十一話
翌朝。
美鈴はまた鈴子の夢を見た。きっと、今日喋ると決めたからだ。
涙を拭って隣を見る。千昭はまだ眠っていた。今日は、昨日のようにぐずぐずと泣いていなかったようで安堵する。
千昭を起こさないよう、美鈴は音を出さないようそっと寝室を出た。
着替えて、顔を洗って台所に入る。
「お祖母ちゃんおはよう」
米を研いでいたマツが、はっとしたように振り返った。驚いているように見える。
「ああ、おはよう」
美鈴が隣に立つと、マツは感慨深そうな顔をして言った。
「ここで美鈴の『おはよう』を聞くのは久しぶりだねぇ」
「千昭さんが婿に来てから言ってないからね」
眠っているから声を聞かれることはないけれど、家の中にいるから言えなかった。マツに言えたのは、今日千昭の前で喋ると決意したからだ。
「今、言えたんだから、千昭さんにも言える。頑張るんだよ」
「うん」
美鈴は強く頷いた。
朝食を作り終え、居間へ運んだ。
居間には幸助しかいなかった。
「お祖父ちゃんおはよう」
美鈴が言うと、幸助は新聞から顔を上げた。目をぱちくりとさせる。
「美鈴、お前……」
「美鈴ね、千昭さんにおはようって言うんだって」
「おおっ、そうなのか!」
幸助が目を爛々と輝かせた。まるで好物のお菜が出てきたときのような表情だ。
二人とも美鈴が喋るのを期待しているのだ。
頑張らないと。
美鈴は武者震いする。
ちゃぶ台に全てを並べ終わったのと同時に、千昭がやって来た。
緊張が美鈴の体に走った。雷に打たれたように、指先まで強ばる。
「皆さん、おはようございます」
おはようございます、と幸助とマツが言った。
マツが美鈴の背に手を回して、ぽんぽんと優しく叩いた。
勇気を注入してもらった。美鈴は唇を舐めて、千昭の側に寄った。緊張で水分を失った口を、勇気を出して開く。
「ち……」
『汚い声』
鈴子の声が脳内で再生される。
『邪魔しないで』
今度は鈴子の顔も見えた。夢の中と同じで、美しい顔を歪めている。
『汚い声。汚い声。汚い声……』
『うるさい!』
美鈴は心の中で叫んだ。カナリアと称されるその美しい声を一蹴する。
ごくりと唾を飲み込み、喉にある石を破壊する。
喋れる。いや、喋るんだ。
美鈴は喉を動かした。
「ち……、千昭さん。おはようございます」
二十一年ぶり、秀嗣と祖父母以外の前で出した声はうわずった。うわずった恥ずかしさより、言えた嬉しさが勝った。
「ああっ、美鈴ぅ……」
語尾を弱めながら言った幸助が、唇をわなわなと振るわせた。年を取って透明度がなくなった目には涙が浮かんでいる。マツも美鈴の肩を叩きながら、
「頑張ったね」
と言ってくれた。
千昭が涼しげな目を細め、はにかんだ。美しく優しいその笑顔に、美鈴の頬は熱くなる。
「俺に声を聴かせてくれたね。嬉しいよ」
「私の声……」
続きは飲み込んだ。『汚くないですか?』なんて愚問は訊かなくてもいい。
「今までできなかった分、たくさんお喋りしましょうね」
「ああ。今晩が楽しみだよ」
「私もです」
美鈴は満面の笑みで言った。そしてもう、夜に千昭と語らうことを考えるのであった。
昼前、美鈴はマツと商店街へ買い物に出かけた。
「今晩は、何を作ろうかなあ。何か作りたいものはある?」
「千昭さんが好きな炊き込みごはんを作りたいな」
「最近作ってなかったからねえ。それにしようか」
二人はまず、豆腐屋に立ち寄った。
「いらっしゃいませ」
店主の視線はマツに向いている。いつもマツの後ろで、置物のように何も喋らない美鈴を、彼は眼中に入れない。
でも今日は違う。
美鈴はマツの一歩前に出た。店主の視線が、美鈴に滑る。
「あの、お豆腐を二丁いただけますか?」
置物が喋ったと言わんばかりに店主は驚き、まん丸になった目を瞬かせた。だが、すぐに表情を改めた。
「二丁ですね」
「はい」
「まいどあり」
店主は朗らかに笑ってくれた。
次に寄った八百屋でも、美鈴が注文した。
八百屋の夫妻も好意的な顔をしてくれた。
