第9話「偽りの治癒」
典薬寮の空気は、梅雨の晴れ間の湿気を含んで重かった。
景光がいつものように薬草の選別をしていると、廊下を慌ただしく走る足音が近づいてきた。
「景光、大変!」
綾子が御簾を勢いよく跳ね上げて入ってくる。白梅の香が、激しい動きで部屋の薬臭をかき回した。
「静かにしろ。粉末が飛ぶ」
「そんなこと言ってる場合じゃないの。物部のお殿様が、お上の御病気を一瞬で治す『神薬』を見つけたって、宮中で大評判になってる」
景光の、生薬を刻む薬刀がぴたりと止まった。
「神薬だと」
「ええ。ここ数日、お上がお患いになっていた重い咳と熱が、物部貞文様の献上した薬を飲んだ途端、劇的に回復されたそうなのです」
部屋の隅から、低い声が重なった。
「……嫌な予感がしますね」
いつの間にか気配もなく立っていた源清重が、刀の柄に手をかけたまま、鋭い目を窓の外に向けている。
「今まで宮中を混乱させようとしていた物部が、今度は救世主の顔をして現れたわけですか」
「その『神薬』の匂い、確かめに行くぞ」
景光は薬箱を肩にかけ、すぐに歩き出した。
お上の御殿へと続く廊下には、すでに独特の匂いが漂っていた。
通常の典薬寮が調合する甘草や紫根の匂いではない。もっと暴力的で、脳を直接刺すような、妙にすっきりとした匂いだ。
御殿の前に着くと、そこには清重たちによってすでに連絡を受けていたのか、陰陽寮の賀茂輪狗も待っていた。
「遅いぞ、薬師。お前が典薬寮で引きこもっている間に、陰陽寮も典薬寮も、まとめて物部の手柄に泥を塗られた形だ」
輪狗は不敵に笑っているが、その目の奥は笑っていなかった。
「お上の御病気が治ったのは良いことですが……物部貞文が動いたとなれば、ただの親切心であるはずがありません」
清重が周囲を警戒しながら言う。
「中へ入るぞ」
御殿の御簾越しに、景光は深く息を吸い込んだ。
お上の顔色は確かに良くなっている。しかし、景光の鼻が捉えたのは、その身体から発せられる微かな「歪み」の匂いだった。
(これは……劇薬だ)
「景光、何が分かったの?」
綾子が小声で耳元に囁く。
「麻沸散の類だ。それに、特定の強い毒性を持つ生薬を、極限まで薄めて混ぜてある」
景光は冷徹な声で言った。
「病が治ったのではない。薬の強い麻痺作用で、一時的に痛みの感覚と咳の症状を『抑え込んで』いるだけに過ぎない。こんなものを続ければ、数日後には反動で、お上の御身体は前よりも悪化する」
「つまり、偽りの奇跡か」
輪狗が忌々しそうに符を指の間に挟んだ。
「物部は最初からこれが狙いだったのだ。わざと宮中に『呪いの香』や『物の怪』を流行らせて不安を煽り、最後にお上の病を『神薬』で治してみせることで、自らの権威を一気に頂点へ持っていく腹積もりだ」
「問題は、その薬がまだお上の手元にあるということだ。次の分を飲ませるわけにはいかない」
清重が言った。
「しかし、今の物部は『お上の救い主』です。何の証拠もなくその薬を取り上げれば、我々が謀反人として捕らえられます」
「なら、その神薬とやらが『毒』である証拠を、今ここで作ればいい」
景光は薬箱から、小さなガラスの器を取り出した。中には、無色の液体が入っている。
「これは?」
綾子が尋ねる。
「私が独自に作った試薬だ。あの神薬に含まれる特定の毒成分に反応すれば、一瞬で黒く濁る。お上の身の回りを世話する女房の中に、物部から次の薬を預かっている者がいるはずだ」
景光の目が、御殿の奥に立つ一人の女房に留まった。
その女房からは、お上に漂うものと全く同じ、脳を刺すような神薬の匂いが強く香っていた。
「そこへ直れ」
清重がその女房の前に立ち塞がった。
「な、何事ですか! 私は物部様より、お上の次の御薬を仰せつかっているのですぞ!」
女房が叫ぶと、周囲の近衛兵たちが一斉にざわめき、刀に手をかけた。
「待ちなさい!」
その場を制したのは、廊下の向こうから走ってきた菅原朝葉だった。
「近衛の皆さん、控えなさい。この景光様は、典薬寮でも並ぶ者のない薬師です。その方が不審を抱いたということは、お上の御身体に万が一のことが関わっているやもしれません」
朝葉の毅然とした態度に、兵たちの動きが一瞬止まる。
「お借りする」
景光は女房の手から、布に包まれた薬の器を強引に奪い取った。
そして、自らの試薬をその中へ一滴、落とす。
「あっ……!」
綾子が声をあげた。
琥珀色だった神薬の液体が、瞬く間に、どす黒い墨のような色へと変色していった。
「これが、物部貞文の『神薬』の正体だ」
景光は黒く濁った器を、兵たちの前に突き出した。
「一時は症状を消すが、実態は五臓六腑を蝕む猛毒。お上を人質に取り、宮中を支配するための偽りの治癒だ」
「おのれ、物部の狗め!」
清重がその女房を組み伏せる。女房は顔を真っ青にし、その場に泣き崩れた。
「やったね、景光!」
綾子が嬉しそうに微笑む。しかし、景光の表情はまだ硬いままだった。
「……いや、これは宣戦布告だ」
輪狗が、濁った薬を見つめながら低く呟いた。
「これで物部の退路は断たれた。偽りの奇跡が暴かれた以上、奴らはもう、なりふり構わない手段に出てくるぞ」
その夜、安倍惟忠の屋敷。
「ついに物部貞文の急所を突いたな、景光殿」
惟忠は重々しくうなずいた。お上には景光が急ぎ調合した本物の解毒薬が処方され、危機を脱したという。
「物部貞文は、自らの計画がすべて一人の薬師の『鼻』によって瓦解させられたことを知った。奴は激怒している。……もはや、宮中の中での暗闘という生易しい段階は終わった」
惟忠は立ち上がり、景光、綾子、清重、そして今回同行した輪狗を順に見据えた。
「総力戦になる。奴らの本拠地へ踏み込む時が来たようだ」
景光は静かに薬箱を撫でた。
夜風に乗って、遠くから焦げ付いたような、巨大な陰謀の匂いが近づいてくるのを、彼の鼻ははっきりと捉えていた。
第9話「偽りの治癒」 了




