第8話「虚実の陰陽」
典薬寮の薬棚の前に、その男はまるで最初からそこに染み付いていた影のように立っていた。
「相変わらず、陰気な匂いの籠もる部屋だな、景光」
狩衣の袖を優雅に翻し、傲然と鼻で笑ったのは、陰陽寮の得業生・賀茂輪狗だった。
整った顔立ちに、自信に満ちた薄い笑みを浮かべている。
景光とは顔を合わせれば一言二言は棘を刺し合う、呪術と医薬の「へだたり」を体現したような男だった。
景光は振り返りもせず、芍薬の薬包の匂いを嗅ぎ分けた。
「陰陽師が典薬寮に何の用だ。狐の毛の匂いが混ざる。出ていけ」
「相変わらずの手厳しい歓迎、恐悦至極。だがな、今日は物嫌いのお前の耳にも入れておくべき怪異があって足を運んでやったのだ」
「怪異なら陰陽寮で片付けろ。私の領分ではない」
「それが、そうもいかないのだよ」
輪狗がふっと笑みを消し、声を潜めた。
その瞬間、部屋の隅の暗がりから、革帯の擦れる硬い音がした。
源清重が音もなく片手を刀の柄にかけ、輪狗の動向を冷たい目で見据えている。
「……続けろ、陰陽生」と清重が促す。
輪狗は清重をちらりと一瞥し、再び景光に向き直った。
「内裏の五節所で、夜な夜な『血の涙を流す物の怪』が出るという噂が流れている。そして昨夜、一人の若侍がそれを見て腰を抜かし、今も高熱を出してうわ言を繰り返している。陰陽寮の見立ては『悪霊の祟り』だ。だがな――」
輪狗は懐から、ちいさな裂地を取り出した。
「その現場に落ちていたこれを私の式神が拾ってきた。物の怪が落としたにしては、いささか世俗的な匂いがしてね。お前の鼻なら、この『祟り』の裏地が見えるかと思ってな」
景光は箆を置き、輪狗の手にある裂地を受け取った。
泥と、夜露に濡れた絹の感触。鼻先へ近づけ、ゆっくりと息を吸い込む。
(……これは)
「景光、何か分かった?」
傍らで見守っていた綾子が、覗き込むようにして聞いた。白梅の香が、景光の緊張をわずかに和らげる。
「朱砂だ」と景光は言った。
「それと、竜脳、それに……微かに牛黄の匂いが混ざっている」
「朱砂って、水銀の? じゃあ、血の涙っていうのは……」
「人工的に作られた偽物の血だ。竜脳と牛黄を混ぜて練ることで、暗がりでも特有の艶を持ち、乾きにくくしてある。そして何より――」
景光は裂地を清重に渡した。
「この牛黄の質、有澄が持っていた、物部側の毒香に使われていたものと酷似している。同じ仕入れ元から出たものだ」
清重の目が細くなった。
「なるほど。物の怪を仕立て上げて内裏に騒ぎを起こし、人を遠ざける。その隙に奴らが何かをしようとしているわけですか」
輪狗がくくっと喉を鳴らして笑った。
「面白い。陰陽寮の阿呆どもは『貞観の怨霊だ』などと大真面目に祈祷の準備を進めているが、やはり物部の姑息な目くらましだったか。おい薬師、その偽物の物の怪、私の手で化けの皮を剥いでやりたい。案内しろ」
「私が案内するのではない。匂いを追うだけだ」
夜の五節所は、月明かりも届かない深い闇に包まれていた。
昼間の華やかさは消え失せ、古い木造のきしむ音と、冷たい夜風が吹き抜けるだけの寂涼とした空間だ。
景光を先頭に、綾子、清重、そして輪狗が半歩遅れて進む。四人の足音が静まり返った廊下に響く。
「――来るぞ」
景光が足を止めた。風の下から、昼間に嗅いだ「朱砂と竜脳」の、あの甘苦い匂いが明確に漂ってきた。
「どこだ?」
輪狗が懐の符に手をかける。
「前方、角を曲がった御簾の奥だ。……待て、匂いが動いている。一人じゃない」
清重が音もなく刀を抜き放ち、景光たちの前に出た。