マツと話しながら歩いていたとき、美鈴は道行く人々の顔を一瞥していた。老若男女、誰一人も鈴子のように顔を歪めたりしなかった。
自分が思っていたよりも汚い声じゃないのかもしれない。
もう誰の前でも喋れる。
清風が淀んだ空気を浄化したみたいに、喉がすっとした。
母にかけられた呪いは完全に解けた。美鈴はそう確信した。
ふと、鈴世の顔が思い浮かんだ。
近々、来てくれそうな気がする。
早く自分の声を使って鈴世と話したくて、美鈴はうずうずするのだった。
その日の午後。
鈴世の「こんにちは!」が、立花家に響いた。
裁縫をしていた美鈴はそれを放り出して、玄関へと急いだ。はしたないと思いながら、小走りした。
戸を開ける前に、深呼吸する。
全ての息を吐ききってから、美鈴は戸を開けた。
「鈴世、いらっしゃい」
鈴世が大きな双眸を見開いた。小脇に抱えていた鞄も、引き寄せられたみたいに地面に落ちる。
「お姉様っ!」
言いながら、鈴世が美鈴に抱きついた。ぎゅっと背を強く締められる。
「お姉様の声を聞けて嬉しいわ!」
力強い抱擁は嬉しいが、このままでは窒息してしまう。
「ちょっと、鈴世。苦しい」
「ああっ、ごめんなさい!」
と、鈴世は離れた。落とした鞄を拾い上げながら、
「嬉しくて、つい力が入ってしまいました」
鈴世は恥ずかしそうに言った。頬を赤らめてもじもじとする姿がかわいくて、美鈴はくすりと笑う。
「さあ、家に上がって」
「はい。お邪魔します」
「私はお茶を淹れるから」
「縁側で待っておきますね」
鈴世は縁側、美鈴は台所へと向かう。
湯が沸くのを待つ間、筆談道具を取りに行っていた。でもその必要はない。もうなくたって鈴世と意思疎通ができるのだから。
茶を淹れた美鈴は鈴世の元に向かった。
「お待たせ」
鈴世の隣に腰を下ろし、茶を差し出す。
「ありがとうございます。今日は大福を買ってきました」
「鈴世もいつもありがとう」
「どういたしまして」
茶を啜った鈴世がふーっと息を吐いた。
「お姉様の声を聞いているなんて。なんだか夢を見ているみたいです」
「ふふ、夢じゃないよ」
「だって、一生聞けないと思っていたから」
遊びに来だして二ヶ月が経った頃だった。鈴世から『いつかお姉様の声を聞かせていただけますか?』と訊かれた。美鈴は『無理』と書いて見せた。もちろん『どうして?』と返された。経緯を話すと、鈴世は『可哀想』と言いながら顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。自分のために泣いてくれたのは、秀嗣と祖父母以外にいなかったから、驚いたことを覚えている。
「お母様も冷酷よね。三歳の娘の声を、汚いと罵るなんて」
「仕方ないよ。自分はカナリアなのに、娘は違ったから。例えるなら私は、濁った声のカラスかな」
「そんなこと言わないの!」
鈴世が柳眉を逆立てた。彼女が怒りをあらわにするのを初めて見た。
「お姉様の声は色気を感じる素敵なものだと私は思う。耳障りなカラスなんかに例えないで」
両親が離婚して立花家に帰ってきて、ようやく喋れたとき、祖父母にもここまで具体的に声を褒められなかった。あの冷酷な母から生まれたのに、どうして鈴世はこんなにいい子なのだろうか。
思わず美鈴は、鈴世に抱きついた。
「ありがとう。鈴世」
「苦しいわ」
「わっ、ごめんね」
美鈴は慌てて抱擁を解く。
二人は見つめ合う。
鈴世が先に目をそらし、ふふっと笑った。
「無言の時間はもったいないわ。大福を食べながら話しましょう」
「そうだね」
いただきます、と二人は大福に噛みついた。
柔らかい餅を喉に詰まらせないよう、よく噛みながら食べたから、自然と口数は減った。
食べ終え、ようやく会話を楽しもうと思っていると、ゴホンゴホンと、使用人の咳が塀の向こうから聞こえてきた。もう帰る時間のようだ。
「あまり話せていないのに」
鈴世はため息をつき、腰を上げた。美鈴も腰を上げて、二人で玄関へ行く。
三和土に立った鈴世が言った。
