第4話「消えた伽羅」
朝の典薬寮は、薬の匂いで満ちていた。
甘草の甘さ。附子の鋭さ。当帰の土臭さ。景光にとって、それらは空気の一部だった。人が部屋に入れば匂いでわかるし、誰がどの薬に触れたかも、ある程度はわかる。
だからこそ、その日、最初に違和感を覚えたのは「薬」ではなかった。
香だった。
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「景光、聞いた?」
綾子が入ってくるなり言った。白梅の香が、薬の匂いの中に細く混じる。
「何をだ」
「宮中で大騒ぎ。高価な伽羅が盗まれたんだって」
景光の手が止まった。
薬包を棚に戻しながら、わずかに眉を動かす。
「どこの話だ」
「女御さまの御殿。昨夜、香合わせの会があったらしいの」
「伽羅が消えた?」
「そう。しかも、箱ごとじゃないんだって。中身だけ」
景光は何も言わなかった。
綾子は少し首を傾げる。
「……景光、香に興味あったっけ?」
「伽羅は薬にも使う」
「あ、そっか」
「それに——」
景光はそこで言葉を切った。
「それに?」
「今朝、典薬寮に来る途中で、妙な匂いがした」
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綾子が黙る。
景光が「妙だ」と言うときは、大抵ろくなことがない。
「どんな匂い?」
「伽羅に似ていた」
「似ていた?」
「だが違う」
景光は薬箱を閉じた。
「見に行く」
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女御の御殿は、典薬寮からそう遠くない。
ただ、宮中の奥へ近づくにつれて、空気の匂いが変わる。薬の匂いは薄れ、代わりに香の匂いが濃くなる。
白檀、沈香、丁子、麝香。
上等な香ほど、匂いは強くない。ただ、長く残る。
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御殿の前には、すでに人だかりができていた。
女房たちがひそひそと話し合い、役人らしい男たちが出入りしている。
その少し外れに、源清重が立っていた。
景光を見ると、すぐにこちらへ来る。
「やはり来ましたか」
「お前も呼ばれたのか」
「惟忠殿からです。『景光殿が動く気がするから見ておけ』と」
綾子が吹き出した。
「完全に読まれてるね」
景光は無視した。
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御殿の中は、まだ香の匂いが残っていた。
だが、景光は入った瞬間に足を止めた。
「違う」
「何がです」と清重が言う。
「昨日焚いた香じゃない」
近くにいた女房が怪訝そうな顔をした。
「何をおっしゃるのです。昨夜と同じ香を焚いておりますが」
景光は香炉に近づいた。
灰を見て、鼻を近づける。
一度だけ吸い込んで、顔を上げた。
「同じ匂いに似せているだけだ」
「そんなことがわかるの?」と綾子が小声で言った。
「わかる」
「どう違うんです?」と女房が言った。
景光は少し考えた。
「昨日の香には、もっと湿った甘さがあった。これは乾いている。伽羅の質が違う」
女房は困った顔をした。まるで、川の水の違いを説明されているような顔だった。
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清重が香炉を覗き込む。
「つまり、盗まれた後で、別の香を焚いて誤魔化した?」
「そうだ」
「でも、なぜそんなことをする」
景光は灰の中を指先で軽く探った。
そして、ほんのわずかな粉を摘み上げる。
「……おかしい」
「何が?」
「香だけじゃない匂いがする」
景光は粉を鼻先へ持っていった。
一瞬で表情が変わる。
それは以前、毒を見つけた時と同じ顔だった。
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「雄黄だ」
部屋が静まった。
綾子が聞き返す。
「薬の雄黄?」
「ああ。しかも、ごく微量だ」
清重の目が細くなる。
「香に混ぜるものなのか」
「普通は混ぜない」
景光は灰をもう一度確かめた。
「だが、混ぜれば煙と一緒に部屋中へ広がる」
「……それって」
綾子が言葉を止める。
景光が代わりに言った。
「誰かが、香を使って薬を撒こうとしている」
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その瞬間、御殿の外で女房たちがざわめいた。
「帳面がない!」
「香司の帳面が消えてる!」
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景光と清重が同時に顔を上げた。
二人の視線がぶつかる。
綾子だけが、そのタイミングの一致に気づいていた。
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「伽羅じゃない」と景光が言った。
「え?」
「本当に盗まれたのは、香そのものじゃない」
景光は灰のついた指を見つめた。
「配合の記録だ」
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──第四話「消えた伽羅」了──




