叩きながら、

「頑張ったね」

 と言ってくれた。

 千昭が涼しげな目を細め、はにかんだ。美しく優しいその笑顔に、美鈴の頬は熱くなる。

「俺に声を聴かせてくれたね。嬉しいよ」

「私の声……」

 続きは飲み込んだ。『汚くないですか?』なんて愚問は訊かなくてもいい。

「今までできなかった分、たくさんお喋りしましょうね」

「ああ。今晩が楽しみだよ」

「私もです」

 美鈴は満面の笑みで言った。そしてもう、夜に千昭と語らうことを考えるのであった。


 昼前、美鈴はマツと商店街へ買い物に出かけた。

「今晩は、何を作ろうかなあ。何か作りたいものはある?」

「千昭さんが好きな炊き込みごはんを作りたいな」

「最近作ってなかったからねえ。それにしようか」

 二人はまず、豆腐屋に立ち寄った。

「いらっしゃいませ」

 店主の視線はマツに向いている。いつもマツの後ろで、置物のように何も喋らない美鈴を、彼は眼中に入れない。

 でも今日は違う。

 美鈴はマツの一歩前に出た。店主の視線が、美鈴に滑る。

「あの、お豆腐を二丁いただけますか?」

 置物が喋ったと言わんばかりに店主は驚き、まん丸になった目を瞬かせた。だが、すぐに表情を改めた。

「二丁ですね」

「はい」

「まいどあり」

 店主は朗らかに笑ってくれた。

 次に寄った八百屋でも、美鈴が注文した。

 八百屋の夫妻も好意的な顔をしてくれた。

 マツと話しながら歩いていたとき、美鈴は道行く人々の顔を一瞥していた。老若男女、誰一人も鈴子のように顔を歪めたりしなかった。

 自分が思っていたよりも汚い声じゃないのかもしれない。

 もう誰の前でも喋れる。

 清風が淀んだ空気を浄化したみたいに、喉がすっとした。

 母にかけられた呪いは完全に解けた。美鈴はそう確信した。

 ふと、鈴世の顔が思い浮かんだ。

 近々、来てくれそうな気がする。

 早く自分の声を使って鈴世と話したくて、美鈴はうずうずするのだった。


 その日の午後。

 鈴世の「こんにちは!」が、立花家に響いた。

 裁縫をしていた美鈴はそれを放り出して、玄関へと急いだ。はしたないと思いながら、小走りした。

 戸を開ける前に、深呼吸する。

 全ての息を吐ききってから、美鈴は戸を開けた。

「鈴世、いらっしゃい」

 鈴世が大きな双眸を見開いた。小脇に抱えていた鞄も、引き寄せられたみたいに地面に落ちる。

「お姉様っ!」

 言いながら、鈴世が美鈴に抱きついた。ぎゅっと背を強く締められる。

「お姉様の声を聞けて嬉しいわ!」

 力強い抱擁は嬉しいが、このままでは窒息してしまう。

「ちょっと、鈴世。苦しい」

「ああっ、ごめんなさい!」

 と、鈴世は離れた。落とした鞄を拾い上げながら、

「嬉しくて、つい力が入ってしまいました」

 鈴世は恥ずかしそうに言った。頬を赤らめてもじもじとする姿がかわいくて、美鈴はくすりと笑う。

「さあ、家に上がって」

「はい。お邪魔します」

「私はお茶を淹れるから」

「縁側で待っておきますね」

 鈴世は縁側、美鈴は台所へと向かう。

 湯が沸くのを待つ間、筆談道具を取りに行っていた。でもその必要はない。もうなくたって鈴世と意思疎通ができるのだから。

 茶を淹れた美鈴は鈴世の元に向かった。

「お待たせ」

 鈴世の隣に腰を下ろし、茶を差し出す。

「ありがとうございます。今日は大福を買ってきました」

「鈴世もいつもありがとう」

「どういたしまして」

 茶を啜った鈴世がふーっと息を吐いた。

「お姉様の声を聞いているなんて。なんだか夢を見ているみたいです」

「ふふ、夢じゃないよ」

「だって、一生聞けないと思っていたから」

 遊びに来だして二ヶ月が経った頃だった。鈴世から『いつかお姉様の声を聞かせていただけますか?』と訊かれた。美鈴は『無理』と書いて見せた。もちろん『どうして?』と返された。経緯を話すと、鈴世は『可哀想』と言いながら顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。自分のために泣いてくれたのは、秀嗣と祖父母以外にいなかったから、驚いたことを覚えている。

「お母様も冷酷よね。三歳の娘の声を、汚いと罵るなんて」

「仕方ないよ。自分はカナリアなのに、娘は違ったから。例えるなら私は、濁った声のカラスかな」

「そんなこと言わないの!」

 鈴世が柳眉を逆立てた。彼女が怒りをあらわにするのを初めて見た。

「お姉様の声は色気を感じる素敵なものだと私は思う。耳障りなカラスなんかに例えないで」

 両親が離婚して立花家に帰ってきて、ようやく喋れたとき、祖父母にもここまで具体的に声を褒められなかった。あの冷酷な母から生まれたのに、どうして鈴世はこんなにいい子なのだろうか。