「次来るときは、食べながらでも話せるものを持ってきますね」
「ありがとう。楽しみに待っているね」
「お邪魔しました」
と、鈴世は手を振って帰っていった。美鈴に背を向けるときの、今生の別れのような顔が、今日は一段と悲しそうだった。
磨りガラスに浮かんでいた影が完全に消えてから、美鈴はその場を立ち去った。
湯飲みを洗って、放り出していた裁縫を終わらせると、もう夕食を作り始める時間になっていた。
美鈴は台所に入った。そして同時にえずく。野菜を洗っていたマツが振り返った。
「あら、どうしたの?」
「ちょっと吐きそう」
「昼食べたものの中に、何か痛んだものがあったのかもね。どれだろう」
マツが小首を傾げる。
「お昼ごはんは関係ないと思う。実は今朝から、ものを食べると吐きそうになるんだ」
途端、マツが閃いたような顔になった。
「もしかして身籠もってるんじゃない?」
マツの言葉に美鈴はきょとんとしたが、すぐにはっとする。腹に手を持っていく。
いつも月の上旬にきている月の障りが、先月からきていない。懐胎の可能性が充分にある。
「私、身籠もってるのかな? 月の障りもきていないし……」
「絶対そうだよ!」
マツが声をうわずらせながら言った。
美鈴は、本当に身籠もっているかわからない真っ平らな腹を見る。これから大きくなっていくのかと思うと、ドキドキワクワクと心が浮き立つ。
「ああ、私もひいお祖母ちゃんになるんだね~。元気に長生きしないと!」
度々、弱々しいことを言っていたのに、人が変わったように前向きなことを言いだした。それに、顔が明るくなって若返ったように見える。マツには長生きしてほしいから、美鈴は嬉しく思う。
炊き込みごはんを作るつもりだったが、マツが「赤飯を炊く」と言いだした。だから、炊き込みごはんは明日にお預けだ。
夕食を作り終え、片づけをしていると、
「ただいま」
と、千昭の声が聞こえてきた。
美鈴は玄関へと足を運び、
「おかえりなさい」
と、千昭を出迎えた。
千昭の顔を見ると、つい笑みを抑えられない。
「どうした?」
「実は私、身籠もったみたいなんです……」
千昭が美鈴の肩に手を置いた。
「本当に⁉」
「はい」
美鈴は頬を染めながら、小さく頷いた。背に千昭の手が回る。美鈴は千昭の腕に包まれた。彼の速くなっている心臓を感じる。連動するように美鈴の心臓も速くなる。
「ああ……、嬉しいよ。ありがとう」
「私もとっても嬉しいです」
千昭は早く父親になりたいと言っていた。美鈴は、自分が喋れないから母親になることに不安があった。けれどもう喋れるようになったから、不安はなくなった。
そのまま二人の世界に浸っていると、
「お二人さん」
と、背後から声がした。
はっと、現実に引き戻される。千昭が抱擁を解く。
振り返るとマツが立っていた。マツは盆で口を隠していた。隠れていても、どんな口をしているか想像できる。きっと、にんまりと三日月を横にしたようになっている。
美鈴は恥ずかしさで顔を真っ赤にし、千昭から一歩離れる。
「ハハッ。お恥ずかしい」
千昭がこめかみをかきながら言った。
マツはくすくすと笑い、
「もう食事を運びますから、早く背広を脱いでらっしゃい」
言いながら台所方面に行った。
美鈴はマツを追う。
台所に入って目が合うやいなや、
「こっちが恥ずかしくなるくらい熱々だね~」
と、からかってきた。
「もう! 言わないで!」
「はいはい。ごめんね~」
二人は作った夕食を居間に運んだ。
着替えた千昭がもう座っていた。
マツがおひつを開けた。幸助が首を伸ばし、中を覗き込む。
「白米とは違う匂いがすると思っていたが、今晩は赤飯か。美鈴が誰の前でも喋れるようになった祝いだな」
「それもおめでたいことですけど」
マツはニコニコしながら、幸助の前に茶碗を置いた。
「美鈴ね、身籠もったみたいなんですよ」
「何だって⁉」
幸助は瞠目し、美鈴を見た。穴が開きそうなほど凝視され、恥ずかしくなった美鈴は俯く。
「今日はなんて素晴らしい日なんだ!」
