3話 異世界に手術室を
研ぎ直された金属器械が、木製のテーブルの上に整然と並べられていた。
・メス
・止血鉗子
・鑷子
・持針器 ・縫合針
ガルドの手によって限界まで研ぎ澄まされたメスは、灯火を浴びて冴え冴えとした光を放っている。 雄介はそれを一本ずつ手に取り、刃先の仕上がり、鉗子の噚合、持針器のロックの効き具合、縫合針の滑らかさを丹念に確認していった。
「……よし。器械は揃った」
ガルドの職人技は想像以上だった。現代の精緻なステンレス器具には及ばないものの、この異世界の環境で揃えられるものとしては最高のクオリティだ。
だが――雄介はそこでふっと手を止めた。
「……いや」
視線を上げ、集会場の薄暗く埃っぽい室内を見渡す。
「器械だけあっても、手術はできない」
「えっ……? まだ何か足りねえのか!?」
呆れたように叫ぶガルドを余所に、雄介は即座にオペ環境の構築へと頭を切り替えた。 外科手術において、いくら執刀医の技術と道具が完璧であっても、術野の『清潔』が保たれなければ感染症を引き起こす。顔のオペで術後感染を起こせば、傷跡どころか組織が壊死してしまう。
「この集落に、薬を扱う薬師はいるか?」
「薬師なら、村の端にエルマさんがいるが……」
村人の案内に従い、雄介はすぐに薬師の棚が並ぶ素朴な小屋へと向かった。
◆
「消毒に使える薬はあるか?」
開口一番に尋ねた雄介に、薬草の干し束を抱えた老薬師・エルマは目を丸くした。
「消毒……? 傷口を洗い流したり、腐敗を防ぐ薬のことかい? それなら、いくつかあるがね」
「成分はなんだ?」
「……せいぶん?」
エルマがちんぷんかんぷんといった様子で首を傾げる。
「ああ、すまん。……その薬の色は?」
「色かい? 薬草を煮詰めて抽出した、深い茶色い液体だよ」
「茶色?」
雄介の目が一瞬光った。
「ヨウ素は入っているか?」
「ヨウ……素……?」
エルマは聞いたこともない単語に、ますます首を傾げるばかりだ。
(……ああ、そうか。そもそも化学や元素記号なんて概念自体が存在しない世界か)
雄介は自分の問いかけを訂正した。 現代で皮膚消毒の王道といえば『ポビドンヨード(イソジン)』だ。アルコール系の殺菌剤は粘膜近くや開放創に使用すると強力な刺激と組織傷害を引き起こすが、ポビドンヨードなら皮膚や創傷面にも低刺激で優れた殺菌力を発揮する。
「言い方を変えよう。アルコールみたいに刺すような激痛がなくて、皮膚や傷口に直接塗っても傷まない、強力な殺菌効果を持った液体が欲しいんだ。作れるか?」
エルマは顎に手を当て、薬棚の瓶をいくつか眺めながら考え込んだ。
「ううん……それなら、浄化作用のある『月光草』の抽出液と、魔素を帯びた『琥珀の樹液』を混ぜ合わせた霊薬が近いかもしれないねぇ。傷口に塗ってもほとんど沁みないが、雑菌の繁殖を強く抑える力がある」
「色は?」
「綺麗な琥珀色……濃い茶褐色になるよ」
(見た目も効果も、ほぼポビドンヨードの代用品として使えそうだな……!)
