第5話「秘められた配合」
「香司の帳面、ですか」
安倍惟忠の屋敷で、清重が復唱した。
景光と綾子、そして清重から報告を受けた惟忠は、深く腕を組んで考え込んでいた。
部屋には、差し込む午後の光が白く帯を引いている。
「香司が管理する帳面には、宮中で使われるあらゆる香の『名香の配合』が記録されている」
「それ自体が莫大な価値を持つものだが……なぜ今、それが盗まれた?」
「問題は、残された灰に混ざっていた雄黄です」
景光は懐から、現場の香炉から密かに採取した灰の包みを取り出した。
「雄黄は微量なら解毒や魔除けの薬となるが、扱いを誤れば害をなす。そして何より、特定の香料と混ぜて熱すると、本来の香の匂いを全く変えずに、その成分だけを煙に混ぜることができる。つまり——」
「香のふりをして、誰かに気付かれずに薬を吸わせることができる、ということか」
惟忠の目が鋭くなった。
「帳面を盗んだ者は、宮中の誰が、いつ、どんな香を好んで焚いているかを調べている。狙った相手の香に、気付かれぬよう薬、あるいは毒を混ぜるために」
「香司の仕事場を検めましょう」
清重が提案した。
「帳面が盗まれたということは、まだ犯人はその配合を自分のものにして間もない。あるいは、現場に何か痕跡が残っている可能性があります」
「頼む」と惟忠はうなずいた。
「物部が動き出している今、宮中での毒殺など、何としても防がねばならん」
宮中の一角にある香司の工房は、さまざまな薫物の匂いが幾重にも重なり、独特の重い空気が漂っていた。
案内された部屋には、初老の香司が青い顔をして震えていた。
「まさか、あの帳面が盗まれるなど……。あれには、女御さまや公卿方の好まれる、門外不出の調合がすべて書き留められていたのです」
景光は部屋に入るなり、ゆっくりと鼻を動かした。
香料の甘く重い匂い。だが、その奥に——
「清重」
景光が短く呼ぶと、清重はすぐに景光の視線の先、帳面が置かれていたという棚へ向かった。
「足跡はありません。しかし、この棚の引き出しの取っ手……」
清重は指先を触れずに顔を近づけた。
「細い傷がついています。鍵を強引にこじ開けた跡です。手慣れた者の仕業ですね。ただの泥棒ではありません」
「匂いもある」と景光が続けた。「この部屋の香料ではない匂いだ。生薬の匂い……いや、これは『川の泥』の匂いだ」
「川の泥?」
綾子が小首を傾げた。
「宮中の中に、川の泥がつくような場所なんてある?」
「宮中の中にはない」と景光は言った。
「だが、宮中の『外』から忍び込んだ者なら、足元や衣の裾に残っている可能性がある。東三条の、あの堀の近くのように」
清重の表情が引き締まった。
「死体が見つかった、あの堀ですか。……繋がりましたね。あの空き家で口封じをされた男の仲間、あるいは物部の放った密偵が、まだこの宮中に入り込んでいる」
「裾に泥をつけたまま、香司の部屋に忍び込める人間」
綾子が顎に手を当てて考え込む。
「そんな怪しい人、普通なら門の警固で見つかるはずだよ。……あ、でも、宮中の修繕に入っている職人や、荷物を運ぶ下男なら、多少の泥がついていても怪しまれないかも」
「昨日から今日にかけて、この部屋に出入りした下人を調べよう」
清重が動き出そうとしたその時、景光が遮った。
「待て。その必要はない。匂いはまだ、それほど遠くへ行っていない」
景光は工房を出て、廊下を歩き始めた。
すれ違う女房や官人たちが、不審そうな目で景光を見る。だが、その後ろを鋭い眼光の武士・清重がぴたりとついて歩いているため、誰も文句は言えなかった。
「景光、どこへ行くの?」
「北の物置だ。あの泥の匂いは、日の当たらない、湿った場所に隠れようとしている」
通路が狭くなり、人通りが途絶えた宮中の最奥。古びた物置小屋の前に、景光は立った。
扉の隙間から漏れてくるのは、古い木材の匂いと、それに混ざる明確な『川の泥』、そして——かすかな雄黄の匂いだ。
清重が音もなく刀の柄に手をかけ、景光を背後に下がらせた。
「私が先に入ります」
清重が勢いよく扉を蹴り開けた。
「動くな!」
薄暗い小屋の中にいたのは、宮中の下男の着物を着たやせた男だった。男は懐に古びた帳面を抱え、窓から逃げようとしていたが、清重の電光石火の動きに退路を断たれ、その場にへたり込んだ。
「ひっ……!」
清重が男の腕をひねり上げ、懐から帳面を取り上げる。
「これだな」
景光は男に近づき、その手元を見た。男の指先は、雄黄の黄色い粉でうっすらと汚れていた。
「誰に頼まれた」
景光の問いに、男はガタガタと震えながら首を振った。
「知らねえ、顔は見てねえんだ! 夜中に東三条の堀端で、身なりのいい男から金を渡されて、これを盗み出せって言われただけだ! 香炉にあの粉を混ぜたのも、その男の指示だ!」
「身なりのいい男、か」
清重が冷ややかに言った。
「やはり道賢の件と同じですね。深い紫の裏地を着た男……物部貞文の懐刀だ」
「帳面は取り戻した」
景光は清重の手から帳面を受け取り、その匂いを嗅いだ。幸い、まだ中身が書き写された形跡はない。
「これで、誰かの香に毒が盛られるのは防げる」
綾子がほっと胸をなでおろした。
「よかった……。一歩間違えたら、宮中で大変なことが起きるところだったね」
下男は検非違使に引き渡され、事件はひとまずの解決を見た。
しかし、安倍惟忠に帳面を返還した際、惟忠の表情は晴れなかった。
「物部貞文の動きが、確実に早くなっている。今回は景光殿の鼻のおかげで未然に防げたが、次はどんな手を打ってくるか分からん」
惟忠は景光と清重を交互に見た。
「清重、引き続き景光殿の警護を。物部が本気で景光殿を『邪魔者』と認識すれば、その身に危険が及ぶ」
「はっ。命に代えましても」
清重は深く一礼した。
典薬寮への帰り道、夕暮れの空が赤く燃えていた。
「ねえ、景光」
綾子が並んで歩きながら言った。
「なんだ」
「香司の帳面を守ったってことは、さ。景光は、間接的に宮中のたくさんの人を救ったんだよ」
景光は前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「私はただ、薬種の悪用が気に入らなかっただけだ。雄黄を香に混ぜるような不届き者がな」
「ふふ、相変わらず素直じゃないね」
綾子が笑うと、その後ろを歩く清重が口を開いた。
「ですが、あなたのその『気に入らない』という執念が、この宮中の闇を暴く唯一の光になっているのは確かです。私はその目を、信じることにしましたよ」
景光は少しだけ歩調を早めた。
「勝手にしろ」
三人の影が、赤染まる道に長く伸びていく。
物部貞文の陰謀を、景光の嗅覚と清重の眼光が、少しずつ、だが確実に削り取ろうとしていた。
第5話「秘められた配合」了