 思わず美鈴は、鈴世に抱きついた。

「ありがとう。鈴世」

「苦しいわ」

「わっ、ごめんね」

 美鈴は慌てて抱擁を解く。

 二人は見つめ合う。

 鈴世が先に目をそらし、ふふっと笑った。

「無言の時間はもったいないわ。大福を食べながら話しましょう」

「そうだね」

 いただきます、と二人は大福に噛みついた。

 柔らかい餅を喉に詰まらせないよう、よく噛みながら食べたから、自然と口数は減った。

食べ終え、ようやく会話を楽しもうと思っていると、ゴホンゴホンと、使用人の咳が塀の向こうから聞こえてきた。もう帰る時間のようだ。

「あまり話せていないのに」

 鈴世はため息をつき、腰を上げた。美鈴も腰を上げて、二人で玄関へ行く。

 三和土に立った鈴世が言った。

「次来るときは、食べながらでも話せるものを持ってきますね」

「ありがとう。楽しみに待っているね」

「お邪魔しました」

 と、鈴世は手を振って帰っていった。美鈴に背を向けるときの、今生の別れのような顔が、今日は一段と悲しそうだった。

 磨りガラスに浮かんでいた影が完全に消えてから、美鈴はその場を立ち去った。

 湯飲みを洗って、放り出していた裁縫を終わらせると、もう夕食を作り始める時間になっていた。

 美鈴は台所に入った。そして同時にえずく。野菜を洗っていたマツが振り返った。

「あら、どうしたの?」

「ちょっと吐きそう」

「昼食べたものの中に、何か痛んだものがあったのかもね。どれだろう」

 マツが小首を傾げる。

「お昼ごはんは関係ないと思う。実は今朝から、ものを食べると吐きそうになるんだ」

 途端、マツが閃いたような顔になった。

「もしかして身籠もってるんじゃない?」

 マツの言葉に美鈴はきょとんとしたが、すぐにはっとする。腹に手を持っていく。

 いつも月の上旬にきている月の障りが、先月からきていない。懐胎の可能性が充分にある。

「私、身籠もってるのかな? 月の障りもきていないし……」

「絶対そうだよ!」

 マツが声をうわずらせながら言った。

 美鈴は、本当に身籠もっているかわからない真っ平らな腹を見る。これから大きくなっていくのかと思うと、ドキドキワクワクと心が浮き立つ。

「ああ、私もひいお祖母ちゃんになるんだね~。元気に長生きしないと!」

 度々、弱々しいことを言っていたのに、人が変わったように前向きなことを言いだした。それに、顔が明るくなって若返ったように見える。マツには長生きしてほしいから、美鈴は嬉しく思う。

