異世界からの脱出
周囲の闇が一層濃くなった気がする。後ろに下がれば、大男も同じだけ距離を詰めてきた。
これは、逃げた方がいいやつ。全身の細胞が逃げろって言ってるもん。
ユウは床に倒れたまま。わたしだけ逃げちゃうか。
……いや、でもなぁ。
万一の時は守るって、カッコいいこと言ってくれたじゃん。
さっきも守ろうとしてくれたじゃん。
それを置いて自分だけ逃げるってさ。
「わたし的には――ちょっと有り得ないんだよな!」
九字切りだっけ。左手で印を組む。形とか知らんけど。呪文だけでも効果あるだろ。浄土宗とか、念仏唱えれば極楽行けるし!
「臨!」
それっぽい印でそれっぽく空を切る。声だけ本気。全身全霊。
「兵」
大男が頭を振った。うっとうしい虫を追い払うように。巨体から凄まじい圧を感じて、足が竦む。
「と、闘っ!」
必死に声を絞り出す。大男は止まらず近付いてくる。
効いてない。そりゃそうだ。素人だもん。効く方が怖いわ。
そもそもこいつは何する気なんだ? わたしを捕まえて、いや、普通に殺されるか。グチャッて。はは、情けな。
「臨兵闘者皆陣烈在前!」
飛び込んで来たユウが刀を振り下ろした。銀色の刃が、大男の巨体を袈裟懸けに切り裂く。
血は出なかった。代わりに傷口から黒い靄が噴き出した。
間髪入れず、ユウが追撃する。2度、3度。滑らかに刀を振るう姿は、騎士みたいに優雅で力強い。
カッコいい――。
とくんと、胸の高鳴りを感じた。
いつの間にか大男は空気に溶けるようにしていなくなっていた。後に残った靄もユウが息を吹きかけると、散り散りになって消える。
助かった。
「はあっ」
力が抜けて、わたしはその場にへたり込んだ。
「千鶴!」
苦しそうに喘ぎながら、ユウが振り返る。
「ユウ……!」
「たわけがッ! 九字の真似する暇があるならさっさと逃げんか!」
怒られた。わたしだって頑張ったのに。
「……そんな言わなくていいじゃん」
「ではどんな言葉をお望みだ? 蛮勇を賞賛して欲しいのかね?」
刀を鞘にしまい、両腕でわたしを抱き起こす。なんでそんなに優しいんだよ。自分の方が怪我してそうなのに。
「大丈夫か?」
「……うん」
「良かった」
「そっちは」
「平気だ。少し身体が軋むがね」
太陽のような笑顔が癪に障る。突き放して自力で立ち上がった。辺りは怖いくらいに静まり返っている。
「倒したの?」
「奴は七不思議だ。あのくらいでは死なん」
「……ああ、あいつか」
警備員とくれば当てはまるのは1つ。七不思議その6、警備員のタナカさんだ。
ユウから聞いた詳細を、わたしは脳内で思い返した。
※
・警備員のタナカさん
夜の学校にはタナカさんがいる。
遅くまで残ってる生徒を見付けると追いかけてくる。
絶対に捕まってはいけない。
※
「最初からおかしかったんだよ。イセジョに警備員はいないんだからさ」
どうして気付けなかったんだ。少し考えれば分かるのに。
「何かの力が、私たちの認識を阻害していたのだろう」
「何か?」
「この空間そのもの、と言うべきかもしれない」
ユウが両手を広げた。
「呪文を唱える前、私は千鶴の左隣にいた。だが目を開けた時、右になっていた。更に私は右利きの筈が、今は左で刀を振るっている。言葉にすると明らかに変だな」
「そういやわたしも右利きだ。なのにさっきは左で印を組んでて……」
「正しい印ではなかったがね」
「うっさい。なんだろ、身体は違和感なく動くんだよ。”こっち”が利き手だって分かるんだ。だけどそれは左なの。右利きなのに」
「そうだ。左右が逆になっているのさ」
ということは、もしかして……。
「わたしたちは鏡の中にいる?」
「おそらくは、呪文を唱えた直後からな」
ユウが頷いた。
「……不味くない? 入る方法は七不思議にあったけど、戻る方法は無かったじゃんか。タナカっつー化け物までいるし」
再び不安が込み上がってくる。わたしはそっとユウの服の裾を掴んだ。複雑な話だけど、いま頼れるのはこの刀剣女しかいない。
「倒したわけじゃないんでしょ」
「追い返しただけだ」
「倒せる?」
「無理だな。斬って分かった。格が違う」
「でも、さっきは勝てたじゃんか」
「不意を突けたからさ。私が刀を持つ理由が分かるか?」
「いいや」
「弱いからだ。強くあるために武装するんだよ」
自嘲気味の表情が痛々しい。わたしは溜め息を吐いた。
「……これ、どうしたらいいんだろ」
次にタナカが現れたとき、今回みたいにいくとは限らないのだ。
あいつが本気で襲って来た場合を考えてみよう。わたしは無力。ユウも勝てない。逃げてもジリ貧。
詰んでね?
「現にあらざる異空間。脱出の術は不明。しかも怪物がうろついている。文字通りの絶望だな! はっはっは!」
「笑うな! 真面目に考えてよ!」
思わず声を荒げた。けれどユウは意にも介さず、飄々とした態度を崩さない。心臓に毛でも生えてんのかこいつ。
「千鶴、君には視えていないようだね」
「何が」
「ここから出る方法だよ。あれだけ明確に示されていたのに」
「は?」
問い返した。ユウが得意気に指を立てる。
「反対呪文さ。呪文を唱えて入ったのだから、出るときも呪文を唱えればいいんだ。入るときと逆の呪文をね。後ろから読めということだ」
「ソウテベスハシナハノコ……このはなしはすべてうそ。この話は全て嘘!」
「よくあるパターンだよ、千鶴」
そういうことかと納得したわたしに、ユウが自信満々の笑みを浮かべた。




