第3話「第一発見者」
朝の典薬寮は、まだ静かだった。
景光はいつものように薬棚の前に立っていた。道賢の一件以来、棚の中身を毎朝確かめるのが習慣になった。以前は匂いで十分だった。今は手でも確かめる。一つずつ薬包を持ち上げて、重さと匂いを照合する。
「まだやってるの」
綾子の声が後ろから来た。白梅の香。いつもと同じだ。
「終わったところだ」
「嘘。まだ半分でしょ」
景光は答えなかった。綾子の方が正しかった。
---
足音が近づいてきた。
白梅ではない。革と汗と、かすかな土の匂い。武士の匂いだ。
「清重か」と景光は振り返らずに言った。
「匂いでわかるのか」
源清重は入口に立っていた。腕を組んで、景光の背中を見ている。
「武士は武士の匂いがする」
「それは褒めているのか」
「事実を言っている」
清重は少しだけ口の端を上げた。笑いではない。ただ、不快でもないという意味の表情だった。
---
「惟忠殿からだ」と清重は言った。「見てほしいものがある、と」
「また毒か」
「死体だ」
景光の手が止まった。薬包を棚に戻す動作が、一瞬だけ遅れた。
「場所は」
「東三条の外れ。堀に面した空き家だ」
景光は薬箱を手に取った。
綾子がすでに支度を始めていた。景光が行くと決める前に。
---
三人で歩くのは、まだ慣れない。
景光と綾子の二人なら、綾子が喋って景光が黙っていればよかった。そこに清重が加わると、沈黙の質が変わる。景光の沈黙は考えている沈黙だ。清重の沈黙は見ている沈黙だ。同じ黙りでも、違う。
「死体って、誰なんですか」と綾子が清重に聞いた。
「わからない。今朝、堀の掃除をしていた下男が見つけた。首を吊った状態で」
「自殺……」
「そう見える、と報告があった」
景光は何も言わなかった。歩きながら、風の匂いを嗅いでいた。
---
空き家は半分崩れかけた板葺きの建物だった。
堀の水が近い。腐った草の匂いと、泥の匂い。それらに混じって——別のものが来た。景光は足を止めた。
「どうした」と清重が言った。
「匂いがする」
「死体のか」
「それもある。だがもう一つ」
景光はそのまま歩を速めた。清重が黙ってついてきた。綾子も。三人の足並みが、意識しないまま揃っていた。
---
中に入った。
男が梁から吊られていた。着物は地味で、年は三十前後か。顔は見えない。背中を向けている。
検非違使の下役が二人、入口近くに立っていた。景光を見て、少し怪訝な顔をした。
「薬師殿が何用です」
「安倍惟忠殿の依頼だ」と清重が答えた。「診てもらう」
下役は清重の腰の刀を見て、それから景光を見た。何か言いかけたが、やめた。
---
景光は死体に近づいた。
まず匂いを嗅いだ。死後の匂いはある。だが時間はそれほど経っていない。半日か、一日か。
首の縄を見た。麻の縄。結び目は——
「清重」
景光が呼んだ。清重がすぐに横に来た。
「この結び目を見てくれ」
清重は目を細めた。結び目を見て、縄の繊維を見て、それから梁にかかっている部分を見た。
「……結んだのは本人じゃない」
「なぜわかる」
「結び目の向きだ。右利きの人間がこの梁に縄をかけるなら、結び目はもっと左に寄る。これは——別の人間が、外から結んでいる」
景光はうなずいた。
「匂いも合わない」
「どう合わない」
「首を吊った人間は、最後に体が強張る。汗の質が変わる。この男にはそれがない。死んでから吊られている」
---
下役たちが顔を見合わせた。
「……死んでから?」
景光は振り返らずに言った。
「この男は自殺じゃない。殺されてから、ここに吊るされた」
部屋が静まった。
綾子が景光のそばに来た。小声で聞いた。
「確実?」
「確実だ」
---
景光は男の手を取った。
指先を確かめる。爪の下。手のひらの色。腕の内側。
「毒はない」と景光は言った。「外傷もない。ただ——」
首の後ろに手をやった。
「ここだ」
首の付け根、髪に隠れた部分に、小さな圧痕があった。強く押されたあとだ。
「一撃で意識を落とされた。その後で首を吊られた。縄の痕が浅いのはそのためだ。生きている間に吊られたなら、もっと深い痕が残る」
清重が圧痕を覗き込んだ。
「……武術の心得がある人間だな。この位置を正確に打てるのは」
「わかるのか」
「わかる。私もできる」
景光は清重を見た。清重は景光を見た。二人の間に、何か通じるものがあった。言葉にはならないが——互いの判断を信じている、という沈黙。
綾子はそれを横で見ていた。
---
「この男が誰なのかが問題だ」と清重が言った。
景光は男の着物を調べた。懐に何もない。腰にも何もない。身元を示すものが意図的に取り除かれている。
「名前を消されている」と景光は言った。
「口封じか」と清重が言った。
景光は答えなかった。だが否定もしなかった。
---
綾子が動いた。
下役たちに近づいて、今朝この死体を見つけた下男の話を聞き始めた。景光は男の着物の匂いを嗅いでいた。
「清重」
「なんだ」
「この男の衣、見てくれ」
清重が着物に目を落とした。
「……裏地か」
「ああ」
