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香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


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第7話「白と黒の境界」


典薬寮の裏手にある薬煎所やくせんじょは、いつも強烈な生薬の匂いがこもる場所だ。


 大釜から立ち上る蒸気、煎じ詰められる葛根や柴胡の苦い匂い。


普通の人間なら数分と持たずに頭痛を訴えるその空間が、今の景光にとっては最も落ち着く避難所だった。


物部貞文の「耳目」であった女房を捕らえて以来、宮中での景光を見る目は明らかに変わっていた。


「奇妙な薬師」から、「あらゆる陰謀を嗅ぎつける恐るべき鼻」へ。


向けられる視線の質が変われば、空気の匂いも変わる。猜疑と恐怖の匂いだ。


 「――やっぱりここにいた」


 御簾をくぐって入ってきたのは、綾子だった。白梅の香が、蒸気の中に一筋の涼風を吹き込む。


 「何の用だ。今は火加減が大事なところだ」


 景光はへらを動かしたまま、振り返りもしなかった。


 「惟忠殿から文が届いたの。東三条のあの空き家の近くで、また動きがあったって。清重さんはもう先に向かってる。……景光、行くでしょ?」


 景光は箆の手を止めた。


大釜の底から、わずかに焦げ付く直前の、鋭い生薬の匂いが上がってくる。


 「行く。この火は他の者に任せる」


 東三条の外れ、第三話で変死体が見つかったあの崩れかけた空き家は、今や検非違使の手によって封鎖されていた。


 しかし、そのすぐ近くを流れる堀の土手には、すでに源清重が立っていた。腕を組み、鋭い目を川面に向けている。


景光と綾子が近づくと、清重は振り返らずに言った。


 「遅かったですね、景光殿。……ですが、間に合ったと言えるかもしれません」


 「何があった」


 景光が問うと、清重は土手の一角、草が激しく踏み荒らされた場所を指差した。


 「先ほど、この堀に一人の男が飛び込みました。検非違使の見張りが気づいて追ったのですが、男は泳いで対岸へ逃げ去った。……ただ、逃げる際にこれを落としていきました」


 清重の手のひらにあったのは、泥に汚れた小さな薬包だった。


 景光はそれを受け取り、泥を指先で拭ってから匂いを嗅いだ。


 一秒。


景光の眉が跳ね上がる。


 「……桂皮だ。それも、かなり多めに使われている」


 綾子が小さく息を飲んだ。


 「桂皮を多めに使うって、まさか……」


 「有澄ありずみだ」


 景光は薬包をきつく握りしめた。


冬哉の件の際、潔白が証明されたはずの、かつての同僚。


有澄の独自の調合の癖が、なぜ今、物部の陰謀の影がちらつくこの東三条の堀端に落ちているのか。


 「匂いはまだ残っている」


 景光は土手を下り、対岸へと視線を向けた。


 「水に濡れてはいるが、奴の体から染み出す桂皮の匂いは完全に消えていない。風は西へ吹いている。追うぞ、清重」


 「御意」


 清重の目が戦闘のそれへと変わる。三人は堀に架かる小さな橋を渡り、対岸の狭い路地へと踏み込んだ。


 路地は入り組んでおり、日当たりが悪い。魚の腐った匂い、生活排水の匂いが景光の鼻を邪魔するが、その奥にある「乾いた、甘辛い桂皮の匂い」だけを、景光は針の穴を通すように正確に拾い上げていく。


 「あそこだ」


 景光が指差したのは、民家の壁に挟まれた、行き止まりの暗がりだった。


 そこに、一人の男が背中を丸めて座り込んでいた。着物は水で濡れそぼり、激しく肩で息をしている。


 清重が音もなく間合いを詰め、刀の柄に手をかけた。


 「動くな。それ以上動けば、容赦はせん」


 男がゆっくりと顔を上げた。


 「……景光か」


 低く、掠れた声。それは間違いなく、かつて典薬寮を去った薬師・有澄のものだった。


四十絡みのその顔は、以前に市で見かけた時よりもひどくやつれ、目の奥には深い絶望の色が滲んでいた。


 「有澄。なぜお前がここにいる」


 景光は一歩前に出た。綾子がその斜め後ろに立ち、いつでも景光を庇えるように身構える。


 有澄は自嘲気味に笑った。


 「なぜ、だと? お前にはわからないだろうな、景光。お前が私の潔白を証明してくれた時、私は救われたと思った。だが……それは間違いだったのだ」


 有澄は濡れた手を地面についた。


 「物部貞文の執拗さは、お前の想像を絶する。奴らは、私の元弟子である冬哉の命を盾に取ったのだ。実頼に毒を盛った冬哉は、惟忠殿の預かりとなったはずだったが……物部の手の者は、すでに冬哉の監禁場所を突き止め、いつでも殺せる状態にしていると私を脅してきた」


