6話 先生、肌も綺麗にできますか?
手術から二週間が経過した。
「傷の状態を見せてくれ」
診療スペースの椅子に座るアリアへ、雄介は静かに声をかけた。 アリアは「はい」と頷き、大切に巻きつけていた遮光用の布をゆっくりと外す。
雄介は手袋をはめ、アリアの右頬を指先で優しく押し伸ばしながら、創部の状態を丹念に観察した。
創部の発赤はピークを過ぎ、鮮やかな赤から薄いピンク色へと落ち着いてきている。腫れは完全に引き、組織の熱感もない。そして何より、以前のような引きつれ(拘縮)は一切見られず、皮膚は滑らかな曲線を保っていた。
「……うん、順調だ。感染もないし、経過はきわめて良好。今のところ問題ないよ」
「本当ですか……! よかった……!」
アリアは安堵の息を漏らし、心からの嬉しそうな笑顔を見せた。引きつれが消えたことで、彼女の笑顔は実に自然で、年相応の可憐さを取り戻していた。
「あ、あの……先生」
「ん?」
「先生は……これから、どうされるんですか?」
アリアのふとした問いかけに、雄介の手がぴたりと止まった。
「……それなんだよな」
雄介は頭をかきながら、重い溜息をついた。
手術の成功に達成感を覚えていたが、現実的な問題が山積みだった。 今の自分には、何もない。
身分なし。 金なし。 家なし。 職なし。 この世界の身分証すらなし。
完全なる異世界転移者。当然、日本で取得した医師免許はこの世界ではただの紙切れ……どころか、提示したところで誰も理解できない異世界の謎の文書でしかない。(そもそも、あんなでかい証書持ち歩いてないし、持ち歩けん)
様子を見にやってきた村長やガルドたちが、心配そうに雄介に声をかける。
「そういえば雄介先生、あんたは元々どこのご出身なんです? これほどの医術をお持ちなら、王都の宮廷医術師かどこかの凄腕のお方なんでしょう?」
「……いや、かなり遠いところから来たんだ。言葉では説明しにくい場所でね」
雄介が苦笑いしながら誤魔化すと、村長は察したように頷き、ガルドと顔を見合わせた。
「なるほど、訳ありですな……。ですが先生、この小さな開拓村には、先生のようなお方を引き留めておけるような設備も薬もありません。今回だって、ガルドやエルマさんが突貫で道具を作ったからなんとかなりましたが……」
「ああ、俺もそう思っていたところだ」
雄介は静かに頷いた。 今回のオペは村人たちの熱意と職人技で奇跡的に乗り切れたが、美容外科医として本格的な治療やアフターケアを行うには、圧倒的に資材も設備も薬品も足りない。
「それなら先生、ここから馬車で半日ほどの場所にある『商業都市グランザ』へ向かわれてはどうでしょう」
村長が提案する。
「グランザなら大きな市場もありますし、高品質な金属や薬草、魔導具も手に入ります。村の行商の馬車が出ますから、お礼代わりに街まで案内させましょう」
「グランザか……」
雄介にとって、それは願ってもない申し出だった。現代医療の道具がないこの世界で、より高度な医療環境を整えるためには、経済と物資が集まる都市へ出るのが最善の選択だった。
「助かる。そうさせてもらうよ」
こうして、雄介は村人たちの温かい見送りと、わずかな謝礼の金貨を受け取り、グランザへと向かう馬車に乗り込んだのだった。
◆
馬車に揺られること半日。 視界が開けると、目前に巨大な石造りの城壁と、幾重もの煙突から煙が立ち上る活気あふれる街並みが現れた。
商業都市グランザ。
関所を通過し(村長が書いてくれた推薦状と、役人への少しの付け届けで無事に通ることができた)、一歩足を踏み入れると、そこは人熱と熱気に満ちあふれていた。
「へい、いらっしゃい! 迷宮帰りの防具の修理ならウチにおまかせ!」 「新鮮なルミナ薬草が入ったよー!」
行き交う人々は実に多種多様だった。 分厚い鎧を身にまとった冒険者、色とりどりの衣装を着た商人、妖しい杖を携えた魔術師や治癒術師、立派な馬車に乗った貴族らしき者たち。 立ち並ぶ露店には、見たこともない珍しい果物や、微かに光を放つ魔導具、怪しげな薬瓶が所狭しと並んでいる。
「まさに異世界、だな……」
雄介は圧倒されながらも、持ち前の観察眼を働かせ、行き交う人々をじっくりと見つめた。
しかし――街を歩けば歩くほど、雄介の「医師としての職業病」が疼き始めた。
(……なんだ?)