完全に現代のポビドンヨードを再現する必要はない。要は、術野の皮膚常在菌を殺菌し、無菌状態を作れればいいのだ。
「それだ。それを大量に用意してくれ。手術前、彼女の顔と周辺を徹底的に清拭するのに使う」
「分かったよ。すぐ精製に取りかかろう」
「異世界版ポビドンヨード」の確保に目処がついた。
次に向かったのは、村の簡易的な診療所――怪我人を寝かせるための木製ベッドが置かれた部屋だった。
雄介は横たわるベッドを見下ろし、眉をひそめた。
「……これじゃ低いな」
案内してきた村人が首を傾げる。
「低い? 患者を寝かせられれば十分だろう?」
「ダメだ。俺は立って手術する。この高さじゃ、俺がずっと腰を折って覗き込む形になる。数時間に及ぶミリ単位の精密なオペで、執刀医の体幹がブレたら命取りだ」
雄介は一切の妥協なく指示を出した。
「患者を横たえる台――『手術台』が必要だ」
雄介は村の大工を呼び寄せると、床に直接棒きれで図を描きながら要求を伝えた。
高さは俺のみぞおちの少し下(立ち姿勢で手元が自然に固定できる高さ)。
ぐらつきが一切ない絶対的な安定性。
頭部がしっかり固定でき、俺が頭側や側面に無理なくアクセスできる形状。
何より、表面に汚れがつかないよう、煮沸消毒した清潔な布を何重にも敷き詰められる平坦さ。
「ただの寝台じゃねえ……患者を料理……いや、精密に治療するための専用の台ってことだな?」
大工は雄介の真剣な眼差しに気圧されながらも、力強く頷いた。
「よし分かった! 村の頑丈なオーク材を使って、びくともしねえ台を今すぐ組み立ててやる!」
「頼む」
単なる「患者を寝かせるベッド」が、職人たちの手によって、命を預かる「手術台」へと作り替えられていく。
道具、消毒液、手術台。 異世界の素朴な集落の中に、ひとつ、またひとつと「オペ室」のピースが組み上がろうとしていた。
手術台の寸法を指示し終えた雄介は、再び医療用メモ帳を開き、ボールペンを素早く走らせた。
「それから、衛生資材だ。まず清潔な布。これは大量に要る」
周りに集まっていた村人たちに、雄介は矢継ぎ早に箇条書きにした紙を見せた。
「傷口をぬぐうためのガーゼ。手に嵌めるための薄手の布……できればフィットする皮かゴムに近い手袋。口元を覆うマスク。髪の毛が落ちないよう頭を覆うもの。それから、仕上がった器械を包んで保管しておくための清潔な布も必要だ」
「な、なんだって……!?」
村人のひとりが呆れたように声を張り上げた。
「ただ傷を縫うだけだろ!? 服の上からパパッとやればいいじゃないか! なんでそんな、布だの頭を包むものだのが大量に要るんだよ!?」
周囲の村人たちも、「大袈裟じゃないか」「そんなに布を使ったら洗濯が大変だ」と口々に囁き合う。
だが、雄介の返答は即座だった。
「必要だ」
一切の揺らぎがない、静かな即答。 雄介はペンを止め、村人たちをまっすぐに見据えた。
「手術で一番怖いのは……俺が手を滑らせることじゃない」
ほんのわずかな間。静寂が場を包む。
「――患者の身体に、余計なものを持ち込むことだ」
落ちた髪の毛一本、飛び散った唾液一滴、服についた僅かなほこり。それらが傷口に入り込めば、感染症という目に見えない悪魔が患者を襲い、最悪の場合は命を奪う。 美容外科医として、何千回とオペ室に立ってきた雄介だからこそ知っている、絶対の鉄則だった。
重苦しい迫力に圧され、文句を言っていた村人たちはゴクリと唾を呑み込んで引き下がった。
◆
そこへ、研ぎ直しを終えたガルドが息を切らせて戻ってきた。
「おい! 器具の研ぎ直しと細細した調整が終わったぞ! 洗い桶で綺麗に水洗いも済ませた!」
ガルドが自信満々に差し出した器械の数々を、雄介は見つめた。
「……器械は、できた」
だが、雄介はそのまま手を伸ばそうとはしなかった。
「滅菌は?」
「あ? ……だから、綺麗に洗ったって言ったろ」
「洗浄じゃない。滅菌だ」
「お、同じだろ? 汚れを落としたんだからよ」
「違う」
その瞬間、場の中和されたような空気が一変した。 雄介の周囲の温度が、一気に一段下がったかのような錯覚を覚える。
さきほどまで少女に優しく声をかけていた「優しいお兄さん」の顔はそこにはない。 妥協を一切許さない、オペ室の責任者――「執刀医」としての冷徹な顔がそこにあった。