 炊き込みごはんを作るつもりだったが、マツが「赤飯を炊く」と言いだした。だから、炊き込みごはんは明日にお預けだ。

 夕食を作り終え、片づけをしていると、

「ただいま」

 と、千昭の声が聞こえてきた。

 美鈴は玄関へと足を運び、

「おかえりなさい」

 と、千昭を出迎えた。

 千昭の顔を見ると、つい笑みを抑えられない。

「どうした?」

「実は私、身籠もったみたいなんです……」

 千昭が美鈴の肩に手を置いた。

「本当に⁉」

「はい」

 美鈴は頬を染めながら、小さく頷いた。背に千昭の手が回る。美鈴は千昭の腕に包まれた。彼の速くなっている心臓を感じる。連動するように美鈴の心臓も速くなる。

「ああ……、嬉しいよ。ありがとう」

「私もとっても嬉しいです」

 千昭は早く父親になりたいと言っていた。美鈴は、自分が喋れないから母親になることに不安があった。けれどもう喋れるようになったから、不安はなくなった。

 そのまま二人の世界に浸っていると、

「お二人さん」

 と、背後から声がした。

 はっと、現実に引き戻される。千昭が抱擁を解く。

 振り返るとマツが立っていた。マツは盆で口を隠していた。隠れていても、どんな口をしているか想像できる。きっと、にんまりと三日月を横にしたようになっている。

 美鈴は恥ずかしさで顔を真っ赤にし、千昭から一歩離れる。

「ハハッ。お恥ずかしい」

 千昭がこめかみをかきながら言った。

 マツはくすくすと笑い、

「もう食事を運びますから、早く背広を脱いでらっしゃい」

 言いながら台所方面に行った。

 美鈴はマツを追う。

 台所に入って目が合うやいなや、

「こっちが恥ずかしくなるくらい熱々だね~」

 と、からかってきた。

「もう! 言わないで!」

「はいはい。ごめんね~」

 二人は作った夕食を居間に運んだ。

 着替えた千昭がもう座っていた。

 マツがおひつを開けた。幸助が首を伸ばし、中を覗き込む。

「白米とは違う匂いがすると思っていたが、今晩は赤飯か。美鈴が誰の前でも喋れるようになった祝いだな」

「それもおめでたいことですけど」

 マツはニコニコしながら、幸助の前に茶碗を置いた。

「美鈴ね、身籠もったみたいなんですよ」

「何だって⁉」

 幸助は瞠目し、美鈴を見た。穴が開きそうなほど凝視され、恥ずかしくなった美鈴は俯く。

「今日はなんて素晴らしい日なんだ!」

 幸助が千昭の肩に腕を回した。

「千昭くんもそう思うだろう?」

「はい」

「よし、今晩は祝杯をあげよう!」

「明日も仕事なので、俺は一杯だけにしておきます」

「一晩寝れば、酒は抜けるさ! 今晩は潰れるまで飲むぞ!」

 幸助はすっかりその気でいるが、千昭が枠なことを知らないのだ。とっくり二本でできあがる幸助では、絶対に千昭を潰せない。

 夕食後、さっさと入浴した千昭と幸助に酒を用意した。

 美鈴は、二人が飲むところを廊下からこっそり見ていた。特に千昭がどんな風に飲むのか気になる。

 幸助はあまり飲まず、千昭にばかり飲ませている。

 とっくりが一本、空になった。

「千昭くん飲めるじゃないか。美鈴と同じ、とんだ下戸なのかと思っていたよ」

 幸助が嬉々としながら言う。

「普段は控えているので」

「何だ、本当はかなり飲めるくちかい?」

「どうでしょう」

 はぐらかした。枠なことを知られたくないようだ。

 さあ、と千昭がお酌した。

「じいちゃんも飲んでください」

「そうだな。俺も飲もう!」

 それから二人はお酌しあって酒をあおった。

 酒が好きなのに多く飲めない幸助は、体が受け付けなくなったのか、おちょこを空にするのが遅くなった。一方で千昭は、一定の速度で飲み続けている。まるで水を飲んでいるように見える。

 あれが枠の人の飲み方か……。

 美鈴は感心し、風呂に入るためにその場を離れた。

 風呂から出て居間をのぞくと二人の姿はなく、ちゃぶ台の上も片付いていた。祝杯はもう終わったようだ。

 彼はどれだけ飲んだのだろうか。

 美鈴は気にしながら、寝室へ向かった。

 寝室の襖が開いていた。布団を抱えた千昭がちょうど廊下に出てきた。

「布団を持って、どこに行くんですか?」

「座敷。酒臭いだろうから、同じ部屋で寝るのは悪いと思って」

 確かに酒臭くて、えずきそうになる。だが、

「臭くてもいいです。一緒の部屋で眠りたいです」

 美鈴は上目で彼を見る。すると、千昭は恥ずかしそうに笑った。

「じゃあ、ここで寝るよ」

 と、千昭は寝室に引っ込んだ。美鈴も寝室に入る。

 布団を敷きながら、千昭に訊いた。

「お酒はかなり飲んだんですか?」

「今日はとっくり三本半。じいちゃんが三本目で潰れたから。美鈴さんは飲めないらしいね」

「はい。今までで飲んだ量は、夏に千昭さんが一人で飲んだ量より少ないです。あのときは一人でどれくらい飲んだんですか?」

「あのときは確か……。一升瓶三本と熱燗十本くらいだったかな」

「すごいですね……」

「全然酔わないからもっといけるよ」

 と、千昭は余裕の笑みを浮べた。十人で協力しても、きっと彼は潰せないだろう。

 電気を消し、横になる。昨日までは『おやすみなさい』と書いたページを千昭に見せて、電気を消していた。それももうしなくていい。

 どちらもまだ「おやすみ」と言わない。

 美鈴は、鈴世と過ごしていたとき以外は、千昭と何を喋るか考えていたが、結局何も思いつかなかった。

 無理に何かを話さなくてもいいや。

 美鈴は千昭の布団の中に侵入した。彼の腕に、自分の腕を絡ませる。

「そんなにくっつくと酒が臭うだろう?」

「我慢できますから」

 漂う酒の匂いの奥にする千昭の匂いを、美鈴は吸い込む。こうすれば酒の匂いが気にならない。

 千昭が美鈴の腕を解いた。そして美鈴に腕枕をし、美鈴の肩を抱いた。

 自然と、千昭のほうを向くかたちになる。

 暗闇に少し目が慣れた。千昭の顔がぼんやりと見える。

 美鈴は顔を千昭に近づける。

 唇に想像と違う固いしっかりとした感触を覚えた。それは彼の指だった。その指で唇を、とん、とつつかれた。

「今日は積極的だね。でも酒の味がすると思うよ?」

「それでもいいです」

 また顔を千昭に近づける。今度はさっき想像した感触だった。柔らかくて溶かされるような温かさ。そして今日は少し苦かった。

 千昭がふっと笑い言った。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 美鈴は千昭の腕に包まれたまま眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