着物の裏地に、かすかに染料の痕があった。表は地味な色だが、裏地に染め直した跡がある。元はもっと良い布だった。
「良い布を染め直して、身分を隠している」と清重は言った。
「この染料の匂いに、覚えがある」
清重が景光を見た。
「どんな覚えだ」
「典薬寮の近くにある染物屋の匂いだ。宮中に出入りする人間が使う店」
「宮中の人間か、この男は」
「少なくとも、宮中に近い場所にいた人間だ」
---
綾子が戻ってきた。
「下男の話、聞いてきた。今朝、日が出る前にこの小屋の前を通ったら、中から何か垂れていたのが見えたって。怖くなって検非違使に知らせたと」
「昨夜のうちに運び込まれた、ということだ」と景光は言った。
「それと——もう一つ」と綾子が続けた。「下男が言ってたんだけど、昨夜遅く、この辺りで牛車を見たって。この場所に牛車が来ることは普通ないらしい」
清重の目が動いた。
「牛車か」
「うん。ただ、暗かったから細かいことはわからないって」
「紋は」
「見えなかったって」
清重は少し考えてから、景光を見た。
「牛車を使える人間は限られる。この辺りに用がある牛車なら、なおさら」
---
三人は空き家を出た。
日が高くなっていた。堀の水面が光を返している。景光は歩きながら考えていた。
典薬寮の薬の差し替え。道賢。道賢に毒を融通した人間。深い紫の裏地。そしてこの死体——宮中に近い場所にいた人間が、口封じされて、自殺に見せかけられた。
「繋がっている」と景光は言った。
清重がすぐに反応した。
「道賢の件とか」
「ああ。この男が道賢に毒を渡した人間か、その周辺の人間かはまだわからない。だが——匂いが繋がっている」
「匂いが?」
「この男の衣に残っている匂いの中に、道賢の部屋で嗅いだのと同じものがある。白檀と——もう一つ、独特の練香の匂い。上等なものだ。宮中でも限られた筋しか使わない」
清重は黙った。何かを考えている顔だ。
「景光。一つ、気になることがある」
「なんだ」
「道賢は引き渡されて、典薬寮の件は片がついた。それなのに口封じが起きた。つまり——」
「道賢の件が片づいたこと自体が、誰かにとって都合が悪い」
「そうだ。典薬寮の信用を落とす工作は、もっと大きな絵の一部だった。その絵を描いた人間が、痕跡を消しにかかっている」
綾子が二人の顔を見た。
「……大きい話になってきたね」
景光は答えなかった。
---
惟忠への報告は、前回より長くなった。
死体のこと。自殺ではないこと。首の圧痕。着物の裏地。宮中に近い人間であること。道賢の件との繋がり。牛車。
惟忠は最後まで黙って聞いた。
「……つまり」と惟忠は言った。「道賢を使って典薬寮を狙った人間は、まだ動いている。そしてその人間は、宮中の上の方にいる」
「断定はできない」と景光は言った。「ただ、匂いはそちらを向いている」
惟忠は少し考えた。
「牛車の紋を調べさせる。それと——」
惟忠は清重を見た。
「清重。この件は長くなるかもしれない。景光殿の傍についていてくれ」
清重は一瞬だけ景光を見た。
「承知しました」
景光は何か言いかけて、やめた。
---
屋敷を出たとき、綾子が言った。
「清重さん、正式に同行になったね」
「そうなったな」と清重が答えた。
「景光は?」
景光は歩き出していた。
「……勝手にしろ」
綾子は笑った。清重は笑わなかった。ただ、景光の半歩後ろについた。
---
その夜、景光は薬棚の前にいた。
日課の確認はもう終わっている。ただ、立っていた。匂いの中にいたかった。
典薬寮の薬を差し替えた犯人は捕まった。だが、その背後の人間が、別の誰かを殺した。景光が動いたから——あるいは景光が動いたこととは関係なく——人が死んだ。
「薬師の仕事の範囲を超えている」
独り言だった。誰にも聞こえない声で。
だが——匂いがある限り、景光はそれを無視できない。嗅ぎ分けた以上、知らないふりはできない。それが景光の性分だった。自分で選んだわけではない。ただ、鼻がそうなっている。
---
同じ頃。
宮中の奥、灯りの落ちた部屋で、一人の男が報告を受けていた。
「始末しました」
報告したのは、身なりの整った中年の男だった。声を低くして、扇の陰から話している。
「道賢に繋がる線は断ちました。検非違使は自殺と処理するでしょう」
聞いている男は、扇を閉じたまま動かなかった。
「ただ——一つ」
「なんだ」
「薬師が一人、嗅ぎ回っております」
沈黙があった。灯りが揺れた。
「薬師か」
「典薬寮の清原景光という者です。匂いで毒を嗅ぎ分けると。安倍惟忠に使われているようです」
男は扇を持ち上げた。ゆっくりと、開いた。顔の下半分が扇の陰に隠れている。目だけが見えた。
「……鼻の利く薬師か」
物部貞文は、その名前を初めて聞いた。
扇を閉じた。音はしなかった。
「放っておけ。薬師が何を嗅いだところで、届く場所ではない」
「しかし——」
「私が動くような相手ではない」
報告者は頭を下げた。
貞文は閉じた扇を膝の上に置いた。
灯りがまた揺れた。
「——今のところは」
その一言は、誰にも聞こえなかった。
第3話「第一発見者」 了




