表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/28

第3話「第一発見者」

朝の典薬寮は、まだ静かだった。


 景光はいつものように薬棚の前に立っていた。道賢の一件以来、棚の中身を毎朝確かめるのが習慣になった。以前は匂いで十分だった。今は手でも確かめる。一つずつ薬包を持ち上げて、重さと匂いを照合する。


 「まだやってるの」


 綾子の声が後ろから来た。白梅の香。いつもと同じだ。


 「終わったところだ」


 「嘘。まだ半分でしょ」


 景光は答えなかった。綾子の方が正しかった。


---


 足音が近づいてきた。


 白梅ではない。革と汗と、かすかな土の匂い。武士の匂いだ。


 「清重か」と景光は振り返らずに言った。


 「匂いでわかるのか」


 源清重は入口に立っていた。腕を組んで、景光の背中を見ている。


 「武士は武士の匂いがする」


 「それは褒めているのか」


 「事実を言っている」


 清重は少しだけ口の端を上げた。笑いではない。ただ、不快でもないという意味の表情だった。


---


 「惟忠殿からだ」と清重は言った。「見てほしいものがある、と」


 「また毒か」


 「死体だ」


 景光の手が止まった。薬包を棚に戻す動作が、一瞬だけ遅れた。


 「場所は」


 「東三条の外れ。堀に面した空き家だ」


 景光は薬箱を手に取った。


 綾子がすでに支度を始めていた。景光が行くと決める前に。


---


 三人で歩くのは、まだ慣れない。


 景光と綾子の二人なら、綾子が喋って景光が黙っていればよかった。そこに清重が加わると、沈黙の質が変わる。景光の沈黙は考えている沈黙だ。清重の沈黙は見ている沈黙だ。同じ黙りでも、違う。