「洗浄は目に見える汚れを落とすだけだ。滅菌は、目に見えない微生物――菌を完全に死滅させる作業のことを言う。これを怠れば、患者の顔の中で細菌が増殖し、腐敗する」
雄介は周囲を見渡した。現代の病院であれば、中央材料室に当たり前のように鎮座している『あの装置』を探すように。
「高圧蒸気滅菌器は?」
「……何です、それは」
ガルドが首を傾げる。雄介は無意識に専門用語を口にしていた。
「オートクレーブだ。……じゃあ、EOG(酸化エチレンガス)滅菌器は?」
「……?」
「低温プラズマは……!」
「……先生、さっきから何言ってるんですか?」
怯えたような村人の声に、雄介の言葉が途切れた。
無機質で清潔なステンレスの壁。 ボタンひとつで二気圧、百二十一気圧の高温蒸気を生み出し、あらゆる菌を死滅させるオートクレーブの稼働音。 使い捨ての滅菌パック、使い捨てのメス刃、無菌のドレープ――。
現代の医療現場で「当たり前」として教授していた恩恵が、この世界には何ひとつ存在しない。
雄介は目を閉じ、数秒間、沈黙した。
「……そうだった」
ぽつりと溢れた呟きには、重い現実の重みが乗っていた。
ここは、現代の病院ではない。 異世界だ。 オートクレーブもない。EOGもない。プラズマ滅菌器もない。滅菌パックすら存在しないのだ。
(……嘆いていても始まらない。無いなら、作るしかない)
雄介はすぐに思考を切り替えた。
(煮沸……ただ水で煮るだけでは、芽胞菌などの熱に強い菌を殺しきれない可能性がある。高圧蒸気滅菌の原理は、密閉して圧力をかけ、水の沸点を上げることで百二十度以上の高温蒸気を作り出すことだ)
「なら、蒸気だ」
雄介は目を開き、ガルドに向き直った。
「沸騰させるだけじゃ駄目だ。単に湯に浸けるだけじゃなく、高い圧力と温度、そして時間を正確に管理する必要がある。ガルドさん……密閉できる頑丈な金属容器を作れるか?」
「密閉できる容器……? 蒸気を逃がさねえようにするのか?」
「そうだ。中に少量の水を張り、密閉した状態で加熱する。蒸気の逃げ場を無くすことで内部の圧力を上げ、通常よりもはるかに高い温度の蒸気を発生させるんだ」
ガルドは太い首を捻った。
「何のためにそんな面倒なことをするんだ? 魔物でも中に閉じ込めて蒸し焼きにでもする気か?」
「細菌だ」
「……また知らない言葉が出てきたな」
呆れるガルドだったが、雄介の目は大真面目だった。
「目に見えないほど小さな病気の元だ。熱に強い奴らも、高圧の高温蒸気に二十分以上晒せば全滅する。それができなければ、オペは許可できない」
「高圧の蒸気を閉じ込める金属釜か……。普通に鉄を叩いて作っただけじゃ、圧に負けて蓋が吹き飛ぶぞ。爆発でもしたら大事だ」
ガルドは腕を組み、うーむと唸った。
「……待てよ。それなら、村の防衛用にストックしてある『耐圧用の魔導石』を組み込むのはどうだ?」
「魔導石?」
「ああ。魔力を通すと硬度が跳ね上がり、内部の衝撃や圧力を極限まで抑え込む性質を持つ鉱石だ。頑丈な鉄釜の接合部と蓋にその魔導石を組み込めば、中からの強い蒸気圧にも耐えられる密封釜――『耐圧魔導釜』ができる」
雄介自身は魔法を使えない。 だが、この世界の「魔導技術」を医療機器の原理と組み合わせれば、現代のオートクレーブに勝るとも劣らない加熱滅菌装置が再現できる。
「それだ」
雄介の顔に、確信に満ちた笑みが浮かんだ。
「作ってくれ、ガルドさん。それがこの異世界での……俺たちの『高圧蒸気滅菌器』になる!」
◆
数時間後――ガルドが突貫工事で作り上げた『耐圧魔導釜』に火がくべられ、内部で高圧の高温蒸気が満ちた。 徹底的な滅菌処理を経て、乾燥された器具一式が集会場の奥、清潔に区切られた一角へと運び込まれる。
そこに整えられたのは、この異世界で初となる「簡易手術室」だった。
中央には、大工の手によって頑丈かつ雄介の身長に合わせて作られた粗末な木製の手術台。 その周囲には、光を一点に集中させるよう金属板の反射板を取り付けた、簡易的な照明。
横に設置された器械台の上には、滅菌済みの布の上に整然と並べられた器具たち。
・冴え冴えとした刃を立てる、細身のメス。 ・止血鉗子。 ・鑷子。 ・持針器と、極細の縫合針。
さらに、煮沸消毒された無菌の布、綿から精製したガーゼ、手になじむよう薄く削がれた柔軟な革手袋。 そして、老薬師エルマが精製した、怪しくも美しい琥珀色の殺菌液。
雄介は静まり返る部屋の中で、完成した「オペ室」の全体をゆっくりと見回した。
