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香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


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第6話「交錯する火花」


内裏の空気は、日ごとに張り詰めていくようだった。


 物部貞文が描く大きな「絵」の端々を、景光の鼻と清重の目が破り取ってきた。


典薬寮の薬棚、東三条の変死体、そして香司の帳面。


どれも表向きは単発の事件や事故として処理されていたが、宮中の底流で不穏な泥がうごめいていることは、もはや隠しようがなかった。


 「また難しそうな顔をして」


 いつもの声がした。綾子が運んできた白梅の香が、棚に並ぶ細辛さいしんの鋭い匂いをふわりと包む。


 「何も考えていない」と景光は言った。


 「嘘。手を動かしてないもん。景光は頭を整理するときだけ、そうやって薬包をじっと見つめるの。通訳だからお見通しだよ」


 景光はちいさく息を吐き、ようやく一本の薬包を手にとった。


その時、典薬寮の入り口から、革帯が擦れる硬い音が近づいてきた。


 源清重だ。いつも通り気配は薄いが、その歩調はいつもよりわずかに速い。


 「景光殿、少し外へ」


 清重は景光と綾子を見据え、声を潜めた。


 「惟忠殿から緊急の呼び出しです。……今度は、内裏の女房が一人、倒れた」


 通されたのは、後宮の一角にある小奇麗な対のたいのやだった。


 御簾の向こうで、一人の若い女房が寝台に横たわっている。付き添っているのは、見覚えのある美しい姿――菅原朝葉だった。


彼女は景光の姿を見ると、すがるような目で御簾から顔を覗かせた。


 「景光様…!よくぞ来てくださいました」


 「朝葉。倒れたのは誰だ」


 「私の同僚の女房です。昼下がりに急に胸を掻きむしって苦しみ出し、今は意識が……」


 朝葉はそう言いながら、景光のすぐ後ろに立つ綾子へ視線を走らせた。その瞳に、一瞬だけ鋭いライバル心が宿る。


 「橘の娘さんも、またお連れなのですのね。このような内裏の奥まった場所、薬師の足元をすくうような噂話も絶えませんのに」


 「お気遣い痛み入ります、菅原の君」


 綾子は一歩前に出て、やわらかく、しかし隙のない笑みを返した。


 「ですが、景光の『言葉』を一番正確に拾えるのは私ですから。彼が職務に集中できるよう、今日も側でお仕えいたします」


 二人の間に流れる火花に、景光はやはり一瞥もくれなかった。彼はすでに、部屋に漂う匂いに全神経を注いでいた。


 景光は膝をつき、御簾を少し持ち上げて横たわる女房に近づいた。


 部屋には、朝葉が焚いたのであろう、上品な薫物の匂いが残っている。だが、その華やかな香りの奥底から、別の「異物」が立ち上っていた。


 じっと息を吸い込む。


 (これは……)


 「景光殿、何かわかりましたか」と、背後から清重が声をかける。


 「……曼陀羅華まんだらげだ」


 景光は顔を上げた。


 「いや、それだけじゃない。香司の帳面から盗まれた配合が使われている。以前下男が盗もうとした、特定の香料と雄黄、そして曼陀羅華を混ぜて幻覚を引き起こす『あの呪いの香』だ。それがこの部屋で焚かれた」


 「なんですって!?」


 朝葉が短く悲鳴をあげた。


 「では、彼女は呪われたのではなく、誰かに毒を……?」


 「そうだ」


 景光は立ち上がり、部屋の隅にある香炉を検分した。しかし、香炉の中の灰は新しく、綺麗に掃除された後だった。証拠となる燃え残りは一切ない。


 「清重、部屋を検めろ。犯人は足跡を消すのが早い」


 「承知」


 清重は鋭い目を走らせ、部屋の調度品や床のわずかな歪みを調べ始めた。


 「おかしいね」


 綾子が香炉の周りを見つめながら呟いた。


 「香司の帳面は、私たちが取り戻したはずだよ? 下男も捕まった。なのに、どうして同じ配合の香がここで焚かれているの?」


 「……書き写されていたのだろう」


 景光は冷ややかに言った。


 「あの下男が捕まる前に、あるいは別の密偵が、すでに帳面の中身を物部側に渡していた。帳面そのものを盗み出そうとしたのは、こちらに『盗まれた』と錯覚させて警戒の目をそらすための罠、あるいはただのトカゲの尻尾切りだ」


 物部貞文。その重鎮の恐ろしさが、じわりと部屋の空気を重くしていく。


 「見つけました」


 清重が部屋の隅、御簾の紐が擦れる柱の根元を指差した。


 「微かに、白い粉が落ちています。香炉の灰を片付ける際に、急いで零した跡です。……それと、この柱の傷。右利きの人間が、慌てて衣の帯の金具をぶつけたような凹みがあります」