角を曲がった瞬間、闇の中に「それ」が現れた。白い装束をまとい、顔中からだらだらと赤い血を流した、不気味な人影。まさに噂の『血の涙を流す物の怪』だった。
「ふん、小細工を!」
輪狗が叫び、符を投げつけようとしたその時、物の怪の背後の闇から、もう一つの影が飛び出してきた。
「そこまでだ」
低い、鋭い声。それは物の怪を仕留めようと、逆の通路から伏せていた別の武士――物部貞文の手の者だった。
「伏せろ!」
清重が叫ぶと同時に、火花が散った。
清重の刀が、闇から襲いかかった暗殺者の刃を完璧に受け止める。キン、と高い金属音が五節所の夜を切り裂いた。
「物の怪の正体を見せてもらおうか!」
輪狗が放った符が、白い装束の男の足元でパッと小さな光を放った。驚いた男が仮面を落とす。月光に晒されたのは、物部のお家に仕えるしがない下級官人の顔だった。
「ひ、ひえっ……!」
「やはりな」
景光は近づき、男の袖を掴んだ。
「お前の懐にある器から、朱砂の匂いが溢れている。物の怪の正体は、宮中の夜間警固を薄くするための、ただの案山子だ」
清重と切り結んでいた暗殺者は、計画が完全に露見したと悟るや否や、清重の刃を強引に弾き返し、窓を破って夜の闇へと飛び降りた。
「追いますか、清重さん!」綾子が叫ぶ。
「いえ、深追いは禁物です。こちらの警固の網にかかるでしょう」
清重は刀を鞘に戻し、静かに息を整えた。その横で、捕らえられた男がガタガタと震えながら床に伏している。
「おい、薬師」
輪狗が、落ちた仮面を木履で突きながら言った。いつもの不敵な笑みが戻っている。
「陰陽寮の面目が潰れるところを、お前の鼻に救われたな。……癪だが、感謝しておいてやる」
「お前に感謝される筋合いはない。私は毒の匂いを追っただけだ」
「相変わらず可愛げのない男だ。だが――」
輪狗は景光の肩をぽんと叩いた。
「物部貞文の仕掛けは、陰陽の理すら歪めて宮中を貪ろうとしている。今回の件、私も寮内で少し突っついてみるさ。お前だけに良い格好をさせておくのも気に入らんからな」
景光は何も答えなかったが、輪狗が珍しく「己の領分」において憤っているのは分かった。
陰陽師と薬師。
交わることのないはずの二人の火花が、今、物部という巨大な闇に対して同じ方向を向いた瞬間だった。
翌朝、安倍惟忠の屋敷。
「物の怪の正体が物部の工作員であったこと、そして陰陽寮の賀茂の協力があったこと、確かに確認した」
惟忠は机の上の報告書を閉じ、景光たちを見据えた。
「物部は、宮中全体を怪異の恐怖で縛り、自らの兵や密偵を自由に動かせる『空白の時間』を作ろうとしていたのだな。それを景光殿の嗅覚と、輪狗の意地が暴いた。見事だ」
惟忠は清重に向き直った。
「清重、物部貞文はいよいよ焦り始めている。手口が雑になり、かつ大胆になっている。景光殿の身辺、一瞬たりとも目を離すな」
「はっ。この命、すでに彼の影として捧げております」
典薬寮への帰り道、朝の光が廊下を白く照らしていた。
「輪狗様、文句ばっかり言ってたけど、本当は景光のことが心配だったのかもね」
綾子がクスクスと笑いながら歩く。
「あいつは自分の縄張りを荒らされたのが気に入らないだけだ」
と景光はそっけなく言った。
「それでも」と、半歩後ろを歩く清重が口を開く。
「仲間が増えるというのは、悪いことではありません。物部貞文という巨大な壁を穿つには、我々だけの力では足りないかもしれない。……少しずつですが、潮目が変わり始めていますよ、景光殿」
景光は答えず、いつものように典薬寮の扉を開けた。
充満する薬の匂い。
その中に、新しく加わった「変革」の匂いを、景光の鼻は確かに捉えていた。
第8話「虚実の陰陽」 了