 「死体って、誰なんですか」と綾子が清重に聞いた。


 「わからない。今朝、堀の掃除をしていた下男が見つけた。首を吊った状態で」


 「自殺……」


 「そう見える、と報告があった」


 景光は何も言わなかった。歩きながら、風の匂いを嗅いでいた。


---


 空き家は半分崩れかけた板葺きの建物だった。


 堀の水が近い。腐った草の匂いと、泥の匂い。それらに混じって——別のものが来た。景光は足を止めた。


 「どうした」と清重が言った。


 「匂いがする」


 「死体のか」


 「それもある。だがもう一つ」


 景光はそのまま歩を速めた。清重が黙ってついてきた。綾子も。三人の足並みが、意識しないまま揃っていた。


---


 中に入った。


 男が梁から吊られていた。着物は地味で、年は三十前後か。顔は見えない。背中を向けている。


 検非違使の下役が二人、入口近くに立っていた。景光を見て、少し怪訝な顔をした。


 「薬師殿が何用です」


 「安倍惟忠殿の依頼だ」と清重が答えた。「診てもらう」


 下役は清重の腰の刀を見て、それから景光を見た。何か言いかけたが、やめた。


---


 景光は死体に近づいた。


 まず匂いを嗅いだ。死後の匂いはある。だが時間はそれほど経っていない。半日か、一日か。


 首の縄を見た。麻の縄。結び目は——


 「清重」


 景光が呼んだ。清重がすぐに横に来た。


 「この結び目を見てくれ」


 清重は目を細めた。結び目を見て、縄の繊維を見て、それから梁にかかっている部分を見た。


 「……結んだのは本人じゃない」


 「なぜわかる」


 「結び目の向きだ。右利きの人間がこの梁に縄をかけるなら、結び目はもっと左に寄る。これは——別の人間が、外から結んでいる」


 景光はうなずいた。


 「匂いも合わない」


 「どう合わない」


 「首を吊った人間は、最後に体が強張る。汗の質が変わる。この男にはそれがない。死んでから吊られている」


---


 下役たちが顔を見合わせた。


 「……死んでから?」


 景光は振り返らずに言った。


 「この男は自殺じゃない。殺されてから、ここに吊るされた」


 部屋が静まった。


 綾子が景光のそばに来た。小声で聞いた。


 「確実?」


 「確実だ」


---


 景光は男の手を取った。


 指先を確かめる。爪の下。手のひらの色。腕の内側。


 「毒はない」と景光は言った。「外傷もない。ただ——」


 首の後ろに手をやった。


 「ここだ」


 首の付け根、髪に隠れた部分に、小さな圧痕があった。強く押されたあとだ。


 「一撃で意識を落とされた。その後で首を吊られた。縄の痕が浅いのはそのためだ。生きている間に吊られたなら、もっと深い痕が残る」


 清重が圧痕を覗き込んだ。


 「……武術の心得がある人間だな。この位置を正確に打てるのは」


 「わかるのか」


 「わかる。私もできる」


 景光は清重を見た。清重は景光を見た。二人の間に、何か通じるものがあった。言葉にはならないが——互いの判断を信じている、という沈黙。


 綾子はそれを横で見ていた。


---


 「この男が誰なのかが問題だ」と清重が言った。


 景光は男の着物を調べた。懐に何もない。腰にも何もない。身元を示すものが意図的に取り除かれている。


 「名前を消されている」と景光は言った。


 「口封じか」と清重が言った。


 景光は答えなかった。だが否定もしなかった。


---


 綾子が動いた。


 下役たちに近づいて、今朝この死体を見つけた下男の話を聞き始めた。景光は男の着物の匂いを嗅いでいた。


 「清重」


 「なんだ」


 「この男の衣、見てくれ」


 清重が着物に目を落とした。


 「……裏地か」


 「ああ」


 着物の裏地に、かすかに染料の痕があった。表は地味な色だが、裏地に染め直した跡がある。元はもっと良い布だった。


 「良い布を染め直して、身分を隠している」と清重は言った。


 「この染料の匂いに、覚えがある」


 清重が景光を見た。


 「どんな覚えだ」


 「典薬寮の近くにある染物屋の匂いだ。宮中に出入りする人間が使う店」


 「宮中の人間か、この男は」


 「少なくとも、宮中に近い場所にいた人間だ」


---


 綾子が戻ってきた。


 「下男の話、聞いてきた。今朝、日が出る前にこの小屋の前を通ったら、中から何か垂れていたのが見えたって。怖くなって検非違使に知らせたと」


 「昨夜のうちに運び込まれた、ということだ」と景光は言った。


 「それと——もう一つ」と綾子が続けた。「下男が言ってたんだけど、昨夜遅く、この辺りで牛車を見たって。この場所に牛車が来ることは普通ないらしい」


 清重の目が動いた。


 「牛車か」


 「うん。ただ、暗かったから細かいことはわからないって」


 「紋は」


 「見えなかったって」


 清重は少し考えてから、景光を見た。


 「牛車を使える人間は限られる。この辺りに用がある牛車なら、なおさら」


---


 三人は空き家を出た。


 日が高くなっていた。堀の水面が光を返している。景光は歩きながら考えていた。


 典薬寮の薬の差し替え。道賢。道賢に毒を融通した人間。深い紫の裏地。そしてこの死体——宮中に近い場所にいた人間が、口封じされて、自殺に見せかけられた。


 「繋がっている」と景光は言った。


 清重がすぐに反応した。


 「道賢の件とか」


 「ああ。この男が道賢に毒を渡した人間か、その周辺の人間かはまだわからない。だが——匂いが繋がっている」


 「匂いが?」


 「この男の衣に残っている匂いの中に、道賢の部屋で嗅いだのと同じものがある。白檀と——もう一つ、独特の練香の匂い。上等なものだ。宮中でも限られた筋しか使わない」


 清重は黙った。何かを考えている顔だ。


 「景光。一つ、気になることがある」


 「なんだ」


 「道賢は引き渡されて、典薬寮の件は片がついた。それなのに口封じが起きた。つまり——」


 「道賢の件が片づいたこと自体が、誰かにとって都合が悪い」


 「そうだ。典薬寮の信用を落とす工作は、もっと大きな絵の一部だった。その絵を描いた人間が、痕跡を消しにかかっている」


 綾子が二人の顔を見た。


 「……大きい話になってきたね」


 景光は答えなかった。


---


 惟忠への報告は、前回より長くなった。


 死体のこと。自殺ではないこと。首の圧痕。着物の裏地。宮中に近い人間であること。道賢の件との繋がり。牛車。


 惟忠は最後まで黙って聞いた。


 「……つまり」と惟忠は言った。「道賢を使って典薬寮を狙った人間は、まだ動いている。そしてその人間は、宮中の上の方にいる」


 「断定はできない」と景光は言った。「ただ、匂いはそちらを向いている」


 惟忠は少し考えた。


 「牛車の紋を調べさせる。それと——」


 惟忠は清重を見た。


 「清重。この件は長くなるかもしれない。景光殿の傍についていてくれ」


 清重は一瞬だけ景光を見た。


 「承知しました」


 景光は何か言いかけて、やめた。


---


 屋敷を出たとき、綾子が言った。


 「清重さん、正式に同行になったね」


 「そうなったな」と清重が答えた。


 「景光は?」


 景光は歩き出していた。


 「……勝手にしろ」


 綾子は笑った。清重は笑わなかった。ただ、景光の半歩後ろについた。


---


 その夜、景光は薬棚の前にいた。


 日課の確認はもう終わっている。ただ、立っていた。匂いの中にいたかった。


 典薬寮の薬を差し替えた犯人は捕まった。だが、その背後の人間が、別の誰かを殺した。景光が動いたから——あるいは景光が動いたこととは関係なく——人が死んだ。


 「薬師の仕事の範囲を超えている」


 独り言だった。誰にも聞こえない声で。


 だが——匂いがある限り、景光はそれを無視できない。嗅ぎ分けた以上、知らないふりはできない。それが景光の性分だった。自分で選んだわけではない。ただ、鼻がそうなっている。


---


 同じ頃。


 宮中の奥、灯りの落ちた部屋で、一人の男が報告を受けていた。


 「始末しました」


 報告したのは、身なりの整った中年の男だった。声を低くして、扇の陰から話している。


 「道賢に繋がる線は断ちました。検非違使は自殺と処理するでしょう」


 聞いている男は、扇を閉じたまま動かなかった。


 「ただ——一つ」


 「なんだ」


 「薬師が一人、嗅ぎ回っております」


 沈黙があった。灯りが揺れた。


 「薬師か」


 「典薬寮の清原景光という者です。匂いで毒を嗅ぎ分けると。安倍惟忠に使われているようです」


 男は扇を持ち上げた。ゆっくりと、開いた。顔の下半分が扇の陰に隠れている。目だけが見えた。


 「……鼻の利く薬師か」


 物部貞文は、その名前を初めて聞いた。


 扇を閉じた。音はしなかった。


 「放っておけ。薬師が何を嗅いだところで、届く場所ではない」


 「しかし——」


 「私が動くような相手ではない」


 報告者は頭を下げた。


 貞文は閉じた扇を膝の上に置いた。


 灯りがまた揺れた。


 「——今のところは」


 その一言は、誰にも聞こえなかった。



           第3話「第一発見者」 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