 「背丈は?」と景光が聞く。


 「傷の位置からして、中くらいか、やや小柄な人間です。女房か、あるいは小柄な官人」


 景光はその柱の根元に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。


 「白檀、雄黄……そして、かすかに『別の女房の香』が混ざっている。この部屋の主の匂いじゃない。もっと刺すような、きつい丁子の香だ」


 「丁子の香……」


 朝葉がはっとしたように口元を押さえた。


 「心当たりがあるのか」景光が問う。


 「ええ……。少し前に、物部様のお屋敷に出入りしている別の女房が、これと全く同じ、きつい丁子の香をさせて私の周りを嗅ぎ回っていましたわ。彼女、物部様の『耳目』として動いているという噂がありますの」


 綾子が朝葉の言葉を補完するように言った。


 「その女房なら私も噂を耳にしたことがあります。最近、宮中の備品を管理する蔵に不自然に出入りしていたって。……景光、その丁子の匂い、まだ追える?」


 「ああ」


 景光は薬箱を肩にかけ、部屋を出た。


 「風は北へ向かっている。匂いが薄れる前に叩く」


 通路を早足で進む三人の影。

 宮中の渡り廊下の角を曲がったその時、景光の鼻が明確な「丁子」の香を捉えた。


 「そこだ」


 景光の視線の先、足早に歩み去ろうとする一人の女房の背中があった。清重が風のように前に出、その女房の行く手を遮る。


 「お待ちいただこう」


 「な、何事ですか! 私は物部様に仕える身。無礼は許されませんぞ!」


 女房は鋭い声をあげて清重を睨みつけたが、清重は微動だにせず、その右手の袖口をじっと見つめた。


 「袖口に、白い灰がついていますね。急いで香炉を片付けた際にかぶったものだ。……そして、あなたの帯の金具、少し歪んで傷がついていませんか」


 女房の顔がみるみるうちに青ざめていく。

 景光がその前に立ち、静かに言い放った。


 「お前の体から、部屋で焚かれた曼陀羅華と雄黄の匂いが、染み付いて離れていない。どれだけ丁子の香で隠そうとしても、私の鼻は騙せない」


 「くっ……!」


 女房は言い逃れができないと悟ったのか、不気味な笑みを浮かべた。


 「ふん……薬師の分際で、少し鼻が利くからと調子に乗るな。私を捕らえたところで、物部様の絵は止まらない。宮中は間もなく、大いなる混沌に包まれるのだから!」


 女房は清重の手によって検非違使へ引き渡された。


 倒れた女房には、景光が素早く調合した解毒薬が投与され、幸いにも一命を取り留めた。


 夕刻、安倍惟忠の屋敷。


 報告を受けた惟忠は、机をきつく叩いた。


 「物部は、捕まることを恐れていない。次々と手駒を使い、宮中に『呪い』による疑心暗鬼を植え付けようとしている。……景光殿、君の存在が、いよいよ奴らにとって最大の障壁となってきたな」


 惟忠は景光をまっすぐに見つめた。


 「貞文の耳には、すでに君の名が深く刻まれているはずだ。これからは、より直接的な手段で君を消しにかかるかもしれん」


 「構いません」と景光は無表情に答えた。


 「私は薬師です。私の領分を汚す毒がある限り、それを嗅ぎ分けるだけです」


 清重がその横で、低く笑った。


 「その頑固さ、嫌いではありませんよ。――惟忠殿、私も腹をくくりました。この薬師の影として、どこまでもお供しましょう」


 帰り道、月が白く昇り始めていた。


 景光、綾子、清重の三人で歩く道。少し後ろから、朝葉が名残惜しそうにこちらを見送っている気配を、景光は匂いで感じていたが、やはり振り返ることはしなかった。


 「無事に解決、だね」


 綾子が少し伸びをしながら言った。


 「解決はしていない」と景光は前を見つめたまま言う。


 「物部の本尊はまだ動いていない。匂いは、ますます濃くなっている」


 「それでも」


と清重が半歩後ろから言葉を重ねる。


 「我々の火花も、確実に奴らの絵を焼き始めている。次がどう来ようと、見落としはしませんよ」


 景光は何も言わなかった。

ただ、夜風に混じる微かな生薬の匂いを確かめながら、確固たる足取りで歩き続けた。


 三人分の影が、月の光に照らされて、より深く、一つに重なっていくようだった。


          第6話「交錯する火花」 了

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