幸助が千昭の肩に腕を回した。
「千昭くんもそう思うだろう?」
「はい」
「よし、今晩は祝杯をあげよう!」
「明日も仕事なので、俺は一杯だけにしておきます」
「一晩寝れば、酒は抜けるさ! 今晩は潰れるまで飲むぞ!」
幸助はすっかりその気でいるが、千昭が枠なことを知らないのだ。とっくり二本でできあがる幸助では、絶対に千昭を潰せない。
夕食後、さっさと入浴した千昭と幸助に酒を用意した。
美鈴は、二人が飲むところを廊下からこっそり見ていた。特に千昭がどんな風に飲むのか気になる。
幸助はあまり飲まず、千昭にばかり飲ませている。
とっくりが一本、空になった。
「千昭くん飲めるじゃないか。美鈴と同じ、とんだ下戸なのかと思っていたよ」
幸助が嬉々としながら言う。
「普段は控えているので」
「何だ、本当はかなり飲めるくちかい?」
「どうでしょう」
はぐらかした。枠なことを知られたくないようだ。
さあ、と千昭がお酌した。
「じいちゃんも飲んでください」
「そうだな。俺も飲もう!」
それから二人はお酌しあって酒をあおった。
酒が好きなのに多く飲めない幸助は、体が受け付けなくなったのか、おちょこを空にするのが遅くなった。一方で千昭は、一定の速度で飲み続けている。まるで水を飲んでいるように見える。
あれが枠の人の飲み方か……。
美鈴は感心し、風呂に入るためにその場を離れた。
風呂から出て居間をのぞくと二人の姿はなく、ちゃぶ台の上も片付いていた。祝杯はもう終わったようだ。
彼はどれだけ飲んだのだろうか。
美鈴は気にしながら、寝室へ向かった。
寝室の襖が開いていた。布団を抱えた千昭がちょうど廊下に出てきた。
「布団を持って、どこに行くんですか?」
「座敷。酒臭いだろうから、同じ部屋で寝るのは悪いと思って」
確かに酒臭くて、えずきそうになる。だが、
「臭くてもいいです。一緒の部屋で眠りたいです」
美鈴は上目で彼を見る。すると、千昭は恥ずかしそうに笑った。
「じゃあ、ここで寝るよ」
と、千昭は寝室に引っ込んだ。美鈴も寝室に入る。
布団を敷きながら、千昭に訊いた。
「お酒はかなり飲んだんですか?」
「今日はとっくり三本半。じいちゃんが三本目で潰れたから。美鈴さんは飲めないらしいね」
「はい。今までで飲んだ量は、夏に千昭さんが一人で飲んだ量より少ないです。あのときは一人でどれくらい飲んだんですか?」
「あのときは確か……。一升瓶三本と熱燗十本くらいだったかな」
「すごいですね……」
「全然酔わないからもっといけるよ」
と、千昭は余裕の笑みを浮べた。十人で協力しても、きっと彼は潰せないだろう。
電気を消し、横になる。昨日までは『おやすみなさい』と書いたページを千昭に見せて、電気を消していた。それももうしなくていい。
どちらもまだ「おやすみ」と言わない。
美鈴は、鈴世と過ごしていたとき以外は、千昭と何を喋るか考えていたが、結局何も思いつかなかった。
無理に何かを話さなくてもいいや。
美鈴は千昭の布団の中に侵入した。彼の腕に、自分の腕を絡ませる。
「そんなにくっつくと酒が臭うだろう?」
「我慢できますから」
漂う酒の匂いの奥にする千昭の匂いを、美鈴は吸い込む。こうすれば酒の匂いが気にならない。
千昭が美鈴の腕を解いた。そして美鈴に腕枕をし、美鈴の肩を抱いた。
自然と、千昭のほうを向くかたちになる。
暗闇に少し目が慣れた。千昭の顔がぼんやりと見える。
美鈴は顔を千昭に近づける。
唇に想像と違う固いしっかりとした感触を覚えた。それは彼の指だった。その指で唇を、とん、とつつかれた。
「今日は積極的だね。でも酒の味がすると思うよ?」
「それでもいいです」
また顔を千昭に近づける。今度はさっき想像した感触だった。柔らかくて溶かされるような温かさ。そして今日は少し苦かった。
千昭がふっと笑い言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
美鈴は千昭の腕に包まれたまま眠りについた。