モニターもない。無影灯もない。電動の手術台も、吸引器もない。
「……足りないものは多い」
ぽつりと呟く。現代の最新設備と比べれば、あまりにも原始的で、あまりにも不完全な環境だ。
それでも――雄介の瞳に確固たる強い光が宿る。
「……これなら、やれる」
医者としての経験と、この村の者たちが全力を尽くして用意してくれた道具がある。勝算は十分だった。
雄介は深呼吸をひとつ吐き出し、部屋の外で不安そうに待機していた少女を招き入れた。
「入ってくれ」
「あ……はい……」
少女は恐る恐る足を踏み入れ、見慣れない道具が並ぶ異様な空間に緊張した面持ちで佇んだ。
雄介は手術台の脇にある椅子を指差し、自らも少女と目を合わせる高さに腰を下ろした。 医師として、命と身体を預かる前に行わねばならない最も重要な儀式――インフォームド・コンセント(説明と同意)を行うためだ。
「手術に入る前に、きちんと言っておかなきゃいけない話がある」
雄介は誤魔化すことなく、真直ぐに少女の瞳を見つめた。
「今回の手術で……傷を完全に消せるとは約束できない」
「え……?」
少女の頬がかすかに強張る。雄介はあえて期待値を下げるように、淡々と、しかし優しく言葉を続けた。
「今の君の傷は、無理な治癒で皮膚が強く引きつれ、引きつれている状態だ。専門用語では瘢痕拘縮と言う。だから一度、傷になった部分を細かく切り開いて、中で硬くなっている組織を取り除く。その上で、皮膚をパズルのように組み替えて、できるだけ自然なシワの形に合わせて縫い直すんだ」
「切り……開く……」
「そうだ。そして……君が一番気にしている痛みについてだが」
雄介は少女の動揺を受け止めながら、正直に伝えた。
「『痛覚遮断の魔法』を使う。だから激痛はない。……ただ、完全に何も感じなくなるわけじゃないんだ。皮膚を切られたり、引っ張られたりする『感覚』そのものは残る。それに……」
雄介は姿勢を正し、リスクをひとつひとつ列挙していった。
「手術である以上、リスクはゼロじゃない。術後の感染症、出血、糸が解けて傷がまた開いてしまう可能性。それに、どんなに綺麗に縫っても、細い一線の傷跡自体は残る。今よりずっと目立たなくはなるが、生まれた時の真っ新な肌に戻るわけじゃない」
説明を聞くにつれ、少女の肩が小さく震え始めた。 切り開く恐怖。痛みの感覚。感染のリスク。未知の手術に対する不安が、彼女の小さな身体を苛む。
雄介は少女を追い詰めるような真似はしなかった。ただ淡々と、静かに告げた。
「……怖いなら、やめてもいい」
「……え?」
「『治してやる』と無理強いするつもりはない。自分の身体にメスを入れるかどうかも、リスクを受け入れて一歩踏み出すかどうかも……全部、君自身が決めろ」
患者の人生を決める権利は、医者にはない。選択肢を提示し、リスクを伝え、最後の決断を患者に委ねる。それが現代医療における誠実さであり、美容外科医としての雄介の美学だった。
静寂が室内を支配する。 少女は自分の両手を強く握りしめ、俯いた。 頭の中で、恐怖と、これまでの苦痛が激しく渦巻いているのが分かった。
鏡を見るたびに落胆した日々。 まともに笑うことすらできず、引きつる頬を庇って暮らしてきた時間。
(私……このままでいいの……?)
少女はゆっくりと顔を上げた。 涙に濡れた瞳の奥に、怯えを上回る強い意志の火が灯っていた。
「……治したいです」
「本当に?」
「はい。……怖いです。すごく怖いけど……私、もう笑うのを諦めたくありません。……お兄さん、私を治療してください!」
まっすぐな懇願を受け止め、雄介の口元にふっと柔らかい笑みが浮かんだ。
「――分かった」
雄介は静かに立ち上がり、白衣の袖を捲り上げた。 琥珀色の消毒液で手を清め、滅菌された革手袋に指を通していく。
「じゃあ、始めよう」
異世界における最初の美容外科手術の火蓋が、今、切られようとしていた。
異世界でオペ大体の中世異世界だと清潔の概念が気になってしまう今日この頃です。
あくまでファンタジー×医療ですので生暖かい目で見てくれると嬉しいです!
ブクマと他作品も見てくれると小躍りします!
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
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