雄介の視線が、すれ違う街の女性たちに留まる。
若い町娘、身なりの良い商人の娘、甲冑を着た女性冒険者。 彼女たちの顔立ちや骨格は整っており、魅力的な女性が多い。……しかし、雄介の目はその表面の「肌の状態」を克明に捉えていた。
(みんな……肌が荒れてるな)
重度の乾燥によるカサつき。 頬や鼻周りの強い赤み。 紫外線ダメージによる日焼けと、それに伴うシミや色素沈着。 毛穴の開きと、角質が硬化したゴワつき。
(怪我や大きな病気は治癒魔法で一瞬で直せるのかもしれないが……日々の『肌そのものを美しく保つ』という概念が、この世界には根底から欠落しているんじゃないか?)
粗悪な石鹸による皮脂の取りすぎか。 日焼け止めの概念がない紫外線環境か。 栄養バランスの偏りか、あるいは保湿という文化がないのか。
(治癒魔法は傷口を塞ぐ『修復』はできても、肌のターンオーバーを整えたり、キメを細かくするような『肌質改善』まではカバーしていないんだな……)
綺麗に着飾っている女性たちでさえ、肌の荒れを厚い粉で無理やり隠そうとして、かえって乾燥を悪化させている様子が見受けられた。
美容外科医であり、美容皮膚科の領域にも精通している雄介にとって、それは宝の山が眠っているようにも、改善の余地がありすぎる未開拓の地にも見えた。
(……なるほど。この街なら、俺の技術と知識が思わぬ形で役に立つかもしれない)
混雑する大通りの中央で、雄介は自身の指先を見つめながら、静かに口元を綻ばせるのだった。
大通り沿いにある一軒の素朴な宿屋に足を踏み入れると、カウンターの奥から愛想のいい宿の女将が顔を出した。
「いらっしゃい、お兄さん。泊まりかい? 一泊、銀貨一枚だよ」
「銀貨一枚か……」
雄介は自身のポケットに手をやり、村を出るときに村長から渡された小さな革袋を取り出した。 自分の財布には日本の千円札と小銭しか入っていなかったが、村を出る間際、村長が深々と頭を下げながらこの革袋を握らせてくれたのだ。
『雄介先生、これはアリアを救ってくださった村全員からのほんの気持ちです。宿代と当面の旅費に使ってください』
袋を開けると、ズッシリとした手応えとともに数枚の銀貨と大銅貨が光っていた。村の決して豊かではない財政の中から集めてくれた真心だった。
「それじゃ、二泊頼む」
銀貨を二枚支払うと、カウンターの脇で拭き掃除をしていた若い女性従業員が「お部屋へご案内しますね」と進み出てきた。
荷物を抱えて階段を上りながら、雄介は案内の少女の顔元をなにげなく観察した。 年齢は十八、九といったところか。愛嬌のある可愛らしい顔立ちをしているが、やはり大通りの女性たちと同じ悩みを抱えているのが見て取れた。
乾燥によって両頬が粉を吹き、小鼻の周りは毛穴が開いて少し赤みが差している。それを隠そうと粗い白粉を厚塗りしているため、かえって肌の乾燥とゴワつきが目立ってしまっていた。
部屋の前につき、ドアの鍵を受け取ったところで、雄介は気になっていた質問を投げかけた。
「……なぁ、一つ聞いていいか?」
「はい? なんでしょう、お客様?」
「この街には、肌を綺麗に整えるような……そうだな、化粧品やスキンケアの薬のようなものは売っていないのか?」
「け、化粧品……ですか?」
少女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「肌を綺麗にするもの、というと……貴族様方がお使いになる高級な香水とか、顔を白く見せる白粉のことでしょうか?」
「いや、肌に色を塗って隠すものじゃなくて、肌そのものの水分を補ったり、荒れを治してキメを整えたりする基礎的なケア用品だ」
「そんなもの……見たことも聞いたこともありませんよ」
少女は苦笑いを浮かべ、自分の荒れた頬を恥ずかしそうに手で隠した。