 「冬哉を……」


 綾子が小さく声を漏らす。


 「奴らの要求は一つ。香司の帳面から書き写したあの『呪いの香』の配合を、さらに改良し、より短時間で確実に標的を狂わせる毒香どくこうを作れ、ということだ。私は……冬哉を救うために、その要求を飲むしかなかった」


 有澄は懐から、もう一つの薬包を取り出した。


それは、先ほど清重が拾ったものよりも一回り大きく、不気味な黒い粉末が覗いていた。


 「これが、私が完成させてしまったものだ。これを今日、東三条の連絡員に渡すはずだった。だが、検非違使に見つかり……」


 「それを渡せ、有澄」


 景光の声は冷徹だった。同情の色は一切ない。


 「お前が作ったそれは、多くの人間を狂わせる。薬師の腕を、そのようなもののために使うな」


 「うるさい!」


 有澄が叫んだ。


 「お前のように、純粋に薬の道だけを歩んでいられる天才には、底辺を這いずる者の気持ちなどわかるまい! 私は冬哉を救いたいだけだ! そのためなら、私は白から黒へ落ちることも厭わん!」


 有澄は黒い薬包を高く掲げ、地面に叩きつけようとした。煙を発生させて逃亡を図る気だ。


 だが、その腕が振り下ろされるより早く、清重の身体が動いた。


 極限まで無駄を削ぎ落とした一歩。


清重は有澄の懐へと潜り込み、その手首を掴んで上空へとねじ上げた。


カサリ、と乾いた音を立てて、黒い薬包が清重の手の中に収まる。


 「そこまでだ、薬師」


 清重の低い声が、路地の壁に跳ね返った。


 有澄はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆ってむせび泣いた。


 景光は清重から黒い薬包を受け取り、その匂いを静かに嗅いだ。


 「……曼陀羅華の毒性を、桂皮の温熱作用で数倍に引き上げてある。吸えば一刻と持たずに正気を失う。実に見事な、そして醜い調合だ」


 景光はそう言うと、有澄を見下ろした。


 「有澄。冬哉は死なない」


 有澄が涙に濡れた顔を上げる。


 「惟忠殿は、お前が思うほど無能ではない。物部が冬哉の居場所を狙っていることなど、とっくに織り込み済みだ。清重、そうだな」


 「ええ」と清重はうなずいた。


 「冬哉殿の身柄は、すでに昨夜のうちに、私の息がかかった別の隠れ家へと移してあります。物部が今掴んでいる居場所は、ただの空箱です。有澄殿、あなたは騙されていたのですよ」


 有澄は目を見開いた。驚愕と、そして、濁った泥が洗い流されるような、深い安堵がその顔に広がっていく。


 「そうか……。冬哉は、無事なのか……」


 有澄は、清重の手によって安倍惟忠の元へと護送されることになった。


今回は罪を犯しかけたとはいえ、脅迫によるものであり、毒の拡散を防いだ功績を考慮し、惟忠の庇護下に置かれる手筈となった。


 夕刻、東三条の橋の上。


 景光と綾子は並んで歩いていた。清重は半歩後ろから、取り戻した毒香の包みを慎重に抱えてついている。


 「景光」


 綾子が、川面を染める夕日を見つめながら言った。


 「有澄さん、最後に『白から黒へ落ちる』って言ってたね。……宮中の中は、本当に白と黒が入り混じっていて、何が正しいのかわからなくなるよ」


 景光は足を止めず、前を向いたまま答えた。


 「匂いに白黒はない。生薬も、毒も、ただそこにある物質だ。それをどう使うか、人間が勝手に線を引いているだけに過ぎない」


 景光の言葉に、清重が後ろから小さく笑声を漏らした。


 「相変わらず、突き放したような言い方ですね。ですが、その『線を引かない』あなたの目が、結果的に有澄殿を暗闇から引き戻した。……物部も、まさか自分の脅迫がこうも早く破られるとは思っていまい」


 景光は何も言わなかった。


ただ、懐に残るかすかな桂皮の匂いを感じながら、典薬寮へと続く道を歩き続けた。


 宮中の闇は深さを増していく。


だが、その境界線を進む三人の影は、もはや何者にも惑わされない強さを持っていた。



          第7話「白と黒の境界」 了

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