「怪我や病気なら治癒術師様の魔法で治してもらえますけど、こういうお肌のカサつきとか赤みなんて、みんな『体質』とか『生まれつき』だって諦めてますから……。あ、でも、白粉を塗れば少しはマシに見えますよ?」
(やっぱりか……)
雄介は内心で確信した。 この世界には「傷を塞ぐ医療」はあっても、肌のコンディションを根本から整える「美容皮膚科」や「スキンケア」という概念が一切存在しないのだ。
少女は雄介の真剣な眼差しに少し驚いたように目をパチクリさせ、ふと思い出したように尋ねてきた。
「あの……お客様は、薬師様か何かですか? もしかして……お肌を綺麗にする方法をご存知なんですか?」
「薬師じゃない。美容外科医だ」
雄介は静かに首を振り、少女の荒れた肌をまっすぐに見つめた。
「怪我や病気を治すことだけが医者の仕事じゃない。病気じゃないからと見捨てられてきた肌の悩みや、美しくなりたいという願いに応える医療がある」
「美しくなるための……医療……?」
「ああ。——『美容医療』だ」
雄介の口から発せられたその見慣れない言葉に、少女は不覚にも胸を打たれたように目を見開いた。
「もし、そのお肌の乾燥や赤みを根本から整えて、白粉を使わなくても素肌から透明感を出す方法があるとしたら……試してみたいか?」
「え……っ! そ、そんなことができるんですか……!? 本当なら、私……っ!」
少女の声が一気に跳ね上がった。 毎日鏡を見るたびに溜息をつき、厚塗りした白粉で誤魔化すしかなかった肌の悩み。それを「治せる」と断言されたのだ。
「ああ、できるさ。時間は少し開くかもしれないがな」
雄介はそう言って柔らかく微笑むと、「案内ありがとう」と伝えて部屋の中へと入った。
◆
一人になった狭い客室。 雄介は使い古された木製の机に腰掛け、羊皮紙と羽ペンを取り出した。
(治癒魔法に頼り切ったこの世界だからこそ、素肌を美しく保つアプローチは完全に盲点になっている。だが、皮膚の構造は現代の人体と何ら変わりない。なら、やるべきことは決まっている)
雄介は羽ペンを走らせ、滑らかな文字で思考を書き出していく。
肌の生まれ変わり――ターンオーバーを正しく循環させ、バリア機能を回復させるための最低限のプロセス。
「まずは……不要な皮脂や汚れだけを落とし、肌の水分を守る『洗顔料』」
羊皮紙に素早く図と成分案を書き込む。この世界の強力すぎる石鹸ではなく、肌と同じ弱酸性の洗浄成分が必要だ。薬師のエルマから教わった薬草の知識が頭の中で組み合わさっていく。
「それから、水分を細胞の隅々まで行き渡らせる『化粧水』」
ヒアルロン酸やグリセリンの代用品として使える保湿成分の高い抽出液。
「そして、補った水分を逃がさないための油分……『乳液』か『クリーム』」
基本となる三ステップ。だが、長年蓄積された不要な角質や毛穴の詰まり、紫外線のダメージを効率よくリセットするには、もう一押し足りない。
雄介のペンが、力強く紙を走らせる。
「……古い角質を優しく取り除き、皮膚の再生を劇的に促す『ケミカルピーリング』の薬剤も必要だな」
フルーツ酸(AHA)やサリチル酸の代用となる天然の酸性成分。これを適切な濃度で調合できれば、この世界のスキンケア常識は一変する。
「よし……」
書き終えた羊皮紙を見つめ、雄介は静かに息を吐き出した。
設備も、整った薬品もない異世界。 だが、確かな医学の知識と、美を追求する美容外科医としての執念がここにある。
「ここからが……本当の開幕だな」
商業都市グランザの片隅で、異世界の美の常識を覆す「美容医療」が、今静かに産声を上げようとしていた。
皮膚科領域です…!基礎化粧品は好きな分野ですので、わかりやすく丁寧に買いたいと思います!ちゃんとラブコメしますよ!
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